第19話「危機」

 恋愛の最終到達点である結婚までしておいて、いまさら何を言っているんだと言われそうなんだけど、私はその時に夫シリルの顔を初めてまっすぐに見ることが出来たと思う。


 吟遊詩人がその部分を強調して謳(うた)ってしまうくらいに、その顔は端正に整っているし、彼の姿を見ただけで一目惚れする女性だって多いだろう。


 けれど、今間近にある彼の青い目の中。


 そこには、今まで直視(ちょくし)することが出来なかったくらいに、私への確かな愛情が溢(あふ)れていた。


 どうして。彼が言葉に出さずとも、こんなにもはっきりと見えているものを、私は見えないものとして疑えたのだろう。


 私が好きなシリルは、私のことを好きだ。二人の間にある気持ちを疑う余地なんて、何もないくらいに。


「……おい。そろそろ、もう良い? そちらのお熱い新婚夫婦。優しい俺は空気を読んで、だいぶ待ったつもり」


 言葉もなくじっと見つめ合っていた私たち二人にしびれを切らしたのか、ルーンさんの声がした。


 そうだった。


 さっきまで、逃げられない場所にまで追い詰められた私は、絶望的な気持ちで居たのに、シリルが助けてに来てくれたことが嬉しすぎて、この場になぜ自分が居るかも忘れてしまっていた。


「わ! ルーンさん! 結界から、出られたんですね。良かった!」


 声がした横の方に目を向けると、渋い表情をしていたルーンさんはなぜか扉の方を指し示した。


「おい。フィオナはこの部屋の中を、何も見るなよ。シリルは敵に対し人の心を持たないから、そういう奴だから……世界最強の勇者に、選ばれているから」


 確かにシリルはさっき、私に十秒目を閉じていてと言った。彼は私にそれを見せたくないから、そう言ったんだ。


 今は私を抱きしめているシリルの大きな体が視界のほとんど占めているけど、その向こうに見える光景は……ううん。それだけのことをしようとしたし……物を知らない私だって世の中が、綺麗事だけで済むなんて思っていない。


 この地下室の中、どんな惨状があったとしても。それはエミリオ・ヴェルデ本人の悪意が、そのまま彼に返って来ただけ。


「ルーン。ごめん。助けに来るの遅れた」


 悪気のない笑顔でシリルはにこにこ笑って、私の体を入ってきた扉の方向へと向けると肩を抱いて歩き始めた。


 反対側の私の隣を歩くルーンさんは魔力を吸い取られて気だるそうではあるけど、足取りもフラついていないし見たところは怪我もなさそう。


 彼を助けられて、本当に良かった。


「チッ。遅れて来て、良いとこ取りかよ。こっちは嫌な役やらされたわ。魔力もほぼない。お前、大丈夫なの。ベアトリスの張っていた国全体の結界を、肩代わりするとか」


 そういえば、ルーンさんが入っていた結界を彼が内側から壊してしまうと、聖女の張る国全体を覆っている結界にもほころびが出来るから、国民に被害を与えたくない彼はずっと出るのを我慢していたって言っていた。


「……うーん。俺にもやってやれない事はないと思っていたけど、想像以上にキツい。ルーンの魔力って、これ手伝えるくらいまでどの程度で回復する?」


 私の肩を抱きながら階段を登り始めたシリルは、そんなことを思っているなんて信じられないくらいに飄々とした態度だった。


「すぐは無理。半日は要る……ベアトリスの奴、容赦なく限界まで魔力を吸い取りやがって。魔塔を出て王の命令を聞かなくて良いなら、あいつとは絶対に会わない。もう二度と……絶対にだ」


 寄り添っている私たちの前を狭い階段を進んでいるルーンさんは、苦々しい表情で吐き捨てた。


 この前にも彼は、ベアトリス様には王の命令だから仕方なく会うと言っていた。


 聖女ベアトリス様のわがまま振りを目の当たりにした私も、彼の意見に賛同したい。出来るならば、一生会いたくない。


 あの人と会えば絶対に、嫌なことしか起こらない。


「俺も賛成。だが、今回は明らかにやり過ぎだから、父親のヴィオレ伯爵も庇(かば)いきれないんじゃないかな。自分の欲のため人の命を盾に何の罪もないフィオナを脅すなんて、あまりにもひど過ぎる」


