第18話「別れたくない」

「……エミリオ・ヴェルデ。どんなに脅されても、私はこれから先、貴方を愛することはないわ」


 社交界デビュー当時、目の前でおかしなくらい明るい笑顔をしているこの男に声を掛けられて浮かれていた何も知らない自分に言ってあげたい。


 「それは救いがたいほどのクズだから、気に入られないうちに今すぐに走って逃げなさい」って。


「何を」


 彼の希望を聞くしか出来ない状況に追い詰め、完全に下に見ていた私がそんなことを言い出すなんて思ってもいなかったのか。


 今まで不気味な笑顔をしていたエミリオ・ヴェルデは、ぽかんとした間抜けな顔になっていた。


 あの夜。もし、シリルに会うまでの私がここに居たなら、きっとここで彼の言うことを聞くだけしか能のない操り人形のようになってしまっていたはずだ。


 けど、私は本当に伴侶として大事にされるということはどう言うことなのかを知り、真正面から愛してくれる彼をおそるおそるだとしても愛することを知っていた。


「貴方の要求どおりに、シリルと離婚して結婚はするわ。けれど、だからと言って貴方を決して愛することは絶対にないから。それを、事前に言っておきたいの。後から話が違うと言われても困るし、どんなにおどされて体をいいようにされても、私は絶対に思い通りにはならないわ」


 控えめな性格で大人しい私は一人では何も出来ないだろうと思っていたのか、聖女ベアトリス様もエミリオ・ヴェルデと同じような変な顔をしていた。


 あら……自分と同じように私が考えることの出来る人間であると言うことが、そんなに意外なことなのかしら。


 もしかして、強い人間に従うしか出来ない、自分とは違う種類の人間だとでも思われていたの?


「……貴方との結婚式のドレスも、この前に注文した、シリルが私にと買ってくれたものを着るわ。あれが、とても好きだもの……結婚した妻という役目さえ果たせば、あとは好きにさせてもらう。だって、私が本当に好きなのはシリルだもの……っ」


 シリルの隣で、あのドレスが着たかった。けど、出来ないなら、ドレスだけでもあのドレスで嫁ぎたかった。


 力も何もない自分のせいで何も出来なくて本当に情けなくて、気がつけば頬にはいく筋も涙がこぼれていた。


「っ……フィオナ」


 エミリオ・ヴェルデは怒っているのか、困っているのか、よくわからない青い顔をしていた。


 こんな私を思い通りにしたいと、無関係な人たちまで巻き込んだくせに。


「……私の名前を気安く、呼ばないで! それは私のことを何より大事にしてくれる両親が名付けてくれた、大事な名前なのよ。私のことを大切にしてくれる人にしか、呼ばれたくない……貴方になんか、絶対に呼ばれたくない!」


 しんとした地下室に、私の涙ながらの叫びが響いていた。


 みっともない? なんだって好きなように、言えば良い。


 だって、私はこれから、大事な人の命を盾に取られて、自分の人生を捧げることになるんだから。


 言いたいことを、言わせてもらうわ。


「……今の私の心に居るのは、シリルだけよ。貴方に傷つけられた私を、愛してくれたのはあの人で、私のことを何より大事にしてくれたもの。その場所は傍からいなくなったからって貴方になんて、埋めることは出来ないの。こうして、決して逆らえない条件でおどして無理やり結婚したからって、私の心まで思い通りに出来るなんて思わないで」


 しんとした地下室の中、なぜか皆何も言わないし動かない。突然あまりにも感情的になりすぎた私に、驚いているのかもしれない。


 けれど、こんな時に平静で居られる人なんて、居ないと思う。


「言う事には、ちゃんと従うわ。だから、私以外にはもう手を出さないで欲しい。けれど、絶対に愛することはないわ……私が愛している男性は、シリル・ロッソただ一人だけだもの」


「嬉しいな。俺もだよ。愛している。フィオナ」


 私はすぐ背後から聞こえた声に、信じられなくて……驚いて振り向いた。


「……シリル? 嘘でしょう。なんで、ここにいるの?」


 すぐ近くに居たのは、今は城の演習場に居るはずの私の夫だった。


 泣いていた私を安心させようとしてか、にこにことしたいつも通りの笑顔は見えるけど、目の奥にはまぎれもない激しい怒り。


「話は後だ。フィオナ。ごめん。十秒だけ、目をつむっていて。すぐに終わるよ」


 彼は大きな手を私の目に当てると、目を閉じたのを確認してから、傍から離れたようだった。


 私が彼の言った通りに数を数えている間に聞こえて来たのは、何かが破られるような大きくて高い音と、いくつかの悲鳴。


 何が起こっているのかとても気になったけど、シリルの言う通りに大人しく目を閉じていた。


 けど……どうして、シリルはここに居るのかしら?


 私はルーンさんが心配で探しに行こうと邸を留守にはしているけど、まだ心配を掛けるような時間は経っていないはず。


 外出する私が一緒に連れていた御者や護衛騎士たちは、全員エミリオ・ヴェルデに捕まっていたようだったし……来てくれて、本当に嬉しいけどどうして?


 やがてふわっと体全体を包む熱を感じたので、それが匂いで夫のシリルだとわかった私は彼の大きな体に抱きついた。


「シリル……シリルっ!! こわかった。こわかった!!」


 目を開ければやっぱりそこに居たシリルもぎゅうっと抱きしめてくれて、落ち着かせるように背中を何度も撫でてくれた。


「フィオナ。ごめんね。怖い思いをさせて。何もかも、俺のせいだ。ヴェルデ家とベアトリスには王に言って、厳罰を与えてもらうようにするよ……かわいそうに、フィオナ。こんなに泣いて。辛かったんだね」


 彼は私の頬に大きな手を当てて、難しい表情をしてそう言った。


「シリル。私、絶対に別れたくないっ」


 これまで私は、ずっとシリルに対して遠慮がちだったと思う。


 なぜかというと、やっぱりベアトリス様から逃げるという目的でもなければ、こんな私となんて彼は結婚してもらえないだろうと思っていた。


 けれど、シリルと別れなければならないという、絶体絶命の危機に直面して自分が彼のことがどんなに大切でどんなに好きかを、本当の意味で理解することが出来た。


 絶対に、彼と別れたくない。どんなに美人でもどんな素晴らしいものを持っている人でも、私は負け戦だとしても挑んで……シリルを誰にも渡したくないんだって。


「え? 何の話なの。俺もフィオナが好きだし、絶対別れたくないよ!」


 そう言って顔を近づけたシリルは、私の顎を持って可愛いキスをくれた。

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