暁の誓い
深い闇が、エデンヤードを包み込んでいた。
月明かりさえ届かない夜空の下、折衷的な建築様式を誇る行政庁舎の最上階で、セイレンとアリシアは闇を見つめていた。普段なら、魔族式の魔力結晶と人族の魔術による光の調和が街を照らすはずの景色が、今は不自然な暗がりに沈んでいる。窓から覗く街並みは、まるで墨を流したような漆黒に染まっていた。
「私たちの光が、消されてしまったわね」
アリシアが、静かな声で呟く。その紫の瞳には、強い警戒の色が宿っていた。
「誰かが意図的に、エデンヤードの力を奪おうとしているの」
「うん」
セイレンは静かに頷いた。彼の周りの大気が、不安定に震えている。
「そして、その『誰か』は、僕たちの古い知り合いかもしれない」
遠くから悲鳴が聞こえてきた。続いて、不穏な気配が街全体を覆い始める。それは人族の操る大気の力でも、魔族の宿す大地の力でもない、得体の知れない力だった。その力は、まるで負の感情そのものが実体化したかのように、人々の心に直接働きかけていく。
「行くよ」
アリシアが身を翻す。闇夜に、銀髪が一瞬だけ煌めく。
「この程度の闇など、私の呪詛で...って!」
彼女の足が、突然よろめく。セイレンが咄嗟に支えるが、その手も少し震えていた。二人の力が、何者かによって干渉を受けているのだ。その感触は、どこか懐かしい。そう、あの時の...。
中央評議会の緊急招集を告げる鐘が鳴り響いた。廊下からは、慌ただしい足音が近づいてくる。
「セイレン様!アリシア様!」
マリアが息を切らして駆け込んでくる。
「大変です!北部区域と南部区域で、同時に暴動が...!」
「詳しく話してください」
セイレンの声に、僅かな焦りが混じる。
「北部では人族が、南部では魔族が、突如として武器を手に取り始めました」
マリアは震える声で報告を続ける。
「そして、その扇動者たちですが...グレイストーン伯爵とヴァイス公爵です」
「まさか」
アリシアの表情が強張る。
「あの頑固な老人たちが手を組むなんて...でも、何か違和感がある」
「そう」
セイレンも眉を寄せる。
「二人とも、エデンヤードに理解を示し始めていたはずなのに」
その時、執務室の窓が大きく揺れた。何者かの魔力が、建物全体を包み込む。それは青でも紫でもない、漆黒の力だった。魔力結晶で作られた壁飾りが不気味に明滅し、人族式の建具が軋むような音を立てる。
「この力...」
アリシアが低い声で言う。彼女の足元で、大地が小刻みに震えていた。
「懐かしい感じがする。まさか、あの時の...」
「ネビュラの残党か」
セイレンが言葉を継ぐ。
「完全には消えていなかったんだ。そして、グレイストーン伯爵とヴァイス公爵を操っている」
突如、漆黒の力が凝縮され、巨大な人影が窓の前に浮かび上がる。それは黒い装甲に身を包んだ巨人、かつてセイレンとアリシアが戦ったギガントによく似た姿だった。しかし、その姿には以前にはない不気味さが漂っている。
「よくぞ気付いた」
深い声が響く。その声に、空気が凍りつく。
「我々は確かに、お前たちの世界に残っていた。そして、人族と魔族の対立という、この上ない武器を手に入れた」
セイレンとアリシアは、無意識のうちに互いの手を取り合っていた。二人の間で、大気と大地の力が共鳴を始める。
「随分と手の込んだ計画ね」
アリシアが、氷のような声で言い放つ。
「私たちが築き上げてきたものを、好き勝手に利用して...許せないわ」
「築き上げてきた、だと?」
巨人が嘲笑う。その声が、エデンヤードの空に不協和音を響かせる。
「お前たちに何が分かる。人族と魔族の対立は、遥か昔から続いてきた宿命。それを変えられると思うのか」
遠くから大きな物音が聞こえてきた。北部と南部で始まった暴動が、中央区域に迫っているのだ。人族と魔族の怒号が、夜の闇に吸い込まれていく。市場では屋台が倒され、共同で建てた学校の窓ガラスが割れる音が響く。
「セイレン」
