第38話

 俺が玄関に行くと、昨日の晩に脱いだ俺の靴が置いてあった。それを履いて本当に準備完了だ。俺が靴を履いたのを見てワタルも靴を履く。俺とお揃いの色違いのスニーカーだ。だが、管理が全く違うせいで新品と使い古しのように見える。

 ワタルが玄関の扉を開ける。俺は隙間から体を捩ってフワリと飛んで外に出た。眩しい光が町中に溢れている。そんな天気だった。ワタルが鍵を閉めている間に屋根まで上がっていく。初めて間近で見る我が家の屋根瓦は黒くツヤリと光っていた。

「ユータ」

 声を掛けられてワタルの傍に戻った。

「あんなに高く飛べるんだね」

「おっと、こんなもんで驚かれちゃ困るぜ? 俺は成層圏で散歩する男だ」

「それは凄いね」

 フフフと笑うワタルは多分信じていない。まぁ、俺も試した事無いから出来るかどうか知らないけど。俺がふざけて不機嫌な顔を見せると、ワタルは更に笑った。その時だった。

「あの、おはよう?」

 突然声を掛けられて見るとお隣さんだった。六十代くらいの女性だ。苗字は確か佐藤さん。

「あ、鈴木さん。おはようございます」

 あっぶねー。俺が出会わなくて本当に良かった。

「あの、アナタ、大丈夫? 今も一人で笑っていたし、もう一人の男の子、家に帰って来ないんでしょう?」

「あー、ハハ。すみません。ちょっと思う所がありまして。僕は大丈夫なので気になさらないでください」

 ワタルが鈴木さんの目を見つめる。彼女からひゅうっと息を呑む音が聞こえた。そして頬を赤らめると目を伏せた。

「そ。そうね。アナタがそう言うならそれでいいのよ」

 そう言って彼女はそそくさと家に引っ込んでしまった。まったく、イケメンは得だ。多少の奇行もイケメンって事で流されてしまうのだから。ワタルは俺の方を向いてすまなそうな顔をした。

「ごめんね」

「いや、謝る事じゃ無いだろ。それよりも気を付けないとな。他の人に俺は見えてないんだから、俺と喋ってるとワタルが変な目で見られる」

「はぁ、ユータと気軽に喋る事も出来ないなんて」

 ワタルが不機嫌そうに眉を顰めた。だが、そんな表情のままに小さく頷いた。

「でも、俺がちゃんとしないとユータにまで悪い噂が立つもんね。俺、ちゃんとするから」

 そう小声で言って小さく親指と人差し指をくっつけてオッケーサインをした。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 俺が言うとワタルが頷いた。

 いつもの道を会話を抑えて歩く。今までは毎日バカ話に花を咲かせていた事を考えると、若干の寂しさが募る。閑静な住宅街の中では兎に角一人で喋っていると目立つ。

「……ねぇ」

 ワタルが小さな声で話しかけてくる。

「……なんだ?」

 つられて俺まで小声になってしまった。気まずさに咳払いをして誤魔化した。

「ハンドサイン決めない?」

「ハンドサインって親指立てたり、親指と人差し指くっ付けたりって言うアレだよな?」

 ワタルが頷く。

「どうしてもユータと喋れない時用に、手で俺の意見を伝えられたらなって」

 なるほど、良い考えだ。それならいつでも意思疎通がとれる。

「簡単なのがいいから、俺が腕を下ろした状態で、人差し指を立てたらイエス、小指を立てたらノーって言うのは?」

「ふーん、いいんじゃね?」

 気のない返事だが、中々に気に入ってるのは内緒だ。

 そんなことを話している内に商店街が見えて来た。

「ここにユータがお世話になったリンさんがいるんだよね?」

 ワタルが耳打ちするように聞いてきた。

「うん、会えたら直ぐに紹介するから」

 俺はそう約束して二人で商店街へと足を踏み入れた。朝の商店街はやっぱり閑散としている。それは店が開いていないから当然か、と俺はシャッターの閉まった店の列を眺めた。

 暫く歩くとパン屋が見えた。今日もその前に白いワンピースの女の子の姿があった。

「いた! ちょっと挨拶してくる」

 俺はそう言ってその場から駆け出した。

「リンさん!」

 声を掛けると黒髪を揺らして彼女が振り向いた。

「ユータ君。もう帰って来たの?」

 リンさんが眩しそうに笑う。俺もその笑顔に頬を緩めた。

「いえ、実は色々あって、同居人にリンさんを紹介したくて」

「え? ユータ君の同居人君って視える人だったの?」

「いやぁ、今までそんな感じじゃ無かったんですけど、突然見えるようになったみたいで」

 何故か俺が照れて頭を掻いた。そしてワタルの方を向くと、ぼんやりと立ち尽くしているワタルを手招きした。ワタルが小走りでこちらに来る。

「ユータ、そこにリンさんいるの?」

 走りながらワタルが言う。

「うん、ホラ。この人が俺がお世話になったリンさんだよ」

 そう言って俺が一歩横にズレる。走りついたワタルは軽く息を整えると、目の前のリンさんをジッと見たかと思うと辺りをキョロキョロと見回した。

「ねぇ、ユータ。どこにいるって?」

「はぁ? 目の前にいるだろ。さっきガン見してただろ?」

「いや、ごめんなんだけど、目の前には誰もいないよ?」

「え? そんな筈は……」

 俺がそう言いかけると、

「いいよ、ユータ君」

 と言うリンさんの声が遮った。明るい声だが、何処か寂しそうな響きがある。

「君の同居人君に私は見えてないみたいだね。もしかしたら、君の事しか見えてないかも」

「そんな……」

 俺はリンさんとワタルを交互に見比べた。悲しそうに笑うリンさんと、困惑したように辺りを見渡すワタルの姿が目に入った。

「あの、すみません。俺……」

「ユータ君が謝る事じゃ無いよ。君が私を紹介したいって思ってくれた事が嬉しいんだから」

「でも……」

「私は大丈夫。それより、何処かに行く予定だったんじゃない?」

「あ、はい。学校に」

「だったらそっちの方が大事だよ。ホラホラ、私の事はいいから行ってらっしゃい」

 そう言ってリンさんが背中を押す。俺は頭を下げるとワタルに「行こう」と声を掛け歩き出した。

「あの、ユータごめん。折角紹介してくれようとしたのに……」

「いや、俺が悪いんだよ。そのせいでワタルにもリンさんにも嫌な思いをさせた」

 本当に考えなしだ。人から見えない事が辛いなんて身をもって知ってた筈なのに、それを人に強いてしまった。自分のこういう所には、ほとほと呆れかえる。俺は後悔を噛み締めながら商店街を後にした。

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