第一話『異世界転生』
現世に避妊具ほどの未練も残さずにビルから飛び降り、藍色と朱と金と夢も現も全てが曖昧なようなそれこそ黄昏と言うに相応しい空に浮かぶ星屑が異様に意識の内側に張り付いた感覚の中で、引きちぎろうと力を入れられた意識が限界まで伸びたところで、ぷつんと切れた。
(切れる? いや、途切れるが正しいかも)
いつから意識があるのかもわからないが、瞳や目、呼吸という概念がどこにもない暗闇で私はふよふよと漂っていた。
ヘリウムで浮かされた風船の方がまだ舵を取れるような気がするが、なんだったら浮いているという感覚すら違うのかもしれず、けれど心地よかった。
想像でしかないが羊水に浸り、胎盤に張り付いている、というのが最も近いような気がした。
だが、そんな状況の中でたった一つ理解できるものがあった。
それは、夢だ。
私自身に意識があると自覚するよりも前に、どこか遠く、私自身の知る現代とは全く常識の違う世界で、ある一人の女性の人生を追いかけていた。
(追いかけていた? 追体験だったか? 違う気がする……)
言葉にすれば物語を書く際に世界観を説明するパートというのが存在するのだが、まるでそんな感じで、彼女の短い一生を見させられた――――いや、私の中に存在させられていた。
そんな彼女の最後は、動物の腸や魚の浮袋なんかよりも薄い未練の私と違って勇者ともてはやされた挙句、二十も生きれずに戦死したのに生に対してとても執着していた。
(違う、執着という負の表現よりももっとプラスだった。勇者ともてはやされるほどの力を持ちながらそれをもっと、もっと正しく使うことができなかったのか、言葉にすれば……口惜しさ……もマイナスな気がするが)
ただ、そんな夢らしき中で死んでいった彼女は、死の間際に何かを言っていた。今や意識を持ってしまった私だと思い出せないが「酷い奴」だと思ったことだけはなんとなく覚えている。
結局、時間の概念すらなく光もなく暇もなく、感情と思念だけになってボイドの中心にいるような無で、延々と永遠に思い出そうとしても星の欠片も記憶の欠片も今や無い脳髄に染み込んだ天の川だけが星の匂いと共に残る。
飛び散った髄液を不純物から守るように掬い取ろうが、散った頭蓋骨を一枚ずつ摘まみ取ろうが、千、万、億、兆、無限のジグソーパズルになった脳細胞をつぎはぎしようが何も思い出せやしない。
ここで私は悟った。何も、ないのだと。それこそ溢れ零れる思考に意味はないのだ。考えることをやめたくなる――のもわかる。
けれどシフトした思考は続く。しかも身に覚えのある感覚なのがまた悪く、そう簡単に考えるのをやめることなどできない。
まるで生前心の風邪……いやもっと言葉を強くすれば、放っとけば死に至る心の癌である鬱を患った時のように、薄暗い部屋の中で自分が描いたちり紙にすら及ばないなんの意味も持たない自慰行為程度にしかならない物の山に埋もれた時に近かった。
接客業などという人の負の感情をぶつけられるサンドバッグ要員と言って間違いのない仕事、あれが三割、売れない漫画四割、根暗三割で私は自死を選択した訳なので、そこまでボロクソに言う必要はないだろうが、それほど嫌いです。
……とまあ、そんなことはどうでもよくて、というか考えたくなくて、つもり、生前のことを考えたところで碌な事にはならないのだ。
まあ、そんな風に思考を切り替えながら待つこと永遠。
(いつまで待てばいいのかな)
辺りを見回しているかすら、なんだったら体があるのかすらわからないが、生前の体があった頃のように見回すけれど、やはり周囲に変化はない。相も変わらずボイドが広がっていて気が狂いそうな猟奇的な闇しか確認できない。
