第2話

『あ~~~~~…』


 震えない喉を触りながら、発声して具合を確かめる。相変わらずの無機質さが混じる声色には未だ慣れる気配はない。もう10回は繰り返したこの行為はしかし、何の理解にもつながらなかった。いや、正確には私の身体が変わってしまっているということは理解できたのだが。


『あ~~…やっぱ慣れないなぁ、この感じ』


 発声を打ち切り、手を口元へやる。しかしそこに口はなく、つるつるとした滑らかなガラスに触れるかのような感触だけが返ってくる。

 …今の私の顔には口どころか、鼻も耳も目さえも存在しない。顔に触れた感覚があることから、顔がマスクやヘルメットのようなもので覆われているとかそういうこともなく、単純に顔面のパーツが存在しないことがわかる。


 私はになってしまっているのだ。鏡が無いためしっかりとその容貌は確認はできていないが、とにかく普通の人間ではなくなってしまっていることは自身の感触で理解できていた。



 ぺきき…っ。



 小枝が踏まれ、折られる音が響く。


 …感覚器官である顔のパーツが無いのにどうしてこうも音や光が認識できるのだろうか。全く以てわからない。とにかく普通ではないということはわかるのだが、どうしようもないので理解を放棄することにした。


 信じられるだろうか。手で顔面を覆っても前が認識できるのだ。こんなの人間をやめているとしか思えない。この石みたいな体と相まって私はロボット…あるいはサイボーグにでもなってしまったんじゃないかと本気で思い始めている。


 ちなみに、どういうわけか私の側頭部には牡牛の如き立派な角が生えているらしい。視界の上部にも少し先端が見えていることから、相当大きいと思われる。



 まぁそんなことはさておき。



『はぁ…。これからどう生活すれば…』



 ため息をついてみるものの、口から息が出ることは無くただため息の声だけが漏れるのみだ。事故から生き延びたのは喜ばしいことで間違いないはずだ。だがしかし、体がこう…言ってしまえば異形の存在になってしまったのはどうしたものか。


 よしんば遭難者の救助が来たり、あるいは人里へたどり着けたりしたとしてもものすごく警戒されてしまうだろう。あの後周辺を探ってみたものの、結局衣服どころかそのほかの荷物も何も見つけられなかった。運転免許証などの身分証明書も当然紛失してしまっている。言葉は話せるわけだし、事情を説明すれば理解してくれる人がいるとは思いたいが…。



 さくさくと落ち葉を踏みしめつつ、自らの重量に由来する深めの足跡を地面に刻みながら私はまっすぐに歩いていた。目的地はない。進行方向は直感で決めた。とりあえず道路に出たいとは思っているものの、そもそも自分が何処にいるのかさえ定かではないためまずは歩き回って場所の把握をするほかないと考えたのだ。


 とりあえず、現在はうっそうとした道なき道を進んでいる。道が見つからなかったため致し方なしでの行動だが、ひたすらまっすぐ進んでいるだけなので振り返って戻れば最初の地点に行くこともできるだろう。大丈夫だ。道中所々に草をいくらか摘み取って作った目印を掛けてきているため、仮に少しくらい迷っても大丈夫大丈夫…。



 ひとたび思考を止めると、さくさくという落ち葉を踏みしめる音だけが聞こえてくる。静かだ。さっきまでは鳥の声も聞こえていたのだが、いつしかそれも止んでしまっていた。木々の合間から見える空模様も依然として怪しいままだ。思えば今は6月の頭、梅雨入りの時期なのだからいつ降り出してもおかしくない。


 …本音を言えば、行動しないと不安感に押しつぶされてしまいそうなのだ。大事故に遭ったと思ったら見知らぬ森のなかで独り。孤独は苦ではないものの、いつ変調をきたすかわからない異形の身体では急に動けなくなったりしてもどうしようもないじゃないか。何はともあれ何かあった時のための後ろ盾を早急に用意したいのだ。



『…あ~もう、ここは一体どこなんだ…?』



 ずんずんと、進む足取りに力がこもってしまう。踏み込んで形作られる足跡が深くなり、押されめくりあげられた土が裸足に付着して不快だ。



 見渡す限り木、木、草、木…どこへ目を向けてもあまり変わらない景色だ。いくら森が好きだと言っても、事態が事態であるため焦りが生まれてくる。不可解な事象が重なり、さらに好転する気配もないため苛立ちもふつふつと湧いてくる。


 しかしながら、やはり行動してみることで得るものはあるのだ。



 それが幸運であったのかはさておき。




 がさっ。


『んむ?』




 音が聞こえた。


 今まさにかき分けていこうとした茂みの奥からだ。

 …もしや、誰かいるのだろうか。それか、何か動物がいるのか?



