第5話「聖女」

「……フィオナ。あれは、勇者シリル・ロッソでしょう? 貴女が特例を受けてとある高位貴族と既に結婚したと聞いていたけど、もしかして……その」


 ジャスティナは私がシリルと結婚したとはわかりつつ、私の口からそれを確認したいようだった。それはそうだろう。


 きっと、信じられないに違いない。


 自分よりずっとずっと後に結婚すると思っていた私が、こうして先に結婚し、しかもその相手が勇者で公爵位だって持っているもの。


「……ええ。そうなの。本当に急に決まったことだから……知らせてなくてごめんなさい」


 シリルには私と元々恋仲だったが、色々あってこの時に結婚することにしたことにしようとは言われていた。


 私たちは出会って交際初日に結婚を決めたことになるんだけど、聖女ベアトリスから逃げる言い訳でしたなんて誰かに説明する時に絶対に言えない。


 彼が急募していた結婚相手に私が応募したと真実を話しても、鼻で笑われてしまいそうだけど。


 けれど、親友のジャスティナに、嘘をつくことはためらわれた。だって、彼女は本当に姿もそうだけど、心まで美しい人だもの。


 裏切りたくは、なかった。


「まあ……そうなの。けれど、羨ましいわ。実は私、偶然城で勇者シリル様をお見かけしたことがあって……それからずっと、彼のファンだったの。だけど、貴女も色々事情があって、隠していたんでしょう?」


「えっ……ええ。そうなの。もしかして、ジャスティナは、シリルのことを前から知っていたの?」


 私は恥じらいながら頬を染めて話すジャスティナに、驚きを隠せなかった。だって、私はエミリオ様に憧れていると彼女に伝えた時も、彼女は「今は誰も男性としては気になっていない」と言っていたのに。


「呼び捨てなのね……いいえ。そうよね。貴女は彼の妻なのだから、名前を呼び捨てだって、当たり前だわ。良いわね。本当にシリル様は、素敵ですもの」


 本当に心から羨ましそうに語るジャスティナを見て、私は心の中にもやもやした感情が湧き上がるのを止められなかった。


 貴女とエミリオ様が、人目につかないように隠れて楽しそうに話している時に私が感じたくらいには……ショックを受けてくれたかしら?


「……フィオナ? こちらは?」


 私の頭の上から不意に声がして、ハッと上を向けばすぐ近くにシリルの整った顔があったので、慌ててその場から体を引こうとした。


「きゃっ」


「危ない。気をつけて」


 突然の動きについていけなかった高いヒールによろけそうになった私を、シリルは体を寄せてこともなげに支えてくれた。


 彼の体の熱を感じて、私の顔にはカアっと熱が集まった。


「ありがとう。シリル」


「どういたしまして。はい。冷たい飲み物」


 順番通りに役目を果たしていくようなシリルは、私に冷たい果実水が入ったグラスを渡してくれた。


「ごめんなさい。慌ててびっくりしてしまって。シリル……こちらは、私の幼馴染みで親友のジャスティナ・エリュトルンよ」


 何気なくシリルはジャスティナへと目を移し、私の想像では彼は美しい彼女を見て驚くのではないかと思っていた。


 ジャスティナを初めて見た男性は、大抵そうするから。


「初めまして。エリュトルン伯爵令嬢ですね。僕は魔王討伐を成功させた勇者として公爵位を与えられた、シリル・ロッソです。どうぞ、よろしくお願いします」


「こちらこそ! シリル様。私前から、勇者様のファンだったんです。お会い出来て本当に光栄です」


「それは、ありがとう。妻の仲の良い友人が、僕のような高貴な血も持たない新興貴族に好意的な方だと、とても助かります」


 シリルはジェスティナに、私の両親に接した時と同じようにこの場に応じた必要な挨拶を礼儀正しく淡々とこなした。


 その時に、私は思った。


 勇者シリルは、普通の男性ではない。美しいジャスティナを前にしても、全く心を動かさない。


 だって、ジャスティナを前にした年頃の男性が、彼女に対してどうにかして好意的に見てもらおうと必死になる様子を、それこそ数えきれないくらいに私は隣で見て来たからだ。


 その時、夜会の主催である国王が現れる先触れの音がして、ジャスティナは「また後でね」と名残惜しそうにしながらも去っていった。


「……あの、シリル」


「ん? 何? あ。せっかく持って来たから、飲み物飲んでね」


 私はシリルがわざわざ取りに行ってくれた果実水を、ずっとグラスをただ持ったままで飲んでいないことに気がついた。


 こくりと喉を鳴らして飲むと、彼は満足そうに頷いた。


「どう? フィオナ。少しは気分が良くなった?」


 彼は空になったグラスを取ると、ちょうど通りかかった給仕係のトレイへと置いて返していた。


「何も……思わなかったの?」


 あの、美しい親友ジャスティナを見ても、何も?


