雨の詩

モグラ研二

雨の詩

外では、雨が降っている。


***


「エンドレース!レイン!エンドレース!レイン!」


そのように甲高い裏声で叫び続ける、上半身裸の太った男性。

白目を剥き、歯を剥き出しにし、周囲を威嚇するような、そのスタイル。


雨の降る路上である。


駅前のロータリーで、周囲には、喫茶店やレストラン、コンビニ、銀行がある。

人通りも、割合と多い。


「エンドレース!レイン!エンドレース!レイン!」


傘も差さず、雨に打たれ続けながら、肥大化した褐色の乳首を摘まみ、男は、叫び続けた。


***


岡田トシカズは、喫茶店「スイカズラ」に入る。

扉に付いているベルが鳴る。


間接照明だけの店内。

カウンターには、小太りの男性がいる。

頭の真ん中部分の頭髪が、欠如している。

頭の両サイドには、頭髪が、豊かに生えている。

黒いチョッキを着ていて、赤い蝶ネクタイをしている。

この店のマスターである。


岡田トシカズは、カウンターには行かない。

窓際、雨の降る路上が見える場所に座る。

古いスツールは、軋んだ音を立てた。


***


「ああいう変な人って、自分以外の人を程度の低い人間だって思っているのよね。意外にプライドが高くて」

「わかる。それで注意されたり怒られたりすると逆恨みして……」

「そうそう。生きづらいとか、社会のせいで不幸になったとか言うのよ、マジでキモイ……」


エンドレスレインと叫び続ける、太った中年男性を、遠くから指差しながら、高校生らしき女性2人が、話していた。


紺色のセーラー服姿。異常に短いスカート。ほとんどお尻が見えている。


2人とも薄い緑色の髪をしている。額を剥き出しにしており、まつ毛が、凄く長い。目は大きく、見開いている。


彼女たちはロータリーの庇の下で雨宿りしていた。肩手にはスマートフォンを握っている。


ロータリーには、まだ、甲高い叫び声が響いていた。


「エンドレスレインって確か昔の曲でしょ?」

「うん。Xジャパンの曲?じゃなかった?」

「好きなのかな?」

「やだ。興味ないわよ。あんなキモイ奴の好みなんて。知りたくもない」

「そうね。映画行く?《音楽のよろこび》って音楽好きな少女が幸せになる物語がやっているみたいだけど。凄くハッピーがあふれてるんだって」

「幸せは良いわ。幸せじゃないとダメよね。行こうか。どんなにつまらない映画でも、あの気持ち悪いおっさんを見ているよりはマシに違いないわ」


濡れるのも構わず、2人の女性は、「キャー」と叫びながらロータリーの庇から飛び出し、駆け出した。


***


「アメリカンコーヒーと、手づくりクッキーをください」

岡田トシカズは、窓の外を見たまま、カウンターの方を向かないで、言った。

カウンターにいる小太りの男性は、何も言わずにマグカップを出して、準備を始める。


喫茶店「スイカズラ」には、常に音楽が、流れている。今は、ガーシュインのピアノ協奏曲が、流れていた。


マグカップに入ったコーヒーが、テーブルに、置かれる。

岡田トシカズは、窓際の席から動かない。

カウンターにいた男性が、テーブルの上にクッキーを置いた。

「ありがとうございます」

小太りの男性は、軽く頭を下げただけで、何も言わなかった。

コーヒーを飲む。苦い味が広がる。


「この苦みによって、多くの人々が犠牲になった……」

そんな事実はない。だが、岡田トシカズは呟いた。


マグカップに入っていたコーヒーを飲み干す。

「ごちそうさまです」

岡田トシカズが言うと、小太りで派手な蝶ネクタイをしている男性が、小さくうなずいた。そして、カウンターの中に戻る。そこには、調理器具や食器類が置いてある。

喫茶店「スイカズラ」の中には、他に客はいない。マスターである小太りの男性と、岡田トシカズの二人だけだった。


「うん……」

岡田トシカズは、おもむろに懐から小さなノートと鉛筆を取り出した。

白紙のページを開いた。


《僕が君を抱きしめる。本当に愛してる。今すぐ君を抱きしめて離さない。永遠の愛。ここに誓うよ。沢山の星々が輝く。その星空の下で。君の瞳も輝いている。僕は君を抱きしめる……》


すらすらと、岡田トシカズはノートに書いた。

「うん……エモくて、すごく良いポエムだ……」

そう呟いて、ノートを閉じ、懐に仕舞った。


***


雨の日、サリ子(14歳の女の子。可愛いと評判の黒髪清楚系)は近所の荒地で同級生たちに金属バットでボコボコにされていた。全ての爪をペンチで剥がされ、手脚は変な方向に曲がり、顔面はぐちゃぐちゃにされ、原型がない。歯は全て砕かれた。舌も、ペンチで引き出されハサミで切断された。サリ子のカラダを金属バットで激しく殴打するとき、同級生たちは爽やかな笑顔を見せていた。