 様子を見ようと数歩後ろに下がると、音の主が姿を現した。



「チチチ…」



 …それは、猫ほどの大きさがある巨大なイナゴだった。



『おわぁっ!?』



 人間の脚力には似つかわしくない、ズドンという音を立てながら後ろへ跳躍した。

 瞬間、 どっぱぁん!! と炸裂した土壌が前方──イナゴへ向けて、大量の土を殺到させる。あまりの巨大さに驚き、加減などせずに全力で飛び退いた結果の事だった。



『うわ──っ!?』



 一瞬、何が何だか分からなかった。数瞬遅れて思考が追い付いてくると、この突然の爆発は私が原因なのだということが判断できる。しかしまさか、ここまで(悪い意味で)派手な事態を起こすなんて全くもって妄想すらしていなかった。


 茂みは土塊によってものの見事になぎ倒され、撒きあがる土埃によってよく見えないが意図せず道を切り拓く形になってしまったようだ。


 驚愕の連続で思考もままならない中、視界の隅で土を避けたイナゴが飛び跳ねながら去っていく様子を捉えた。その巨大さに違わぬ凄まじい速度だ。一回の跳躍で5メートルは余裕に移動していく。2秒と経たないうちにイナゴは完全にその姿を消した。


 撒きあがった土塊と土煙も次第に落ち着き、森は再び静寂を取り戻していく。


 遭遇と自身の身体能力に腰が抜けてしまった私は、数分間へたり込んだまま動けないでいた。だってめっちゃデカいバッタに遭遇したうえ、自分が出したとは到底信じられないような馬鹿力で…意図せずとはいえ、攻撃してしまったのだ。状況の把握に時間がかかっても文句は言わないでほしい。



『…びっっっっっっくりしたぁ…!』



 ようやく絞り出せた一言は…ひたすらに平凡な感想だった。語彙が貧弱である。



『えぇ…あれ、イナゴだったよな…?枕みたいな大きさだったぞ…』



 思い返してみても、ちょっと現実味がない。いや、私の身体の事とかも現実味があるか無いかで言えば当然無いのだが、自分の身体であるという認識があるためある程度受け入れられているのだ。


 しかし、イナゴは違う。あんな巨大な昆虫が現実にいるなんて見たことも聞いたこともない。生き物好きとしては、あれだけの大きさに成長するためにどれほどの餌が必要なのかとか、そもそも重力のせいで動けないんじゃないかとか考えてしまう。たしか、最大級の昆虫でも広げた手のひらくらいの大きさだったはずだ。ああ、ナナフシとかいう昆虫が長さではもっと大きかったっけ。


 しかしだ、あのイナゴはそれこそ猫や小型犬のようなサイズでしかも物凄く俊敏だった。大きい節足動物は総じて動きが緩慢なことを知っているため“常識”との乖離が激しい。



(なんなんだ一体…って、あれ?)



 蹴りによってなぎ倒されてしまった茂みの向こう。数十メートル先に何やら奇妙なものを見つけた。木立の中に1本だけやけに目立つ木がある。樹皮が雪のように白いのだ。


 私は元の道に戻る際の目印となる簡素な草のリースを作り、なるべく見つけやすいように目線の高さにある枝に掛けてからその木の方へ歩き出した。



(あの白さは…白樺シラカバとか?でも、それにしたって白すぎじゃないか…?)



 近づくごとにその木の異様さが際立ってくる。茶色の樹皮を持つ立木ばかりの林内で、その木だけが輝くように存在しているのだ。



(ちがう…?となるとなんだろう、ユーカリとか?でもこんな普通の森のなかに生えてるものなのか…?)



 白い樹皮の木は国内にいくつか自生している。代表的なのは最初に考えた白樺だ。冷涼な気候と日あたりを好む樹木で、標高の高い地域に生えている。また、森林は勿論その辺の公園や生け垣など様々な場所に生えている椋木ムクノキだって若い木は遠目から見れば白い。だがこれらの白い木も、近くで見れば茶色や黒っぽい部分が混じっている場合がほとんどだ。


 しかしながら、今目の前に捉えた木はそれらの樹木とは異なり、純白の樹皮を有しているように見える。だんだんと近づいてわかったことだが、くすみさえも無い降り積もった雪のような冷たく美しい白さなのだ。


 そして木に対して2,3メートルほどのところまでに着くと、遂にその全容を理解できた。



『見たことない木だ…というか、これは木なのか?』



 高さは5メートルほど。自然物とは思えない、通直な純白の幹には同じく純白の多数の枝らしき物体が多数生えている。しかしその枝はさながら大文字の“L”のように途中までは地面と平行に、そして途中から直角に折れ曲がり上に伸びているという不思議な形をしていた。…わかりやすく言えば巨大な七支刀だ。



