第41話

 授業は始まったばかりだが、俺はやる事がなくなった。なら、散歩だ。とは言いつつフワリと浮かんで廊下をゆっくり進む。階段も気にせず降りていく。すっかり空を飛ぶ事が板に付いてきた。他の棟に言って適当な授業を覗いてみる。真面目に聞いている奴も居れば突っ伏して眠っている奴も居る。そんな不真面目な奴らを、自分の事を差し置いて、真面目にやれよなんて思っては次の教室に移動する。それも四、五回もすると飽きてしまった。俺は適当な窓から学校を出て高く飛び上がった。さっきの時計台にまた手を添えて遠くを眺める。無機質に見えるけど、あのビル一つ一つに何人もの人が働いてるってなんか不思議だ。それを眺めて今度は反対側に目を向けた。こちらは運動場と体育館、そして部室棟だ。運動場は授業中のようで、ジャージ姿の男女が数人トラックを走っている。そちらを一瞥して部室棟に目を向ける。突然、背筋を這い上がるような寒気を感じた。な、なんだこれ。俺は自分の腕を掻き抱いた。こんなの、さっきの比じゃないぞ。荒く息を吐いて、それでも部室棟を凝視する。その時、三階の端の窓からどす黒い靄のようなものが上がっている事に気付いた。それは窓の隙間から立ち上り、ぐるぐると渦を巻く。ずっと眺めていると、背筋を冷たいものが一気に這い上がった。俺は慌てて目を逸らすと、大急ぎでゼミ室の前に戻り、そこで膝を抱えた。

 チャイムの音が聞こえる。俺は飛び起きると、物陰に隠れた。とりあえずタクマちゃんに見えないようにする為だ。ゼミ室から続々とゼミの奴らが排出されていく。タクマちゃんはアレ以来俺を警戒しているのか、辺りをキョロキョロと見回して忙しない。少し申し訳なく思っていると、一番最後にワタルが出て来た。

「よっ。お疲れ」

 俺が片手を上げて言うと、ワタルは眉尻を下げた。

「良かったぁ。黙ってどこか行っちゃうから帰って来なかったらどうしようかと思った」

「心配すんなって。ただタクマちゃんがさ、俺がいると落ち着かないかと思ってさ」

「そっか。やっぱりユータは優しいね」

 コイツはすぐコチラが恥ずかしくなるくらいに褒めてくる。俺は当たらないと分かっていてもワタルの背中を叩いた。

「それで、タクマちゃんになんて言う気なんだ」

「そんな特別な事はしないよ。ただ三人で話がしたいだけ。でもまずは警戒心マックスのタクマちゃんを捕まえる作戦を立てないと」

 ワタルはニヤリと笑った。

 ワタルの立てた作戦は本当に大した事無かった。授業終わりでロッカーに寄ったタクマちゃんに声を掛けて人気の無い所で事情を説明する、と言うものだ。こんな作戦とも呼べない作戦だけど、兎に角やってみるしか無い。ワタルは小走りにタクマちゃんの後を追いかける。俺も後を追うが、タクマちゃんが見えたら身を隠した。

「タクマちゃん、ちょっと良い?」

 タクマちゃんがロッカーから物を取るタイミングに声を掛けた。ビクリ、とタクマちゃんの肩が跳ねる。

「あ、えと、ワタルくん……」

 ワタルの顔を見た瞬間、顔が強張るのが分かった。それから目だけがキョロキョロと辺りを見渡し始めた。どうやら俺を探しているらしい。そしていないと確認すると、少しだけ表情を和らげた。

「あ、あの、ワタルくん……具合とか、悪くないですか?」

「うん、ありがとう。俺はぜーんぜん大丈夫」

 ワタルがニッコリ笑う。タクマちゃんもそれにつられるように口角を少し上げた。ワタルはタクマちゃんの表情を見計らって、ワザと大きく目を開いた。

「そうだ。分からない事があるから聞きたかったんだけど、タクマちゃんに聞いていい?」

「あ、はい、わ、私で良ければ」

 タクマちゃんが顔を赤くして頷くと、ワタルはホッとしたようにフニャリと笑った。

「良かったぁ。ノートを広げたいから何処か机のある所に行っていい?」

「は、はい」

「じゃあ、ちょっと一緒に来て」

 ワタルはそう言うとタクマちゃんを促しつつ連れ立って歩き出した。ロッカールームを出ると玄関ホールに十個程机が置かれ、その周りに椅子が四脚置かれている。が、昼飯時の今時分、空いている席は無い。これも作戦の内だ。

「あちゃー、空いてないね。二階の会議室行こっか?」

 ワタルはそう言ってタクマちゃんを会議室へと誘っていく。

 二階には生徒が自由に使える小さな会議室が幾つか連なっている。その中の一番奥に行くと俺達は決めていた。ワタルがエスコートして中に入っていく。俺は扉の前で聞き耳を立てた。椅子を引く音が二つする。それから一呼吸あってワタルの声がした。

「タクマちゃんてさ、もしかしてユータの事視えてる?」

 その声を合図に俺は扉を擦り抜けて中に入った。そんな俺の姿を見た瞬間、タクマちゃんが息を呑み手で口を覆った。すっかり顔が真っ青になっている。まるでホラー映画の登場人物のようだ。俺は慌ててタクマちゃんに言った。

「ホントごめん。驚かせる気は無かったんだよ。ただ俺が見えてるみたいだったから話を……」

 そこまで言って俺はタクマちゃんの顔を見た。なんか、様子がおかしい。

「タクマちゃん? どうしたの?」

 俺の問い掛けに完全無視だ。と言うか、これは……聞こえてない?

