第二章 クリス・サン・エーデルシュタイン編

第8話 私の使命


 ずっとこの日を待っていた。今日はリオンから魔法を教わる記念すべき最初の日だ。

 リオンの魔法の稽古はクリスと共に、この広いヴィエルジュ家の敷地内で行われる。リオンの指示にて動きやすい軽装とのことで、ドレスはやめておいた。

 軽装に身を包むディアは誰よりも早く屋敷の庭でストレッチをする。それもそのはず。


「はぁ、今日はなんていいお天気なのかしら! 最高のリオクリ日和ね!」


 ディアはストレッチをしながら、満面の笑みを浮かべた。

 そう、今日はリオンとクリスの“絡み”を近くで拝める絶好の日なのだ。


 「黎明のリュミエール」の中では知的でちょっぴりサディストなリオン。対して子供っぽい一面もあり、お人好しで素直なクリスはなかなかに相性がいいとディアは勝手に思っている。

 尤も、ディアはどんなに相性が悪いキャラ同士でも想像力だけで強引にカップリング妄想することが可能なのだが……。


(どこまでも素直に自分を信頼するクリス様。そんな彼にリオンの加虐心がムクムクと育っていくの。クリス様が王族故に、リオンは己の感情をひた隠すけれど、ついに爆発して……嗚呼!! 今夜も同人誌の執筆が捗りそうだわ~!! タイトルは『氷の貴公子は太陽王子を虐めたいっ!』でいいかしらっ! あ、でもM気質なクリス様が逆にリオンに「僕を虐めてくれ」みたいな懇願から始まる導入でも……)


「ディア、早いな。偉いぞ」

「はうっ!? お、お兄様!」


 妄想の途中で声を掛けられてしまったため、変な声が出たディア。

 振り向くと、リオンがディアの頭に手を置いた。その表情はとても柔らかいものだ。本来の彼ならばこんな優しい顔をディアに向けることは決してないだろう。

 だがリオンと森でウッドサーペントを倒したあの日から、このように彼はディアへの態度を変えた。

 今までは「氷の貴公子」の通称通り、ディアに冷たく接してきた。話しかけただけで、睨まれ、怒鳴られる始末だ。


 しかし今は違う。今の彼は心からディアを妹として想ってくれているように見える。少なくとも話しかけても怒らなくなった。それどころか微かに口角を上げて、その氷の表情を溶かし、こうして「頭ポンポン」までするくらいだ。

 

 ……と、そこで屋敷の門から馬の嘶きが聞こえてくる。どうやらクリスが来たようだ。

 慌てて迎えに行けば、王族には珍しい軽装の彼が現れ、こちらに手を振った。ディアはそんなクリスに鼻を抑える。


(推しの新立ち絵キタ――――!! いつもよりも無防備な恰好に眩暈がしちゃう! 普段はしっかり隠されている胸元がとってもセクシーでキュート!! 鎖骨にこんなにエロスを感じさせる王子いる!? いないわよ!! 流石最推し! 天使! 尊い! 顔がいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!)


「ディア、リオン殿。待たせたね。今日はよろしく。色々学ばせていただくよ」

「クリス様。我が屋敷へいらっしゃいませ。こちらこそ今日はよろしくお願いします」

「リオン殿。僕の立場は関係ない。今は君に学ばせていただく側だからね。だから、師として堂々と指導してくれると嬉しい」

「はい。お心遣い感謝いたします」


 そんな談笑もほどほどに。さっそく今日の稽古が始まる。

 リオンはこほんと一つ咳をした。

 ディアは一体リオンがどのような稽古を始めるのか想像できなかった。ゲームでは、ヒロインもリオンから魔法を教わっていたものの、その内容は細かく描かれていなかったからだ。

 きっとリオンのことだから、魔法文字の座学から始まるのだろう。

 

 ──そんなディアの予想はあっさりと覆される。


「それでは二人とも、。今日の稽古はそれのみに尽きる」

「……はい?」


 ディアの口端がピクリとひくつく。


「魔法を使うには、魔力量も重要だが、一番重要なのはその消費に耐えうる体力だ。魔法の知識はその後でいい」

「お、お、お兄様……。私、産まれてこの方、長距離を走ったことなんて……」

「ディア。俺みたいな世界一の魔法使いになりたいんだろう? ちなみに俺も毎朝走っているぞ」


 と、そこでリオンが少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。

 リオンのサディストは、心を通わせ始めた主人公をからかったりする際に発揮されるものだが、今の彼にそんな甘酸っぱさは微塵も感じない。まるで魔王のような笑みでディアとクリスの様子を窺っている。

 一方、クリスの方はどういうわけかうんうんと頷いていた。


「なるほど。確かに魔法には体力をつけるのが一番だと、僕の師匠も言っていた。流石リオン殿。走るルートはどのように?」

「我が広大な敷地内を十周。それを継続するだけで、基礎体力は必ず向上します」

「分かった。よし、ディア! 一緒に頑張ろうね」

「え、え……えぇ?」


 やる気満々のクリスと比例して、ディアの顔は真っ青である。そのままがっくりと肩を落とす。


(こ、これじゃあ、じっくりとリオクリを拝むことなんてできないよぉ! お兄様の馬鹿ぁああ……!)




