『ありがとう』を返した話

これは高校生の頃の話だ。



クラスメイトの有野から「この前渡した『ありがとう』返してくれないか?」と言われた。



以前、有野が日直だったときのこと。

仕事が終わらない有野を見ていた誰かが、気を利かせてプリントの配布をしてくれたことがあった。

それは僕ではなかったのだが、どういうわけか翌日、有野は僕に『ありがとう』を渡してきたのだ。

もちろん僕ではないことを正直に伝えた。

すると有野は「なんだよー、今の『ありがとう』返してくれよ」と言った。

僕の方も勿論『ありがとう』を返そうとした。

タダで貰うなんて虫がよすぎる。

ところがその後、他愛もない話に話題がそれてしまい、うっかり『ありがとう』を返すのを忘れてしまった。

帰宅後、バッグの中に『ありがとう』を見つけるとすぐに電話し「とりあえず預かっておくことにしよう」となった。



それを2週間も経って返してくれと言われるとは思っていなかった。

確かにその場で「とりあえず預かっておく」ことにしてはいたが、2週間も経てばそれはもう「あげた」「もらった」の認識だと思っていたからだ。

僕は困惑した。

実は家のリビングに置いていた『ありがとう』を弟がうっかり踏んでしまったのだ。

人からの物を不用心に床に置いていたのがいけなかった。

『ありがとう』はバキバキに割れていた。



あの『ありがとう』は返せないことを告げると、有野は怒った。

当然だ。

人の物を預かっておいて割れました、返せませんでは済まされるはずがない。

どうにか有野の怒りを静めなければならないと思った僕は、あることを思い出した。

その日、クラスメイトの濱口さんから『ありがとう』を貰っていたのだ。

僕は怒る有野を制止し、バッグの中にあった『ありがとう』を出した。

「実は同じものが見つからなくて、濱口さんの声なんだけど」と断りを入れつつ有野に渡した。


「え!?濱口さんの!?」


驚いた有野は『ありがとう』を耳元にあてて何度も聞いた。

有野は濱口さんの事が好きだったからだ。



これでひとまず有野との問題は解消された。

しかし、この後は濱口さんの誤解を解かなくてはならなかった。

「それ手伝ったの、僕じゃないんだ」と。

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