「タクマちゃん、もしかしてユータの声聞こえない?」

 ワタルもその事に気付いたようで、俺が何か言う前にタクマちゃんに聞いた。タクマちゃんはブンブンと首が取れるんじゃないかと言う程に縦に振った。

「聞こえてないのか……」

 俺は思わず呟いた。作戦では俺の気持ちの籠った説明でタクマちゃんも納得して大団円の筈だった。でもこれじゃそうもいかない。

「タクマちゃん、これね、ユータだよ。幽霊なんだけど全然怖くないんだよ」

「そうそう、呪ったりとかそう言うの俺はやり方分かんないし」

「え? そうなの?」

「そうだよ。そんなん簡単に出来る訳ないじゃん」

「えぇー、ショック。俺の死後の楽しみが」

「死後の楽しみ物騒だなオイ」

 その時、クスッと笑う声が聞こえた。見るとタクマちゃんが小さく笑っていた。俺達が気付いた事に気付いたのか、タクマちゃんは慌てて顔の前で手を振った。

「あ、こ、これは、その……ごめんなさい……」

「ううん、全然いいんだよ。気にしないで」

「ご、ごめんなさい。会話の……内容は分からなかったけど、二人がいつも通りで、なんだか可笑しくって……」

 そう言うタクマちゃんの顔色は少し戻ってきていた。良かった。俺は小さく息を漏らした。その時、タクマちゃんの方からおずおすと声が上がった。

「あの……どうして、ユータくんは、その姿に?」

 きちんと俺の方を見てタクマちゃんが言う。それだけでもなんだか嬉しくなってしまった。

「あぁ、それはね……」

 喋っても聞こえない俺に代わってワタルが事のあらましを簡単に説明する。ただし、あの世での出来事は削ってある。宗教を勉強してるから尚更言わない事にしようとワタルに事情を話したあの時に言っていた。タクマちゃんは話を聞き終わると、手で胸元を抑え悲しそうに俯いた。

「……そんな、殺されたなんて……」

「……ね、悲しいよね、辛いよね。犯人を許せないよね」

 ワタルが突然タクマちゃんに歩み寄った。

「そう思うよね? ユータが死んで犯人がのうのうと生きてるなんて」

 何を言い出してるんだ?

「おい、ワタル」

 俺がワタルに声を掛けるとワタルはゆっくりとこちらを振り向いた。

「ユータは黙ってて」

 ワタルの表情は穏やかだ。だけど、その目は黒く深く澱んでいる。なんだなんだなんだ! こんなワタル、見た事ない!

 ワタルは口の端だけ上げて笑うとタクマちゃんに向き直った。

「ね、タクマちゃんも犯人が許せないでしょ? 一緒にそのクソ野郎探してやっつけよう!」

 タクマちゃんの顔から血の気が引いている。

「ワタルッ!」

 俺は無理矢理体をワタルとタクマちゃんの間に割って入らせた。

「殺人犯探してやっつけるって何考えてんだよっ! しかもタクマちゃんまで巻き込むなんて!」

「ごめんね? でも、昨日からずっとずぅっと考えてた事なんだ。それに、俺はタクマちゃんを危ない事に巻き込むつもりは無いよ。男だと出来ない事って結構あるし。そうだね、捜査協力を頼んでるって事かな」

 ワタルは口角だけを上げて笑顔を作った。そしてヒョイっと俺の脇から顔を覗かせる。

「そんな訳でタクマちゃん協力してくれる?」

「オイ! やめろ!」

 ワタルに対して今まで言った事も無い程に激しく怒鳴る。でも、その声はタクマちゃんには、ワタルにさえも届かなかった。

「……わ、分かりました」

 タクマちゃんが小さく頷いた。

「良かったぁ。これからもよろしくね」

 嬉々としてワタルは手を差し出した。握手を求めているんだ。タクマちゃんがちょっと躊躇うように顔を伏せたが、おずおずと手を差し出した。それをワタルは捕まえるように両手で掴むとギュッと握った。

「よろしくね。そうだ! 今から一緒にご飯食べない?」

「あ、ごめんなさい……私、これから用事が……」

「そっか、残念」

 ワタルはパッとタクマちゃんの手を離した。手が離れたタクマちゃんは鞄を肩に掛けると、逃げるようにそそくさと出て行った。パタパタと走り去る足音を聞いて俺はワタルを睨め付けた。

「さっきのはなんだよ。タクマちゃんにあんな約束させてさ。危ない事に巻き込まないって、もう充分巻き込んでるだろ!」

 俺がそう言ってもワタルはどこ吹く風と言う様子で、

「俺はユータに手を出す奴が許せないだけだよ。それにタクマちゃんは自分で協力する事を選んだんだよ?」

 なんて嘯くのだ。ユータが、ユータに、ユータの為……ワタルはいつもそう言う。俺の事ばかり。俺はそんな事望んで無いのに。

「今日は午後の授業無いから俺達は帰ろうか? 帰りに商店街寄らなきゃ。冷蔵庫空っぽなんだ」

 ワタルは大きく伸びをして朗らかに笑う。

「……ワタル」

「なぁに?」

「……何でもない」

 ワタルはいつもの笑顔に戻っていた。その顔を見てると俺は何も言えなくなる。ワタルが鞄を肩に掛ける。

「そろそろ行こっか?」

 ワタルが歩き出す。その後を俺は黙って着いて行く。

 分かってるんだ。ワタルが俺の為と言い続けるのと同じように、俺はワタルを甘やかしている。俺に出来るのはそれくらいだから。


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