揺らぐ均衡

深夜のエデンヤード中央区域に、不穏な気配が漂っていた。


魔力結晶の放つ淡い紫の灯りと、人族の魔術による青い光が、普段なら美しい調和を見せる街並みを照らしている。しかし今夜は、その二つの光が微妙な不協和音を奏でていた。湿った夜気に光が揺らめき、まるで何かの予兆のように石畳の上で踊っている。


その静寂を破るように、黒い影が素早く動いた。それは人族の姿をしていたが、その動きには魔族特有の俊敏さが混じっていた。影は行政庁舎の壁を這い上がり、吹き付ける冷たい風をものともせず、窓から中に滑り込んでいった。


翌朝、エデンヤードは騒然となっていた。


「重要機密文書が盗まれた!」

「犯人は人族の仕業だ!」

「いや、魔族に違いない!」


行政庁舎前の広場には、怒号が渦巻いていた。つい先日まで活気に満ちていた市場は閑散とし、露店は開かれず、人々は互いを警戒するように距離を置いている。大気中には不安定な魔力が満ち、地面からは不穏な力が湧き上がっていた。


セイレンは執務室の窓から、その光景を憂いの表情で見つめていた。机の上には、事態を報告する文書の山。その中には、両国からの厳しい問い合わせも含まれている。


「調査の結果はどう?」

背後から響いたアリシアの声には、いつになく鋭い緊張が込められていた。


「まだ判断を下せる段階じゃない」

セイレンは静かに答えた。

「痕跡からは、どちらの仕業とも判断できないんだ。人族の足跡と魔族の魔力反応、両方が検出されている」


「そんな生ぬるい調査で何が分かるというの」

アリシアが言葉を遮った。しかし、その声には怒りというよりも、焦りが感じられた。

「私なら既に、呪詛の力で真相を...」


その時、執務室の扉が勢いよく開かれた。


「セイレン様!大変です!」

北部区域の警備隊長が慌ただしく報告する。

「南部区域の魔力結晶貯蔵庫が襲撃され、人族の魔術の痕跡が...」


言葉が終わらないうちに、今度は南部区域からの使者が駆け込んでくる。


「アリシア様!北部の穀物倉庫が破壊されました。呪詛の力で...」


セイレンとアリシアは顔を見合わせた。二人の目には、同じ懸念の色が浮かんでいた。


「これは仕組まれた事件だね」

セイレンが低い声で言う。

「エデンヤードの分断を図る者がいる」


「それくらい、私にも分かるわ」

アリシアは苛立たしげに答えた。しかし、その表情には不安も垣間見える。

「でも、誰が?そして何のために...」


広場からさらなる怒号が響いてきた。


「もう我慢できない!」

「人族を追い出せ!」

「魔族は出て行け!」

「帝国軍を呼べ!」

「王国に通報を!」


感情の高ぶりに呼応するように、人族の魔術と魔族の呪詛が不協和音を奏で始める。空気が重く濁り、地面が小刻みに震えていた。


「このままでは...」

セイレンの声が途切れる。その青い瞳に、深い悲しみが宿る。


「私が行って、魔族たちを説得するわ」

アリシアは窓際に立ち、冷たい視線を広場に向けた。


「待って」

セイレンが彼女の手を取る。その温かな感触に、アリシアは動きを止めた。

「今は分かれて行動するべきじゃない。それこそが、敵の望むことだと思うんだ」


アリシアは驚いて目を見開いた。確かに、分断を図る者たちの目的は、単なる混乱の惹起ではないのかもしれない。セイレンとアリシア、人族と魔族の象徴である二人の信頼関係を壊すことこそが、真の狙いなのではないか。


「私が...あなたの言うことを聞くなんて」

アリシアは困惑したように呟いた。しかし、その声には温かみも混じっていた。

「じゃあ、どうすれば?」


セイレンは静かに微笑んだ。

「共に行こう。僕たちの絆を、みんなに示そう」


二人が広場に姿を現すと、騒然とした空気が一瞬で凍りついた。セイレンは大気に満ちた魔力を集め、アリシアは大地の力を呼び覚ます。しかし、それは攻撃のためではなかった。


二人の力が交わると、穏やかな虹色の光が広場を包み込んだ。その光は、市場に並ぶはずだった品々を優しく照らし、人々の表情を柔らかく染めていく。


「エデンヤードの民よ」

セイレンの声が響く。

「人族も、魔族も、どうか聞いてください」


その声には、若き王としての威厳と、深い悲しみが混じっていた。


「私たちは今、試練の時を迎えています。誰かが、私たちの信頼を壊そうとしている。私たちの夢を、希望を、踏みにじろうとしているのです」


アリシアも一歩前に出た。

「ふん、私たちが築き上げてきたものを、こんな小細工で壊せると思っているの?」

その尊大な口調に、魔族たちが我に返ったように顔を上げる。

「私が認めた人族の王を、疑うというのか」


二人の周りの虹色の光が強まり、広場全体を包み込んでいく。それは人族の魔術と魔族の呪詛が完全な調和を示す、まさに共生の象徴だった。


群衆の中から、小さな変化が始まる。


さっきまで互いを睨み合っていた人族と魔族が、恥ずかしそうに視線を逸らす。露店の主人が、おずおずと店を開き始める。そして子供たちが、はにかみながら相手に近づいていく。


しかし、その光景を見つめる影があった。行政庁舎の屋根の上で、黒い装いの人影が不敵な笑みを浮かべている。


「まだ始まったばかりだ」

影の囁きが、闇に溶けていく。

「エデンヤードよ、お前の試練は、これからだ」


セイレンとアリシアは、その気配に気付いていた。二人は再び顔を見合わせる。その目には、強い決意の色が宿っていた。


「気づいた?」

セイレンの静かな問いかけに、アリシアは小さく頷いた。

「ええ。でも今は黙っておきましょう。次の動きを待つわ」


二人の間に流れる沈黙は、深い信頼に満ちていた。どんな試練が待ち受けていようとも、この絆が揺らぐことはない。むしろ、この危機を乗り越えることで、その絆はより強固なものとなるだろう。


夕暮れのエデンヤードに、再び平穏が戻りつつあった。魔力結晶の灯りが、人族の魔術の光と混ざり合いながら、通りを照らし始める。しかし、それは新たな嵐の前の、つかの間の静けさなのかもしれない。


セイレンとアリシアは、その予感を胸に秘めながら、黄昏の空を見上げていた。大地と大気の力が交わる境界には、かすかな虹色の輝きが宿っている。それは、二人の強さを示すように、夜風に煌めいていた。

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