第13話 一粒のぶどう

 とにかく、優勢になった私はこの機を逃すまいと、弟の前髪を片手で鷲掴み頭を床に押し付けてから、顔を近づけて罵ってやりました。


「あんたみたいに虚栄心の強い子が夫じゃ、お嫁さんも可哀想ね! クソガキ!」


「お嬢様おやめください! 旦那様が御覧になったら大変です!」


 その時、争い声を聞きつけた召使いが数名、慌てて駆けつけてきて私を羽交い絞めにしました。


 私は、ずるずると引きずられるようにセケムウィから離されました。


 召使いが間に入って来たのなら、これで休戦せざるを得ません。

 私は乱れて前に落ちてきた髪をさっと振りはらうと、


「片想いで上等よ! バカたれ!」


 召使に引き起こされている弟に叫んで、屋敷を飛び出したのです。



「ごめんなさい。流石に驚かれたわよね」


 レクミラは珍しく羞恥心を見せて謝罪した。


 殆どが男性を占める聴衆席では、これまで一度は経験したであろう痛みを思い出した男達が、苦虫を噛み潰したような顔をしている。


 ただし、ライラだけは至極真面目な顔でレクミラの行動を褒め称えた。


「非力な女性が手っ取り早く男性に勝つには股間を狙うのが最善です。合理的ですわ」


 流石は現役軍人である。勝ち負けとなると容赦がない。


「そういやビントアナトも強ぇよなあ……」


 アーデスは、カエムワセトの姉であり、実父ラムセスの側室の一人となったツワモノを例に挙げた。


 ビントアナトも、弟のカエムワセトに相当強気である。


「いや、あの方はそもそも、断固として口ごたえを許さない、と、いうか……」


 レクミラとはまた違った気性の激しさを持つ姉について、カエムワセトは後半ゴニョゴニョと口ごもる。


なんです。あの人は」


 ビントアナトに幾度も痛い目に遭わされているライラが、カエムワセトの台詞に便乗して忌々しげに言った。


 レクミラがカエムワセトに、にこりと微笑む。


「あなたにもお姉さまがいらっしゃるのね」


「ええ。頭が上がりません」と、カエムワセトは苦笑いで返した。


 その苦笑いからレクミラは、カエムワセトのビントアナトに対する苦手意識を察し、控えめな応援を送る。


「兄弟は仲が良いに越した事は無いけれど。無理のない範囲で頑張ればよろしくてよ」


 兄弟といえど人間同士である。相性はどうにもならない。


 カエムワセトもけして姉を嫌っているわけではないのだが、支配的な姉の所業には会うたびに頭を痛くするのも事実である。


 レクミラから寛大な意見を貰ったカエムワセトは、「ありがとうございます」と心から礼を述べた。



 私は家を飛び出した勢いのまま神殿に向かいました。

 こうなったらもう、イエンウィアを何としてでも説得して結婚を承諾してもらうしかないと思ったのです。拒否されるでしょうけれど、ごねてごねてごねまくってやろうとね。

 そのほかの事は、後で考えようと。


 西門に続く壁沿いに走っていると、いきなり壁から何かが出てきて、私と派手にぶつかりました。

「きゃあ」という叫び声から、人だと分りました。


 尻もちをついた私は、謝罪しようと慌てて起き上がりました。そして、目の前で同じように尻もちをついている人物の姿に、目を丸くしたのです。


「キキ?」


 その人物は、以前、供物を盗もうとしていたあの子供でした。ちゃんとご飯を食べられているみたいで、あの頃より幾分顔色が良く見えましたわ。


「レクミラさま!」


 嬉しそうに笑ったキキは、驚くべき事に私を様付けで呼んでくれました。


 キキの周りには、パンと葡萄とデーツが散乱していました。

 神殿からもらってきたものだとすぐに分りましたわ。そうよね。イエンウィアが約束を破るはずがありませんもの。


「イエンウィアに会ってきたの?」


 訊くと、キキは首を横に振って、今日は別の神官から貰ったのだと言いました。イエンウィアのことも、キキは様付けで呼んでいました。


 最近は、キキの姿を見ると神官の方から声をかけてくれるようになったと、キキは嬉しそうに笑いました。

 出入りはやはり、犬や猫が通って来る穴を通りぬけているようでしたの。私達がぶつかったのも、丁度その穴の前でしたわ。


 落とした食べ物を拾い集めながら、楽しげに話すキキを見ていたら、私の中で暴れていた怒りが幾分おさまりました。


 私も幾つかパンとデーツを拾ったのでキキに渡しました。キキは「ありがとう」と言ってそれらを受け取ると、私の手首を見て仰天しました。


「それどうしたの!?」


 言われて初めて、自分の両手首が真っ赤に腫れている事に気付きましたの。

 弟も頭に血が上っていたから、手加減できなかったのでしょうね。まったく、あの子ったら未熟者だこと。


「ああ、弟と喧嘩したのよ」


 私の答えに、キキはしばし言葉を失っていました。

 そのあとで、


「大人なのに?」


 と、少々私の心に刺さる事を言ってくれました。


 私が神殿まで来た理由を話すと、キキは「絶対行っちゃ駄目!」と強く言って、私を自分のねぐらに招待してくれました。


「冷静になってよ。ごねまくったところで、イエンウィア様が『うん』て言うはずないでしょ。状況が悪くなるだけだよ」


 窘めながら私の手を引いて歩くキキは、私よりも年長者のようでしたわ。

 初めに会った時は私がキキの手を引いたのに、その時は逆だったわね。

 