 うん。明らかに自然に存在するものではないな。



 そしてこんな原生林に等しい人気のない森のなかにオブジェを立てる意味も分からない。可能性としては何らかの記念碑だろうか。となると触れるのはよくなさそうだ。



(しかし…森のなかに放置されているみたいだけど、全く汚れてないな。もしかして誰かが掃除しているのかな?そうだとしたらここにも人が来るってことだ)



 森の中というのは存外汚れやすい。雨水による泥ハネは草木との接触による樹液の付着、また細かい視点では空気中の微細な塵が枝葉に付着し、それが雨で落ちて来たり擦り付けられたりすることで構造物は例外なく汚れていくのだ。

 

 さらには菌や動物…先のイナゴなど昆虫類の活動だって当然汚れや痛みの原因になる。薬剤処理をしていない木製の物品なんて数年で朽ち果ててしまうだろう。


 だがしかし、目の前の記念碑(?)には一切の汚れが無い。ピッカピカだ。こうなると、この記念碑が直近で建てられたばかりであるか、もしくは何者かが入念に掃除しているのだろうと予測できる。つまりここは人が出入りするのだ。



(いいぞ…!希望が見えてきた…!)



 普段の森林散策ではこういったあからさまな人工物を見ると微妙な気持ちになっていたが、いざ人間社会から完全に隔離されてみるとこういった人の痕跡に安心感を覚えて仕方がない。人間という物は社会性動物なんだなぁと今更ながら実感した。



(まぁ、まだ安心はできないんだけどさ)



 人の痕跡を見つけたのはよいことだ。しかし問題はここからどう動けばいいか。この記念碑を立てた人々が何処から来てどこへ去っていったかは全く以て不明だ。見たところ周辺に道はなく、足跡などもない。かと言って次はいつ人がここへ訪れるのかということも不明だ。もしかしたら掃除したばっかりで次来るのは数か月後…なんてことも考えられる。その間道具も無いのにサバイバル生活をする自身は…ない。


 化け物イナゴを見たばかりであるため、他にも無茶苦茶な大きさの生き物がいてもおかしくないと考えたのだ。そういった危険生物(仮)の存在を考えるとうかつに動く方が危険かもしれない。


 どうしたものかと頭を掻こうとして、側頭部に生えているのであろう仰々しい角に遮られた。ため息が漏れそうになるが、頭を振って阻止する。観衆なんていないため別に出しても咎める者はいないだろうが、なんとなく出したら気が滅入りそうだったのだ。


 私は考えをまとめるために、記念碑の傍に腰を下ろすことにした。少し考えをまとめようと思ったのだ。オブジェを背に林床の湿った落ち葉の上にどっかりと座り込むと、素肌…と言えるのかわからないが、とにかくじめっとした感触が直に感じられて少し気持ちが悪い。しかし、ここにはシートも何もないのだ。諦めが肝要だろう。



(う~ん…ここで待つか、探しに行くか…どうしようかなあ…)



 ここまでで既に数キロメートルは歩いたと思うのだが、不思議なことに体に疲れはまったくない。舗装されていない森で草木を乗り越え&踏み越えながら歩くだなんて足が疲れること間違いなしだと思うのだが、体の調子はいたって普通…それどころか恐ろしいくらい快調だ。


 先のイナゴ遭遇事件からある程度分かってはいたが、どうやら私の身体能力は少々常軌を逸しているらしい。道中試しにちょっと踏ん張ってジャンプしてみたときは、高身長も相まって5、6メートルもの高さまで手が届いてしまった。木の高めな枝に余裕で飛びつけるとかいうとんでもない跳躍力だ。

 正直自分で自分の身体能力が信じられず、夢を見ているのではないかと何回か頬をビンタしてみたりもした。…返って来たのは ごんっ とか がんっ とかいう硬い音だけであったが。とりあえず、触覚は普通なのに痛覚はかなり鈍いらしかった。



『う~ん…』



 腕を組み、何とはなしに唸ってみる。そうしたところで事態が進むとは思えないが、こういうのは気分だ。気分というのは大事なものだ。特にこういう非常事態では尚更メンタル面の安寧が生死の境を分ける…と、漫画で読んだ。根拠が漫画だなんて失笑モノかもしれないが、漫画や小説といったサブカルチャーもそれなりに好んでいた私にとっては誰が何と言おうと安心感をもたらすものなのだ。うん。


 そして、そんな自己弁護を脳内で展開していると…



 ≪…… 言語獲得完了 特殊型哨戒ユニットノ接触ヲ確認 ……≫



 背後から少女の声が聞こえた。

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