アリシアが、珍しく柔らかな声で呼びかける。
「私たちにしかできないことがあるわ」
「うん、分かってる」
セイレンは静かに、しかし力強く答えた。彼の手が、アリシアの手をそっと握りしめる。
「君と僕の絆を、みんなに示そう」
アリシアは小さく頷いた。その紫の瞳に、強い光が宿る。
「ええ。この手で示してあげましょう。対立を越えて生まれる、新しい力を。それに...」
彼女は少し照れたように顔を背ける。
「あなたと手を繋いでいると、なんだか心強いわ」
二人の心が完全に一つになった時、驚くべき変化が起きた。セイレンの周りに漂う大気の力と、アリシアの足元に広がる大地の力が、見事な調和を奏で始めたのだ。それは単なる魔術でも呪詛でもない、二つの魂が響き合って生まれる、真の呪魔法の力だった。
「ノクターナ・レイン・アヴァロン・ストライク!」
二人の声が重なり、虹色の光が闇を切り裂く。その光は、エデンヤードの空を照らし、暴徒たちの足を止めた。人族も魔族も、その美しい光に見入っている。折衷様式の建物が優しく照らされ、市場に並ぶ両国の産物が輝きを放つ。
「見て!」
セイレンの声が響く。大気が共鳴し、その言葉を街全体に届ける。
「これが僕たちの答えだ。人族と魔族の心が一つになったとき、どんな闇も打ち払える」
「これが、私たちの選んだ道」
アリシアも力強く言葉を継ぐ。大地が震え、その想いを全ての人々に伝える。
「もう、誰にも邪魔はさせない。この...私たちの場所を」
その言葉に呼応するように、エデンヤードの民たちの手から、次々と武器が落ちていく。人族と魔族が、互いの顔を見つめ合う。そこには、憎しみではなく、困惑と後悔の色が浮かんでいた。
グレイストーン伯爵とヴァイス公爵も、我に返ったように立ち尽くしている。ネビュラの力から解放された二人の目には、深い悔恨の色が宿っていた。人族の騎士道と魔族の誇りが、歪んだ形で利用されていたことへの怒りが、その表情に浮かぶ。
「貴様ら...」
巨人が怒りに震える声を上げる。
「所詮、異なる者同士、永遠に分かり合えぬ...」
その言葉が終わらないうちに、セイレンとアリシアの放った呪魔法が、巨人の装甲を貫いていた。漆黒の力が弾け散り、暁の光が街を照らし始める。
中央評議会の面々が集まってきて、直ちに緊急対策が講じられていく。人族の評議員と魔族の評議員が協力して、被害状況の確認と復興計画の立案に取り掛かる。マリアを中心に、経済活動の早期再開に向けた調整が始まっていた。
「これで、エデンヤードは本当の意味で、新しい一歩を踏み出せる」
セイレンが静かに言う。その表情には、清々しい喜びが浮かんでいた。
「ええ」
アリシアはようやく緊張が解けたように、大きく溜め息をつく。しかし、すぐに思い出したように顔を上げる。
「そうだわ。約束があったわね」
「約束?」
「ええ」
アリシアは少し照れくさそうに微笑む。その表情は、魔王の威厳とは似ても似つかない、愛らしいものだった。
「この危機が去ったら、一緒にチーズケーキを食べるって約束。忘れたとは言わせないわ」
セイレンは思わず笑みを浮かべた。
「うん、もちろん覚えてるよ」
夜が明け、エデンヤードに朝日が差し込む。人族の魔術と魔族の呪詛が、再び穏やかな調和を奏で始めていた。広場では、子供たちが無邪気な笑顔で遊び、市場では活気のある声が響き始める。
折衷様式の建物が朝日に輝き、人族と魔族の文化が溶け合った街並みが、その美しい姿を現していく。評議会の指揮の下、着々と秩序が戻っていく様子に、新しい統治の形が見えてくる。
セイレンとアリシアは、その光景を見つめながら、静かに微笑んでいた。二人の間に流れる空気は、もはや人族と魔族という壁を超えた、深い信頼に満ちていた。
それは、新しい夜明けの始まり。エデンヤードという、小さな奇跡が、確かな一歩を踏み出した瞬間だった。
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