 眉を寄せたシリルはさっき地下室であったことの怒りを、収まりきらない様子で話していた。


 そう言えば……シリルっていつからあの場所に居たんだろう。ううん。そうだ。なぜここに私が居ると、知ったんだろう。


「どうかねえ。あの娘にして、あの親ありだ。可愛い娘の悪事を有耶無耶にして終了なんて、いくらでもあっただろ。政治的に穏健派だったはずのフィオナの父ノワール伯爵が、横暴な要求ばかりのヴィオレ伯爵に表立って対抗するには訳がある……あの王さえ、もっとしっかりしてくれたら」


 大きくため息をついたルーンさんに、シリルは苦笑して言った。


「……まだ、若いからね。俺たちより、年下だ。経験も少ないのに彼に完璧を求めるのも、かわいそうだ」


「立場的にそんな甘いこと言っていて良いのか、わからないがな……おいおい。なぜか知らないけど、鍵が外側から掛かってるな。お前、どうやって入って来たの?」


 ようやく長い長い階段を登り切り、ようやく外に出られると思った時に、扉を開けようとしていたルーンさんがまた舌打ちをしたのが聞こえた。


「俺は、普通に入れたよ。その後で誰か閉めたんじゃない?」


 どこに閉じ込められていたとしても彼が居れば絶対に大丈夫だと思えるシリルは、なんてこともないように言った。


 ルーンさんがなんとか鍵を開けようとしている間に、私はシリルに気になっていたことを聞いてみることにした。


「……ねえ。シリル。どうして、ここに私が居るってわかったの?」


 すぐ傍に居たシリルは、彼の顔を見上げている私に優しく微笑んでから言った。


「ああ。ジャスティナ嬢が必死の形相で、仕事をしていた俺を呼びに来たんだ。君が結婚してからエミリオ・ヴェルデの様子が明らかにおかしいと思っていた彼女は、彼が執着していたフィオナに何かするんじゃないかと、気が気でなかったらしい。だから、自ら彼をずっと見張っていて、フィオナが攫われたと教えてくれたんだ」


「嘘……ジャスティナが? なんで」


 自ら見張るって……ジャスティナ、嘘でしょう。


 今はこの国の社交シーズンで、婚約前の令嬢には求婚者をつのるための将来に一番大事な時期なのに、何をしているの。


 私が信じられないと思いそう言えば、シリルは言葉を重ねた。


「なんでって……君たちは、誰よりも仲の良い親友だからじゃないの。きっと口の上手い悪い男に騙されて、お互いに何個か誤解はあったと思うけど……ジャスティナ嬢が君のことを大事に思っていたことは、俺が今ここに居ることで証明されていると思うけど」


「ああ……そんな」


 エミリオ・ヴェルデがいつ何をするなんてわからないから……きっと、大変だったと思う。


 けれど、朝も夜もあの子は私を心配して、見張っていてくれたんだ。あの人が私を狙っていることを、知っていたから。


「……おい」


 不意に聞こえた声に、私とシリルは前を向いた。彼は鍵を開けてくれたみたいで、扉の外には既に暗くなった空が見える。


「ルーン。鍵が開いたのか?」


「うん。まあ、扉は開いた。開いたけど……新たな危機、到来だ」


 シリルと私は外へと進み出たルーンさんを追って、前へと進んだ。


 空に浮かぶ大きな顔を見て、息をのんだ。モンスターの種類も何も知らない私にもあれが、何者かを理解出来る。


 絶対に人間にとって、良くないものだ。


「ベアトリスが張っていた結界を、俺が貼り直す一瞬の内に入り込んだか。魔王宮クラスのモンスターが王都まで侵入するのは、多分歴史上初になるかな。うん。まあ……俺は今あれを相手にするのは、さすがに無理かな」


「……最近、守護結界が不安定だったから、多分近くで入り込む機会を窺っていたんだな……勇者シリルは慣れない守護結界張って役立たずだし、魔法使いの俺も魔力がほぼなくて役立たず。揃いも揃って役立たずの英雄なんて、笑えないな」


 伝説の邪神のような大きな空に浮かぶ顔を見上げていた私は、この国の存亡の危機を前にして、まるで雨が降り出したねといったような淡々とした口調で二人が話す内容が信じられなかった。

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