そうして思いつくのが、ここが所謂天国や地獄の待合室ならその高次元の存在に名を呼ばれそうなものなのに、他に待ってる人……人? もいるようには見えない訳で、私がここで不快で愉快な浮遊感を矜持し続けていることに意味はあるのかという疑問だ。
実はもう地獄にいて何もない世界というのが私に与えられた罰なんじゃないかと思えてきている。
もし一神教で言う全知全能の神サマが存在し、創った人間一人一人が死んだところでそれをまた罰したり、あるいは天国などという場所に行かせる作業があるのなら、とてつもなく大変な仕事だ。
私なら拒否するしそもそも人間なんて作らないだろうな。
――――本題に戻すが、自死した私が改めてなぜここにいるのか、そんな話がしたいのである。
これが罰なら罰でいいが、それ以外の理由を考えた時に意味がわからない。
(結局、私は地獄も地獄、現世からは逃げれた訳で)
現世であのまま八十年も生きるなど、このボイドのような空間にいるよりもよっぽどマシだと思う。
欲を満たす必要も、排泄をする必要も、誰かの顔色を窺う必要も、金という存在を理解する必要も……悩む必要もない。
もちろん、誰かのサンドバッグにされることもない。
そして――もう物語を描く必要もないのだ。
(この感情こそが……口惜しさなのかな)
あらゆる苦しみのない世界に来れて、存在になれて、自死する覚悟を決めたあの時も自問した言葉に、私は迷いなく答えれたのに。
(いやいや、どうだろ)
逆に考えれば、他の苦しみから解放され、新たに与えられたこの環境は、一種のチャンスじゃないだろうか?
他に煩わしいものもなく、それこそその言葉の通り永遠に物語を紡げる。パソコンもスマホも紙もペンも無いが、この寂しさを埋めるには十分だ。
私はそう心の内で呟き、思考の海に意識を沈めた。
時間に有限さは無くなった。
肉体の有限さは無くなった。
誰も私を否定する者もいなくなった。
これこそが、私の望んだ世界である。
さて、どの程度時間が経ったのかわからないが、大体書き終えた小説は二十万文字越えを二十冊ほど、頭の中で開いていた妄想週刊連載のマンガは打ち切りからアニメ化、映画化した物を含めれば五十を超えた頃であった。
生前のように描いて書いてかきまくった作品が無い瞼の裏に映るかの如くボイドに散らばっていたのだが、その空間に異変が起きた。
この場所が二次元であるのか三次元であるのか、手を伸ばしたとしても得ることのできない答えの中、それはまさに三次元的に現れた。
だが瞬きの間に現れた訳ではなかった。
半月型と呼ばれるピザカッターでアメリカン太っちょがアメリカンサイズのピザを切り分けるように、あるいは家庭じゃあまり使われないであろうウェーブナイフで生クリームのホールケーキを切り分けるように、隙間ができたのだ。
私がジーっと見つめているとその隙間は大体人一人分の隙間を上から下へ作り、微かに風を誘い込んでいた。匂いを久しぶりと感じるには時間感覚が消失し過ぎていたが、カビ臭さと他人の家の匂いはなんとなく懐かしく思うものの、手を伸ばすことも覗き込もうともしなかった。
心のどこかでこれからが本当の罰なんだと、そう考えていたからだ。
「あれ?」
しかしどうにも不思議なことに、先程まであった浮遊感はいつの間にか消え去り、ボイドに浮かんでいた……浮かばせていた私の作品達が跡形もなく消え去っているのだ。
それだけじゃない、星光も星々が石ころのように転がる天の川も見えない、体があればうなじから青白くでも肉感のある背中、ほどよく脂肪が乗り突出する臀部、華奢でありつつ女性感のある太腿と脹脛までを汗でそぼ濡れさせ、全身の穴という穴を震わせる猟奇的な闇が、無くなっていた。
代わりにあったのは、隙間から漏れる人工的か太陽による明かりにほんの僅か照らされた木のような材質の壁と天井だ。
しかも……