 キキのお家は、昼間は露店が軒を連ねている繁華街の路地裏にありました。そこには、子供の路上生活者が沢山集まっていて、キキより小さい子も大勢いたわ。

 

 キキは群がって来る小さい子たちに「ただいま」と言うと、神殿から貰って来た食べ物を配り始めました。


「あなたは食べないの?」


 と訊くと


「私はこれだけあれば十分」


 そう言って、キキはパン半分と、葡萄五粒を見せてくれました。


 お気づきになって? 実はキキは女の子だったのですよ。優しい顔をしているなとは思っていたのですけれど、声が少し低かったし、痩せている上に体のラインの差もハッキリ出る年頃ではなかったから、私もどちらか判断に困っていたのです。

 彼女が口にした一人称で性別が知れてよかったわ。


「レクミラ様。こっち」


 キキは階段横にあるテントのような所に入って行きました。

 キキと私が入って脚を伸ばすのがやっとなくらいの広さでしたが、下にはちゃんと敷物が敷いてあって、意外と居心地はよかったわ。


 何の抵抗もなく座った私に、キキは「へんなの」と笑いました。


「貴族のお嬢様が、服が汚れるのも気にせずこんなとこ座るなんて」


 変なのかしらねえ。確かに私のお友達の中になら、嫌がる方もいそうだけれど。私はそれほど気になる性分じゃないのですよ。

 ボロボロの場所だったけれど、清潔には極力気をつけているようでしたし。服は汚れたらまた洗えばいいだけだもの。


 キキは掌の中の葡萄を一粒取ると、私にくれました。


「どうぞ。でも一個だけね」


 家で弟相手に派手に暴れて、ここまで走って来た私は、喉も乾いていたしお腹もすいていたので、キキの気持ちを有難く頂戴しました。


 優しい子よね。貴重な食べものだったのに。

 キキの心遣いが嬉しかったからか、葡萄がとても甘く感じました。


「帰ったら、ちゃんとご飯を食べてね」


 けれどキキのその言葉に、私の気持ちは再び大きく沈みました。

 多分、弟は私と喧嘩した事を父に話しただろう、と。

 勝手に家を飛び出したし、帰ったら叱られるのは分っていました。でもそれ以上に、私が家に帰ればそれだけ嫁入りが早まってしまうような気がしたのです。

 私が居ようがいまいが、嫁入り準備は父の采配で全て決まるというのにね。その時は、そんな簡単な事も分からないくらい、気が動転していたのよ。


「……帰りたくないわ」


「駄目だよ、帰らなきゃ。騒ぎになっちゃうでしょ」


 私のワガママを、キキは姉のような口ぶりで諌めてきました。


「願った事全部が実現するんなら、私は今こんなとこにいないよ。自分に課せられた運命の中で、幸せになる道を探すしかないんだよ」


 そしてキキは「大丈夫」と私の手を握ってくれたのです。


「八方ふさがりに思えても、諦めなければきっと、何かしら道は見つけ出せるもんだから」


 氾濫したナイル川に家族全員が呑まれた時、最後まで諦めずに足掻ききった私が一人生き残ったみたいに、レクミラ様もどっかの岸には必ず辿り着けるからね。


 自分の辛い経験を語ってまで私を励ましてくれたのが嬉しくて。それからキキにそんな事をさせてしまった自分が情けないわ申し訳ないわでね。

 私はキキを抱きしめて泣いたわ。


 家に帰ったのは、すっかり暗くなった頃でした。道中、どのお家も夕食時だったようで、そこかしこから美味しそうな香りが漂ってきて、私のお腹を鳴らしました。


 私は予想通り、父から大目玉をくらいました。その上、夕食抜きで翌日は外出禁止。でもそのお陰で、家で一日中、落ち着いて今後を考える事ができました。


 イエンウィアに嫁入りの話が来た事を伝えて、もう一度結婚を求めてその上で断られたら、私は諦めて宰相の息子とやらに嫁ぐしかないのだろうと、そういう結論に至ったわ。


 お弁当なんて作ったりしなければ、もう少し猶予があったのかしら、なんて考えたけれど。悔やんだ所でもう遅いし、二人でお弁当を囲む時間は確かに幸せだったのだから、仕方ないのよね、と自分に言い聞かせたりもしました。


 最初は漠然と恋愛結婚を望んでいただけだったのだけど……幸か不幸かたった一人を望むようになって。それを叶える事がどんなに難しいかを、私は痛感しました。

 

 イエンウィアは確かに私に対してある種の好意を寄せてくれていたのだけど、私を受け入れてくれるまでには至らなかった。

 我を通す為に人の気持ちをどうにかしたいなんて、おこがましい考えだったのよね。


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