「何が?」


 私が何を言わんとしているのか、良くわからないという表情をしたシリルは本当に不思議そうだ。


 現れた国王が口上を始めたので、聞こえづらいと思った彼は顔を近づけて首を傾げている。


「あの、私のし……」


「シリル!!!」


 いきなり大きな声が聞こえて、私はとても驚いた。だって、今国王が話しているのに、そんな時にこんな傍若無人なことが出来るなんて。


 名前を呼ばれた当の本人であるシリルは良い笑顔のままで、舌打ちしたのが聞こえた。


「やあ、ベアトリス。とても久しぶり。元気にしてた? 相変わらず美しいね」


 シリルは今まで見たことのない嘘くさい笑顔を浮かべて、私たち二人の前に立っている女性へと声を掛けた。


 ああ。これが、例の聖女ベアトリス・ヴィオレ。


 聞きしに勝る、美しさを持つ聖女だった。金属のような豪奢な金髪は巻いて、意志の強そうな赤い目。


 こんな女神のような女性から迫られていたのに逃げていたなら、ジャスティナを見たからと何も思わないはずだと、妙に納得してしまった。


「つい、数日前。結婚、したんですって?」


「うん。そうなんだ。前々から交際していた、こちらのフィオナと。何か問題でも?」


「うちのお父様と犬猿の仲のノワール伯爵の、娘ですって!? 偽装結婚じゃないでしょうね!?」


 キッとこちらを睨みつける彼女に、私はドキッとして体全体も緊張してしまった。


 ベアトリス様の推測は、完全に的を射ている。彼女にだって、シリルに嫌がられ逃げ回られているという自覚があるのだろう。


 それならばキッパリと諦めればというのも、難しいのかもしれない。聖女の彼女には思い通りにならないことが、少なそうだから。


「そんなはずないじゃないか。俺は妻のフィオナを、心から愛している。だから、こうして夜会にだって、一緒にやって来たんだ……何か問題でも?」


 こちらを見つめたシリルは私の手を取り、まるで「大丈夫だ」と言わんばかりに大きな手で握った。


「結婚が私を黙らせるための嘘ではないという、証拠はあるの?」


 ベアトリス様は疑わしげで、不満いっぱいの様子だ。国を守る聖女という尊い立場を振りかざせば、王様だって自分の言いなりになる。


 なのに、本当に欲しい勇者シリルは、私と結婚してしまっているから。


「では、どう説明すれば、納得する?」


「……ここで、キスでもしてみてよ。出来るのならばね」


 いまだかつてキスなんて一回もしたことのない私は、その言葉が信じられなかった。だって、私たち結婚式だってしていないから、誓いのキスのふりさえもしていないのに。


 だから、私は夫のシリルが、聖女の横暴ににっこり微笑んだことを信じられなかった。


「そんなことで良いの?」


 シリルは私の顎に手を掛けて上向かせ、ためらうことなく唇を寄せた。


 私は驚きに目を見開いたままだったけど、彼は目を閉じたままだった。何故かやけにはっきりと彼の長いまつ毛が見えて、柔らかなものが唇に触れた。


 何度か角度を変えて熱い唇が触れたと思うんだけど、耳に悲鳴のような高い声が入り、それを合図にシリルはパッと離れた。


「もうやめなさいって、言ってるの……聞こえないの!!」


「……ベアトリス。子どもじみた癇癪(かんしゃく)を起こすのも、もういい加減にしてくれ。俺はもう既婚者なんだから、君の我がままに付き合うのはこれでおしまいだよ。俺がこれから一番大事にする女性は、妻フィオナだ。君じゃない」


「もうっ! 信じられないっ……!」


 そして、聖女ベアトリス・ヴィオレは足音も高らかに、会場を後にしていった。


「……シリル?」


 私は顔は多分真っ赤になってるし、頭の中は混乱していた。


 だって、初めてのキスが、こんなたくさんの人に見られながらになると思いもしていなくて。周囲にいた人はどう思うかなんて、どうでも良かった。


 そもそも、シリルが私にキスしてくれるなんて、思っていなかった。


「ん? あ。フィオナ。勝手にキスして、ごめんごめん。俺たち夫婦だし、どうせいずれするし、良いよね?」


 シリルは耳元でそう小声で囁くと、にっこりと微笑んだ。

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