「しゃ、しゃべれてる……?」
ついさっきまで喋るという行為ができていなかったはずが、きちんと喉を震わせるような声を出せているではないか。
「うぇ、えぇ……?」
一体どういうことなのか、肉体を捨てながらも女としてはあまりに艶やかさとかけ離れた声が出て一瞬自分でも驚いてしまうが、そんなことなぞ今にも大粒の雨が零れ落ちるような空模様を更に不安にさせる冷たく強い風が吹き荒び、飛ばしていった。
――なんと、体があるのだ。
腕、体、足、差し込む隙間光に照らされて鈍色に輝きを放ち、言うまでもなく一目見て人の体ではない。
あまり広くない空間ゆえ、木の壁に肘を擦りつけながら頭があるであろう箇所へ手を伸ばすも、風呂に入って洗うのが面倒なほどの長さの髪は存在せず、下を向けば剃るのが面倒な産毛など一切生えることがないであろう無機質さが視界を覆う。
何が起こっているのか、捨てた肉体が、選んだ死が、なぜか反転しているその事実に私は酷く動揺する。
例えれば夏の風物詩、静寂に爽やかな音色が美しい風鈴が、台風によってブルンブルン暴れているといった心境だ。
けれど、台風が落ち着き風が止む事態が起きる。
「ここにあんだろ!?」
男の野太く焦燥と怒りと腹に力が込められたどす黒いくぐもった声が聞こえて来たと思うと、続いて何か小さな物がボーリングのピンを倒したような音がし、尋常ではない何かが起きてると容易く想像させてくれる。
(こういう時はとりあえず落ち着こう)
声を出さない従来の独り言を心の中でして、とりあえず私は隙間へと手を伸ばす。すると見た目通り、扉のような物でガントレットと言い表すしかない手が当たったところ、蝶番が軋み扉が外側へ開いた。
線のように細く僅かとしか言えない量の光だったのが、堰き止められたダムが決壊したかの如くなだれ込み、ボイドに似た夜闇よりも暗い世界にいた私の目を潰す。
ただそれも一瞬で気づいた頃には部屋の細部まで視認できるようになっており、映った風景はごく普通の景色であった。
だけれど、違うところはある。使い込まれ油の染みができた机、その上に乗ったやすりのような物やハンマーは、そこが所謂ゲームやアニメ、日本人がイメージする中世ヨーロッパの鍛冶屋と言った風貌なのだ。
と言っても完全なイメージ通りではない。一目見た感じだと鉄を溶かすような設備、鋳型などもあるようには見えない。
「悪く思うなガキ……! 俺らだって生きるのに必死なんだよ!」
再度聞こえるくぐもった男の声と鈍い音、どうやら今確信したがここは建物の二階のようだ。私から見て右手側の奥にあるベッドを挟んだ先、窓があって外の様子が窺えるのだが、私が立っている場所からは向かい側にある建物の屋根しか確認できないのだ。
つまり、ここは二階建ての二階で、まだ見ていない左手側にあるのが……
「や、やめ、やめ、て……」
「……! しつこいやつだな!」
そうやって左手側へ頭を向ければタイミング良く、階段を上る男とそれを止めようと必死の抵抗で足にしがみつく子供の姿が目に入った。
男は狙ったのかその子供へ容赦のない蹴りを繰り出し、しがみついていただけの子供は階下へ転がり落ちていき、そうしてそれを見ていた私と男は目が合う。
最初こそ、最初の一瞬きほどこそ固まっていたが、彼はすぐに懐からナイフを取り出して、構えた。
人を殺すだけの、覚悟はあるようだった。
何が起きてるのか、ここがどこなのかなどまだ混乱はしていたが、これでも創作活動をしていた身だ。
これが一体なんなのかはわかっている。
だがそれを整理する前に……
「あんたは死にたがり? それとも生きたがり?」
――――静かに拳を構えた。
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