第31話 魔法はとけて

 休憩をはさみながら、俺は愛凛と何度も愛し合った。

 力尽きるまで、愛し合った。


 愛凛の声は、これまでに俺が見たどの映像作品の女優さんよりも控えめだったが、そのどれよりも愛らしく、そしていとおしかった。


 目学問や耳学問の段階では、セックスが愛を伝えるための手段だなんて考えたことは一度もなかった。ああいうのは結局、男の欲求や夢想を具現化したもので、どこか現実離れしている。


 リアルは、それとはずいぶん違った。


 目の前に大切なひと、愛するひとがいたら、そのひとに懸命に愛情を伝えたくなる。そのために、互いの体を通して語り合うものだと思った。それがセックスだと。


 女性の体に対する印象も違った。それまでは単に欲望の対象でしかなかったが、愛する人の体というのはなにか特別な魔力を持った、神聖でとうといものだった。軽々しく、あるいは荒々しく扱うような気にはまったくなれなかった。決して傷つくことのないよう、それこそ愛凛が言ったように、壊れもののガラス細工のように、精一杯の誠意と優しさをこめて、大切に、大切に触れた。


「ありがとう」


 と、愛凛は言った。

 幾度目か、俺が汗に濡れた彼女の額や頬をいていると、


「優しくしてくれてありがと」

「愛してたら、自然に優しくなれるでしょ」

「そうだね。愛し合って、心が通じ合ってたら、優しい気持ちになるよね。私、セックスがこんなに気持ちよくて幸せなものだと思わなかった」


 それは俺にとって、なによりもうれしい言葉だった。

 だって、セックスって、大切なひと、愛するひとを幸せにするためのものだろう?


 ただ、俺にはひとつ、恐れていることがある。


 無愛想なデジタル時計の表示が19時に近づき、ふたりでシャワーを浴びた。

 そのあと、愛凛が服やアクセサリーを順に身につけてゆくのを見守る。


 最後に彼女は、絶え間ないキスの連続で化粧っ気のなくなった唇に、真っ赤なリップと、つや出しのグロスをのせた。


 あぁ、これほどまでに。

 と、俺はある種の感動を覚えた。


 唇に赤くメイクを施すだけで、印象とはこれほどまでに変わるものなのか。愛凛はもちろんそのままでもこの上なく美しいが、口紅を差すだけで、まるで別人のように強く、気高けだかい印象になる。

 心なしか、目線まで強くなったようにも思える。

 口紅というのは、女性にとっての、というより愛凛にとっての戦闘服のようなものなのかもしれない。だから、彼女はどのようなときでも、真っ赤なリップをしていた。


「お待たせ。そろそろ行こっか」


 自動精算機で会計をする際、彼女はその半分を支払った。

 俺はもちろん、自分が全額を払うつもりでいたのだが、彼女は淡い微笑とともに断った。


「今日は私がわがまま言ったから。みーちゃにまた大切な人ができたら、そのとき払ってあげるといいよ」


 ずん、と鉛のように重く不快なわだかまりが、胸のなかに生まれた。それは急激にふくれて、すぐ絶望に変わった。


 手をつなぎたい、と俺は思った。

 抱き寄せて、唇を重ねたい。

 愛凛、と呼び、未来と呼ばれたい。


 どれも、つい先ほどまでは、ごく自然と、のべつ幕なしに求め合っていたことだ。


 しかし、今はもう、そのどれも明確に拒絶しようとするような、冷たくそっけない態度を感じる。


 いや、彼女はこの部屋に入ったときの、その約束を守っているだけなのかもしれない。


 この部屋を出るまでのあいだだけ、自分を愛してほしい。

 この部屋を出たら、またもとの親友に戻る。


 俺は彼女のその条件に同意した。

 彼女は、もとに戻ろうとしている。


 俺は。

 俺は、戻れない。

 戻れるはずもない。


 あんなに愛し合ったのに。

 愛してると言ってくれたのに。

 幸せだと言ってくれたのに。


 それが、彼女の悲しみやさびしさを埋めるためだけの、かりそめの愛情だったと。


 どうして、そんなことが信じられる?

 魔法はとけたと、そういうことなのか?


 俺はしかし、どうしようもなく臆病なやつだ。


 愛凛を、彼女を引き止めることができなかった。


 俺がそのまま、この部屋で振る舞ったように振る舞い続ければ、あるいはふたりの新たな関係を求めたら、彼女は俺を嘘つきとなじり、信頼を失ってしまうかもしれない。

 そうなったら、ズッ友でさえいられなくなってしまうかもしれない。

 それは、怖い。


 最初はおずおずと、それでもそのうち、自信をもって愛凛の名前を呼ぶことができていた俺は、再び愛凛に飼われる犬のような、従順だが臆病な自分に戻ってしまったようだった。

 身を切られるよりも痛烈な痛みが、心臓に走った。


 俺は親友としてよりも、愛すべきひととして、愛凛をほっしている。

 その、愛すべきひとを、俺は失うことになる。


 彼女と肩を並べて駅に向かう最中でも、俺は目の前が真っ暗になる思いだった。

 駅の改札で向かい合うと、彼女はむしろすっきりしたような、うれいのなくなった表情だ。


「みーちゃ、今日はありがとう。みーちゃが一緒にいてくれたおかげで、私、今日は幸せな気持ちで眠れそう」

「うん……よかった」

「なんか、今度はみーちゃが暗いよ。私のこと、まだ心配?」

「いや、少しでも元気になってくれてうれしいよ」

「みーちゃはほんとに優しいね。素敵だよ」


 愛凛の言葉は、甘く、苦い。


「気をつけて帰ってね」

「うん、みーちゃもね!」


 俺は彼女を見送ってからすぐ、別の電車に乗り、自宅へと向かった。

 席に座るなり、がくっ、と首を落とされたようにうなだれてしまう。

 愛凛と離れてしまったショックもだが、なにより俺は疲れていた。

 最寄りの駒沢大学駅は、渋谷からわずか3駅だが、俺は泥のように眠ってしまい、気づけば田奈たなという謎の駅に連れていかれた。


 (こっから折り返して、さらに16駅も乗ってくのか……)


 まったく無駄な時間だ。

 家に着く頃には21時を回るかもしれない。


 ふとスマホを見ると、数分前に愛凛からメッセージが入っている。


『みーちゃ、もう家に着いてるよね。私、疲れちゃったみたいで、思いっきり寝過ごして、横浜まで来ちゃった!』


 疲れてんのはおんなじか、と俺はおかしかった。


『俺も寝過ごして、田奈ってとこにいる』

『聞いたことないんだけど』

『俺も同じ沿線なのに初めて聞いた』

『そんな駅、実はなくて、別の次元に飛ばされちゃったんじゃない?』

『さすがに言い過ぎで草。帰ってゆっくり休んでね』

『ありがとね。明日も休もうかなと思うけど、週明けからは学校行くよ。暇だから』

『俺にできることあれば、なんでも力になるから』

『今日、ほんとにありがと。みーちゃに救われたよ』


 救われた、という言葉が、胸にしみわたるようだった。


 そうか、俺は、俺のしたことは、愛凛のためによかったことだったんだ。

 それと、俺がもとの親友に戻ったのも、彼女のためによかったんだ。

 彼女のためによかったなら、これでよかったんだ。


 今日という日にあったことは、すべて忘れれば。


 上り電車のなかで、俺はまるで子どものように、ぼろぼろと涙を流した。

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