「こいつ、もう死ぬしかなくね?」


「ま、異世界転生するから、殺していいっしょ」


軽い感じの会話が、若者らしさを演出。


サリ子は、もはや虫の息で、血まみれの状態で、うめき声をあげている。


「気持ち悪いな。もはや人間の言葉を話せないクリーチャーだ」


「だからか。こいつを殴っても、なんの罪悪感もない。こいつが生きながらにクリーチャーと化したからだ」


確かに、サリ子の顔面は赤黒く腫れ上がり、目は潰れ、鼻も潰れ、歯のない口を大きく開いて、異世界のクリーチャー状態。


もちろん、サリ子は全裸であり、マンコは露出されている。そのマンコにはいくつもの野球ボールが捩じ込まれた。


あの美少女として評判だったサリ子は、もう存在しない。


グロテスク・サリ子。そう呼んでいい存在が、誕生していた。


「死ねや!化け物!うら!」


「ゴラ!死ねや!」


「あはは!楽しいや!」


激しい打撃音。骨が砕かれる。内臓が一つずつ破裂していく。サリ子は血を大量に吐き、ケツからはウンコを大量に出す。


「くっせえ!クリーチャーのウンコはくっせえ!」


雨が降るなか、荒地の真ん中で、サリ子は数時間、激しく暴行されて、死んだ。


「ウゴ、ゲゲ、グギ、アガ、アガガ」

それが、サリ子の最期の言葉だった。


血溜まり、糞溜まりのなかで死んだサリ子は、多くの同級生たちの笑い声に包まれていた。そこには、ネガティブなムードなど、微塵もない。明るく爽やかな、輝く青春の日々しか、ないのだ。彼らは男女で抱き合い、キスをしながら、予約してあるホテルへと向かう。そこで行われるのは、若いカラダを重ね合わせる乱交パーティーである。まさに青春。


