第16話 『おめでとう』と絶縁宣言

「あなたが連れて行ったりするからよ」


 翌日、私は動物達に餌やりをしているイエンウィアの前でさめざめと泣きました。


 イエンウィアは犬の頭を撫でながら、「気に入られてよかったじゃないか」と言いました。


「良い子だったろう?」


 私の横に座って問いかけてきたイエンウィアに、私は渋々頷きました。

 センネフェルが良い少年なのは、間違いなかったので。


「政略婚への恐怖が払拭されてよかった」


 彼は微笑むと、続けて「おめでとう」と言いました。


 これは雲行きがかなり怪しくなってきたな、と私は感じました。

 イエンウィアが口にした『おめでとう』は、恐怖に打ち勝った事に対する祝辞ではなく、明らかに婚約に対してのものだったからです。


 相手方は乗り気のようですが、私は受け入れる気はありません。何度も申し上げますが、私はイエンウィア一筋だったので。

 それを伝えねばと思い顔を上げると、イエンウィアが先手を打つように言いました。


「もう、奥庭に来るのはやめたほうがいい」


 優しく諭すような口調と言葉で、彼は私の心臓をぎゅっと握りしめてきましたわ。勿論、悪い意味でね。


「嫁入り前の娘が、弁当片手に男と二人で会っている姿など、もし誰かに見られたら誤解されかねないだろう」


 心臓が早鐘を打って、涙が出そうになりましたが、ここで泣けばお終いだと直感した私は、無理にふざけました。


「人聞きの悪いこと。楽しくお喋りしているだけじゃないの」


「よく言ったな、その口が!」


 お陰で、ほんの少しだけその場の空気がいつもの穏やかなものに戻りました。けれどもう、それ以上は、イエンウィアは私のおふざけには乗ってくれなかったのです。


「婚約したんだ。破談を招く様な行動は賢明じゃない」


 ぴしっと私に言った彼は、続けて口調を他人行儀なものに変えました。


「父親想いのむすめでいたければ、忠告を聞いておくことです」


 これまで、会話の途中でふと敬語を使う事もあった彼でしたが、今回はその声色に私と距離を置こうとする含みが、明らかに感じられました。

 他人に戻ろうということなんだと、悟りました。


 一方的に絶縁宣言をして立ち去っていくイエンウィアの背中に、私は叫びました。


「あなた、それで寂しくないの!?」


 イエンウィアは立ち止まると、ほんの少しだけ私に振り向きました。そして、「お元気で」と残すと、もう私の為に足をとめてはくれませんでした。


 その日、どうやって家に帰ったか、正直覚えていません。

 いつものようにいつのも道を歩いて帰ったのは確かなのですけれど、気付いたら自分の部屋のベッドの上でぼんやりしていたのです。

 すでに夕方で、部屋はぼんやりと暗くなっていました。

 ランプの明かりも灯さず、ずっと魂が抜けたように寝台に座っていた私の様子を見て、召使たちは大そう心配していました。


 メリトが夕飯だと呼びに来てくれて、食卓にもついたのですが、やはり私はずっと上の空でした。

 後ほど弟から聞いたのですが、どうやら私はその時、布巾を食べたり手を洗うお水を飲んでいたらしいです。相当怪奇だったと、セケムウィは言っていましたわ。


 そう言えば何だか、パンが噛みきれないなと感じていたのを今思い出しました。きっとあれはパンではなく布巾だったのね。


「お父様。私が婚約を破談にしてくれとお願いしたら、どうなさいますか」


 いつの間にか、父に訊ねていました。


 父は、何か不満があるのか、と訊き返してきました。


 私は困りました。相手方に対して、不満はなかったのです。そりゃあ、お相手が少々幼いのはどうなのかしらと思ってはおりましたが、話してみたら本当に気持ちの良い子でしたし。このまま真っ直ぐ成長すれば素敵な青年になるだろうと感じておりましたから。


「不満と言いますか……」


 一度は言い淀んだのですが、あまり頭が働かなくて。それに色々気を回すのも、なんだか面倒になってしまって。もう、勘当覚悟で本音を話す事にしました。


「好きな方がおりまして」


 その言葉で、父は食事の手をぴたりと止めました。弟はすでに、私の奇怪な行動で食欲が失せていたそうですが。


 『はしたない』だの、『正気なのか』だの、散々叱られると思っていましたが、意外にも父は冷静でした。


「それで?」とお碗の水で手を洗い布巾で拭くと、私をまっすぐ見て来たのです。


「そいつはお前を嫁に欲しているのか?」


 核心を突かれて、私は父の目を見ていられず俯きました。


「いえ。それは……私が一方的に……」


 突然、これまであったはずの自信がしゅるしゅると萎んで消えてしまいました。


 もう少しでイエンウィアに受け入れてもらえると信じていたことも。

 確かにある種の愛情をもらえていたことも。

 私の求愛が実は嫌がられていなかったことも。

 やっとあのと同列に並んだことも。


 全て私の勘違いで、思い込みだったんじゃないか、と。

 私はただ本当に、彼を困らせていただけなんじゃないか、と。

 彼はただ優しさから、私を邪険にせず付き合ってくれていただけなのじゃないか、と。


 ならばこの結婚話は、彼にとって願ったり叶ったりのはずよね。やっと私から解放されるのだから。


 けれどそれでも、私は宰相の家に嫁ぐのが嫌だったのです。自分でも相当な頑固者だと思ったわ。


 私の歯切れの悪い返事を聞いた父は、ため息をつくと、また食事を始めました。


「それじゃあ話にならん。諦めなさい。お前にはこの家の娘として、やるべき事がある」


「ならどうぞ、縁をお切りください!」


 気付いたら叫んでいました。


「レクミラ!」


 腹の底から出たような太い怒鳴り声が私を叱りつけました。今思えば、こんな風に父に叱られたのは初めてだったわ。父は厳しい人でしたが、私や弟を大声で怒鳴りつけるような真似はしない方だから。

 弟もびっくりしていました。

 

 父はまたため息をつくと、疲れたように眉間を揉みました。


「駄々をこねるな」


 声量は落ち着きましたが、腹の底がまだふつふつと煮えたぎっているような声だったわ。


 私は何も言わず食事の席を立って、自室に戻って肩掛けを適当に一枚ひっつかむと、外に出ました。


 そして、生まれて初めて家出したのです。

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