💧キミイロネイロ💧
夜摘
第1話 橘花音はピアノを辞めたい
彼の演奏を聞いた瞬間。
どうしてだろう…?胸が一杯になって涙が溢れそうになった。
何故かとてもとても懐かしくて、切なくて…。
探し物なんてないはずのに、不思議とずっとずっと探していた何かを見つけたような気持ちになってしまったんだ。
某月某日。
平凡な中学生女子である私、橘花音(たちばな かのん)は、その日、学校から帰宅するやいなや、お母さんにピアノの練習をしろと叱られて、とても嫌な気持ちになっていた。
私は小学生の頃からピアノのお稽古に通っていて、今年中学2年生になった今でもそれを続けている。
音楽は好きだ。けど、それは聞く場合の話であって、正直なところ、自分でピアノを弾くのが好きかと聞かれたら、そうだって即答は出来ないくらい、今私はピアノを辞めたい気持ちになっていたりするのだ。
それは、毎日毎日練習しろ練習しろって言う母親をうっとおしく感じてしまっているせいだったり、ピアノの練習があるせいで放課後や休日も友達と遊べないことだったり、自分の腕前じゃどうせプロになれる訳でもないのに、どうしてこんな風に自分の時間を拘束されなくちゃいけないんだろう?とか思ったり、そんな色んな不満や不安が溜まってしまっていたからだと思う。
だけど、お母さんにはまだそんな風に自分の本音を話すことは出来ていない。
お母さんはいつも煩いけど、これだけ長く続けてきたピアノを、私が辞めたいなんて言ったら悲しむかもしれない。…そんな風に考えたら、いつも言い出せなくなってしまっていた。
そんな訳でこの日も、私はお母さんに本音を話せないまま、電子ピアノの前に座って、お気に入りのヘッドフォンを着けて、ピアノの練習を始めた。
何度も何度も同じところでミスを繰り返してしまう。そんな自分が情けなくなって…、落ち込んでしまって…、どんどん悪循環に陥っていくんだ。
「来週はもう発表会ね。頑張って練習するのよ」
部屋を覗きに来たお母さんは満足そうに微笑んでいる。
「お母さんもとっても楽しみにしてるんだから。そうそう、花音聞いた?今度の発表会、特別ゲストにって、あの天音君を呼んでるんですって!」
「天音くん…?」
何だか妙に興奮気味のお母さんの言葉を私はオウム返ししてしまう。
「あら、花音知らないの?今、すごく人気がある男の子なのよ。天才ピアニストって」
「…私とは住む世界が違うって感じの人だね…」
「花音ったらそんなこと言わないで。貴女の演奏だってとっても素敵よ?」
母の親バカ炸裂気味の言葉に、私は思わず苦笑するしかなかった。
天才ピアニストの天音くんとやらにもそこまで興味はわかなかった。
だってそうでしょ?私はピアノに対して、もう嫌気がさしてきちゃってるんだから―――!!!
* * * * * * *
―――――なんて、思っていたのに。
私は結局…その発表会で彼の演奏を聴いて、一瞬で心を奪われてしまった。
私はピアノ歴が長いわりに、全然ピアノのことをわかっていないから、周囲から称賛されている彼の技術や表現力なんてものについては、どれだけ素晴らしいのかなんて全然わからなかったのに…。私は自分の出番を終えた後、彼の演奏を聴いて、どうやら随分と長い間呆然としていたようだった。そのくらい衝撃を受けていた。
だから、音楽教室の生徒共用の控室に自分の楽譜を忘れてきてしまっていたことに気が付いたのは、もう帰らなくちゃいけない時間の直前だった。
私は、慌てて控室の方へと向かった。お母さんがこの日の為に用意した新しい靴は、ほんの少しだけれどヒールがあって、可愛いのだけど走るにはちょっと危ない。そんなこともすっかり忘れて私は小走りに走ってしまい、小さな段差に躓いて、見事に転んでしまったのだ!
「ううう…いたた…」
「大丈夫?」
身体を起こして、ぶつけた膝をさすっていると、不意に頭の上の方から男の子の声が聞こえてくる。
盛大に転んだところ見られていたなんて恥ずかしくて、私は誤魔化し笑いをしながら顔を上げた。
「だ、大丈夫です!ごめんなさい…!」
そして固まる。
だって、そこにあった顔は、見たこともないようなとびきりのイケメン――――ではなく…いや、確かにとびきりイケメンなのは間違いないんだけど、そうじゃなくて、…先ほど私が、その演奏に魂を抜かれてしまったにも等しい…天才ピアニスト・天音奏くんだったのだ!
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