ある年の派遣社員デー


派遣社員デーが近づくと、未だにソワソワしてしまう。


もうそんな年でもない。

はずなのだけれど、「もしかしたら」を期待してしまう。


それは、あの年の派遣社員デーのせいだと思う。




僕が大学を卒業してすぐのことだった。

ある会社で派遣社員として働いていたとき、上司から声をかけられた。


「天野くん、ちょっと仕事が終わったら、オフィス裏に来てくれる?」


「え?あ、へい。」


突然の事で驚き、変な返事をした。

普段あまり口をきく間柄ではなかった。

だから、その日が何月何日か知らないわけではないだろう、と思いつつ、そのときの会話はそれで終わった。




仕事が終わり、約束された時間にオフィス裏に行った。

そこには呼び出した上司の他に数人の上司が、状況を伺うように草影から隠れて見ていた。


上司は咳払いをしてから「大事な話があってね。」と、バーコード未満の髪を整えた。

普段の仕事ではあまり見せない、もじもじとした態度をしている。

草影をチラリと見ると、黒縁メガネの上司が「ファイト!」のポーズをしていた。


それにコクリと頷き、上司は改めてこちらに向き直ると話を続けた。


「天野くん。初めて見たときから気になってました。受け取ってください。」


差し出された手には『正社員雇用の契約書』があった。


その日は派遣社員デー。

1年に1度、上司が気になる社員に、正社員雇用の契約書を渡して気持ちを伝える日。


僕はそのとき、産まれて初めて正社員雇用の契約書を貰った。

話には聞いていたけど、実際に渡されると、特に気にしていなかった上司でも、意識せずにはいられなかった。

普段は上司っぽいところなんてあまり見せないのに、目の前にいる上司の一挙手一投足が上司のそれに思えたのだ。


「でも、他の人にも正社員雇用の契約書渡してませんでした?」


僕はその1点だけが気になっていた。

昼間、他の社員にも契約書を渡しているのを見かけたのだ。


「あれは義理の契約書だよ。毎年渡しているから恒例になっちゃったんだ。」


「それならよかったです。僕以外にも渡しているのかと思って。」




僕は正社員雇用の契約書を受け取った。

可愛いリボンをあしらった契約書だった。

家に持ち帰り、親にばれないように自分の部屋でこっそり食べた。

手の熱で少し溶けかかっていたけれど、あの味は今でも忘れられない。




それからしばらく、正式に上司と部下という関係が続くと思っていた。

けれどそれは、ひと月という短い期間で終わりを迎えた。

正社員として雇ってもらっておきながら、ひと月後に何のお返しもしなかったのだ。

上司は「そういうの大事にしない人なんだね。」と、寂しそうにネクタイを緩めオフィスを出ていった。




初めて正社員雇用の契約書を貰ったあのドキドキ感。

その後の結果は残念な形に終わったし、職場も変わったけど、もしかしたら今年は契約書を貰えるんじゃないかと、毎年ソワソワして、派遣社員デーは朝4時に出社している。

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