***




 推しが走っている。画面の向こうではなく、目の前で。

 推しが汗を流しながら、動いている。息をしている。生きている。

 オタクにとってはLIVE2Ⅾ技術やVR技術を駆使して人類が追い求め続けた理想郷。もう死んでもいい。そう思うオタクだっているはずだ。


 ──しかしそれは自分も一緒に走っている場合は別である。


「ディア! ペースが遅れているぞ! 足をしっかり上げろ!」

「ぜぇ、はぁ……。ぜ、前世でも今世でも、長距離なんて大嫌いなのにぃ!!」


 喉には既に血の味が滲んでいる。足が上がらない。

 リオンから「走れ」と言い渡されてから二十分が経過している。既にディアの頭はくらくらだった。リオンの催促の声が先ほどから止まない。


(っていうかやけにリオンが楽しそうな様子はなんなの!? その魔王のような表情から、今にも鞭を取り出して、私のお尻を叩いてきそうなんだけど!? そういうリオンのS要素いらないからぁ──!! 私じゃなくてクリス様に発揮してよ!!)


 ……と、そこで運動不足のディアの身体は悲鳴を上げ──ついに、限界を迎える。


「ほべっ」


 奇声を漏らし、ディアの身体は地面に倒れてしまった。それはもう、令嬢とは思えないほど無様に。


「ディア!」


 リオンが慌てて駆け寄ってくる。クリスとリオンが顔を覗き込んでいるのがうっすら見えた。


「ディア、大丈夫かい? ひとまず休もう」

「ほら、ディア。水を飲め。少し虐めすぎた。すまない」

「あ、ありがとうございます。クリス様、お兄様……」


 水を飲みながら、ディアはようやく一息ついた。しかし頭は回らない。今にも朝食を吐き出しそうだった。

 最悪の気分だ。ぼんやりとした頭の中でディアは小言を漏らす。


(私、どうしてこんなことをしているのかしら。そうだ、リオンから魔法を学ぶためだったわ。でも、そもそもどうして魔法を教わらないといけないの? こんなにきついこと、しなくていいじゃない……。この間だってガッツでなんとかなったし、こんなことしなくても大丈夫なのに……)


 あまりの息苦しさにディアの思考は自分の都合のいい方へと流れようとしていた。


 ──しかし、その時。


 息が止まった。

 自分への戒めなのか、ディアの脳裏に鮮麗な前世の記憶が過ったからだ。


 それはクリスを始めとする攻略対象キャラ達の「死亡スチル」。


 このスチルによって、ほとんどの「黎明のリュミエール」のファンは涙を流し、発狂したことだろう。バッドエンドの最期に一瞬だけ見える、キャラの白い肌に、血に染まった身体……思い出すだけで背筋が凍る。


(そうだ、そうだった……! 私の馬鹿! 私はこんな運動不足ごときで立ち止まっちゃいけないんだ。だって、主人公がいないこの世界で、彼らを救う知識を持っているのは私だけ! 私が絶対に守らないと! 前世の私はどんなに辛いことがあっても、「黎明のリュミエール」に救われてきた。今度は私がキャラクター達を、推し達を助けるんだ!)


 ディアは勢いよく自分の両頬を打った。辺りにパァンッと皮膚が弾ける音が響く。

 そしてそんな彼女の奇行に驚いているリオンとクリスを見上げ、ディアは微笑んだ。


「情けないところを見せてしまい、大変申し訳ございません。私は大丈夫ですので、もう少し稽古を続けてもいいですか?」

「え、ディア? 君はもう十分走ったよ。稽古はまた明日にしよう」

「いいえ、まだです! もう少しだけ! せめてあと百歩だけでも走らせてください!」

「あ、おい! ディア!?」


 リオンの制止の声を聞かず、ディアは走っていく。その足は先ほどとは違い、強い足取りだった。


「運動不足なんかに負けるものですか! 私は絶対に守護魔法を極めて、推しを守ってみせるんだからぁ――! ふぁい、おー!」


 そうだ、走れ。

 ここは自分の怠けが推しの生死に直結する世界なのだ。

 怠けている時間などない。


 ディアはその言葉を自分に言い聞かせ、走りぬいた。

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