コーヒーを飲む

「最近、豆を挽いてコーヒー飲んでるのよ」と自分の母より歳上の大先輩は話し始めた。某コーヒーチェーンの炭火焼コーヒーが美味しいという話から飛んだなあと思いながら、へえ、と相槌を打つ。

 間違えてコーヒー豆を買ってしまったらしい。店頭で間違えることはそうなさそうだから、通販で買ったのかもしれない。

「そのままじゃどうしようもないし、かと言って捨てるのも勿体無いから、まずUSBで充電できる電動のコーヒーミルを買ってね、……」

 値段を聞くと、ミルは二千円そこらだという。

「サイフォンなんてのも頭をよぎったけど、あれってお洒落だけど手入れが大変そうでしょう?私もアレだから、フィルターと一体になったコーヒードリッパーを見つけてそれを使ったのよ」

 へえ、そんなのがあるんですねと言葉を返しながら、一度も使っていないコーヒードリッパーと未開封のコーヒーフィルダーが家にあったことを思い出した。既に挽かれた粉コーヒーを買えばいいのに、一度も使っていないということは、当時は面倒臭さが勝ってしまっていたのだと思う。確かに面倒臭い。

「正直味の違いなんて明確には分からないのだけどね。インスタントコーヒーだって美味しいものいくらでもあるし」

 でもね、と大先輩は続ける。

「家で豆から挽いて飲んでいると、香るのよ」

「香る?」コーヒーなのだからコーヒーの香りはするだろう。

 大先輩が私の疑問を見透かすように言葉を被せた。

「──喫茶店の香りがするのよ」


 喫茶店の香りがする。

 ただそれだけで、面倒臭いだの何だのが全てがチャラになるのだと言いたげな表情だった。



 帰宅して一通りの家事を終えてソファにもたれながら、スマホで某通販サイト最大手のアプリを開いた。

 スーパーで3割引になっていたインスタントコーヒーを啜る。これだって十分に美味しい。湯を沸かして注ぐだけ。手軽だ。

 店のこだわりコーヒーは大体美味しい。プロフェッショナルが、こだわりのコーヒー豆を挽き、こだわりのサイフォンを使ってドリップしているのだから。だが美味しいと思う感情の半分くらいは自分が何もせず、ただ提供されたことによるのでは、と思わなくもない。

 実家の母はよくコーヒーを飲んでいるが、記憶の大半はインスタント珈琲を飲んでいる姿。ドリップしてる姿は片手で数えるほどの記憶しかない。豆を挽いている姿は、見たことがなかった。忙しそうだし、より手軽に飲める方を取ったのかもしれない。知らんけど。

 コーヒーミルと検索すると、大小様々なものが表示された。値段もピンキリだ。全く聞いたことがないメーカーもある。スマホ画面をスクロールしながら、暫し眺めていると、一度も使っていないドリッパーを作ったメーカーのコーヒーミルがあった。値段も安い。

 再びコーヒーを啜る。

 喫茶店の香りがする、という言葉には、とてつもない引力があった。ああ、試したい。

 飽きたら実家にコーヒーセットをあげればいいしな。私は早速買った。



 翌日は仕事帰りにコーヒー豆を買った。

 超初心者のため、とりあえず普段は滅多に立ち入らないちょっとお高いスーパーに行った。コーヒー売り場充実してたよなあ、と思ったからだ。

 しかし記憶に基づいて行ったコーヒー売り場はあまりに充実しすぎていた。種類が多すぎる。

 キリマンジャロやブルーマウンテン、ブラジルといった名の知られたものが並んでいるが、色んなメーカーがこぞって出している。メーカーごとに違いがありそうだが、分からん。

 オリジナルのブレンドも並んでいる。分からん。

 フレーバー付きのものもある。フレーバーティー的なものなのだろうか。分からん。

 人間、選択肢が多すぎると逆に悩んでしまう。これなら専門店に行ってプロにおすすめを聞くべきだったし、SNSの民やそれこそ大先輩に聞けばよかった。しかし聞いて返答待ちする時間もない。

 悩んだ挙句、酸味が少ないものを選んだ。近場で買えるインスタントコーヒーが、どれも酸味が効いていると感じていたからだ。



 さらに翌日。コーヒーミルが届いた。先に電気ケトルでお湯を沸かす。その間に、取説通りにコーヒーミルをサッと洗った。

 早速買ったコーヒー豆を入れ、蓋を閉める。

 電源を入れた。

 ガガガガガガガガガガ。刃が豆を砕くように切り裂かれていく。音は豆の音からすぐに機械のモーター音に変わった。

 マグカップの上に、洗っておいたコーヒードリッパーを置く。一度も使ってなかったあいつだ。やっと日の目を見た。コーヒーフィルターも開封して、ドリッパーへ置く。

 カチッ。元気ケトルの湯が沸いた合図だ。コーヒーミルの蓋を開けてコーヒーフィルターに取り出すと、コーヒーの香りが自分の周りに広がった。挽きたてはこんなに香るんだったか。

 すぐに少量の湯で蒸らす。コーヒーの香りが蒸気と共に顔面にやってきた。蒸らし終えると、何回かに分けて湯を注いだ。コーヒーの完成だ。

 自室に運んで、おやつとともにいただいた。時間をかけて淹れたコーヒーはとても美味しかった。酸味が少ないものを選んだおかげもあるかもしれないが、コクがあるがまろやかな味だった。

 すぐにおかわりを作りたくなった。マグカップを手に部屋を出て、キッチンへ足を踏み入れると、大先輩が言っていたそれに気がついた。


 そこは喫茶店の香りで満たされていた。



(本日3杯目のコーヒーを飲みながら)

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