「ちぇっ、荒地なんかに俺たちボーイズ&ガールズは用ないや。行くぜ」


立ち去る若い男女。すでに彼らのチンポは硬くなり、マンコは濡れているのだった。


***


窓の外に目をやる。路上では、雨が降り続けている。


「お会計をお願いします」

岡田トシカズが言っても、カウンターの奥にいる男性は、動かなかった。

しばらくすると、奥の方からレジスターの音が聞こえてきた。

そうして、岡田トシカズの前に置かれた伝票の中に、お金が置かれた。

「どうも」

岡田トシカズは、代金を支払うと、喫茶店を出た。

傘立てに置いてあった自分のビニール傘を手に取る。


外に出て行った。


喫茶店「スイカズラ」の中から、人の気配が完全に消えた。

小太りの男性だけが残される。

彼は、椅子に座って、コーヒーを飲む。


雨はまだ降り続いている。


喫茶店「スイカズラ」を出て行く岡田トシカズの姿を、店の窓から見ている人がいた。

それは、黒いレインコートを着た人物である。

顔全体を隠すようにフードを被っている。

黒いレインコートを着た人物は、喫茶店から出て来た岡田トシカズとすれ違うようにして店に入っていった。


喫茶店「スイカズラ」の中は、間接照明で照らされているだけだ。

そのため、薄暗い印象を受ける。

カウンターの奥にあるキッチンで、料理を作っているのは、小太りの男性ではなく、黒いレインコートの人物だった。


岡田トシカズが、コンビニの白いビニール袋を持って、再び、喫茶店「スイカズラ」に入って来る。


扉のベルが、鳴り響く。


「あの……」

カウンターの近くにある四人がけのテーブル席に座った岡田トシカズが声をかける。

「はい?」

カウンターの内側で作業をしている人物が返事をした。女性の声だ。

「すいません。このお店を取材したいのですが……」

岡田トシカズは、ポケットに入れておいた手帳を取り出した。

カウンターの女性に向かって見せた。

「あぁ……、そうなんですか」

女性は、眉間に皺を寄せ、顔を顰める。

「ここのお店で、何か困っていることはありませんか? どんな些細なことでもいいんですよ」

岡田トシカズは、笑顔を浮かべている。頬が少し、引き攣っている。

カウンターの向こう側にいる女性は、大きな溜息をついた。

「特にないですね……。もう閉店時間なので、帰ってくださいね」

女性が、身の回りの片づけを始め、鞄を持つ。

「えっ……」

岡田トシカズは、驚いた表情を見せた。

「あっ、ちょっと待ってください。もう少し話を聞かせてもらえれば……」

岡田トシカズの言葉を無視して、女性はカウンターから出る。抱えていた黒いレインコートを着ると、そのまま歩いて行って、扉を開ける。

「じゃあ、さようなら」

彼女は、そう言い残すと、喫茶店から出て行ってしまった。

「待ってください」

岡田トシカズも、その後を追って喫茶店を出る。


***


木村徹也記念小学校の下駄箱付近、外で雨が降っているのを、小学校3年生のオシマツは、不安そうに見ていた。


「どうしよう……」


オシマツは、傘を忘れたのである。

「濡れて帰るしかないのかな……」


多くの同級生が、傘を差して帰って行く。みんな、元気よく奇声を発している。


「オシマツくん?ぼくの傘を使いなさい」


そのように言ったのは近所に住む老人、島岡雅史74歳だった。


とある大学で非常勤講師をしたり、しなかったりしている人物だそうな。

また文学の世界では割合と有名で、いくつかの小説が有名な賞を受賞しているとのこと。しかし、その小説群は、一般大衆には恐ろしいほどに知られていない……。


そうして、傘と言って島岡雅史が差しだしているのは、金属製の、筒のようなものだった。

明らかに、傘ではない。


「お爺さん、これ、傘じゃないよ?」


「傘ではないのはわかっている」


「じゃあ、何?」


「時に暗殺は是認される……」

それまで温厚で、ある種の知的な雰囲気を湛えていた島岡雅史の眼光が、ぎらりと光り、その金属製の筒を持って、雨の降る校庭を走り回った。


「何?あれ……」

下校しつつある多くの小学生たちが、好奇心を持って、その様子を見ていた。


「弾圧という形で民衆に暴力を振るっている権力者を、暗殺という形の暴力で持って相殺しこの世界から葬り去るのはある意味では合理的で効率的であると言える!」


絶叫した島岡雅史。


そうして雨に濡れながら、彼は持っている金属製の筒を、校庭の、ぬかるんでいる地面に叩きつけた。


閃光。そして、金属製の筒は凄まじい爆音と煙を発した。


轟音で、校舎の窓ガラスが震えた。


煙が消える……。雨の校庭……。その真ん中にはグチャグチャの、ミンチと化した島岡雅史の姿が……。


「爆死したんだ……」

「爆死って、初めて見たよ……」

「僕もだ……まさか爆死なんて……」

「珍しいよね。爆死……」

「うん。ぐちゃぐちゃだね。あれが爆死なんだ……」

「ほんものの爆死……」


話しながら、みんな、傘を差して下校を開始した。

オシマツも、近所に住んでいる岸谷文則くんの傘に、入れてもらった。


「濡れなくて良かった」

心底ほっとしたのだった。


「オシマツくん、もっとこっちに寄りなよ。濡れちゃうよ……」

岸谷文則くんはそう言って、そっと、オシマツのお尻を揉んだ。


「あっ、あん!」

オシマツは、思わず、甲高い声で喘いでしまう。


「オシマツくん……ユー可愛いね……」


***


「待って」と言い続ける岡田トシカズと、すれ違う人がいた。黒いレインコートを着た人物だった。


特に、言葉を交わすことはない。


喫茶店「スイカズラ」には誰もいなくなる。


雨は、まだ止んでいない。


喫茶店「スイカズラ」の前の道路には、車が一台停まっている。

その車は、黒色のセダン車だ。

車の運転席には、スーツ姿の男性がいる。

喫茶店の前で、岡田トシカズとすれ違った黒いレインコートを着ているのは、彼だったのだ。

彼は、車から降りる前に、黒いレインコートを着る。


また、岡田トシカズが、コンビニの白いビニール袋を持って、喫茶店「スイカズラ」に入って来た。


扉のベルが、鳴り響く。


喫茶店にいるはずの小太りの男性は、どこにも見当たらない。

岡田トシカズの前にいる黒いレインコートを着た人物は、彼の方を見ようともしない。素通りしていく。店の外へ出て行く。雨の降っている路上。


黒いレインコートを着た人物は、助手席側のドアを開いて、中に入った。そして、すぐにエンジンをかけて、車を発進させる。


運転席側ではなく、わざわざ助手席側から入った……。


雨の中を走り去って行く車を、岡田トシカズは見送った。

「うん……」

彼は、窓際の席に移動して、懐からノートと鉛筆を、取り出した。


《君に会えない切ない夜に僕は震えながら泣いてる。会いたいよ。ラブ。フォーエバー。愛してる。この永遠の愛を誓うよ。翼広げて。希望の未来。君となら歩いていける。僕が君を抱きしめる。でも今君はいなくて。切ない夜に僕は震えながら泣いてる。君に会いたい。会いたいよ……》


スムーズな動きで、少しも迷いなく、岡田トシカズは、ノートに書いた。

「すごくエモいな。本当に素晴らしいポエムが出来た……」


彼は頷いて、ノートと鉛筆を、懐に仕舞った。


***


雨が降っている日だった。

さー、さー、という、雨の音が、延々と響く。

黒い屋根の日本家屋で、しめやかに、サリ子の葬儀は、営まれた。

喪服の人々が、座り、涙を流している。

サリ子の大きな遺影が、ある。

黒髪清楚な美少女。目が大きく、可愛らしい感じ。

遺影のサリ子は、微笑んでいる。

生前、サリ子は、誰からも愛されていたのだ。

近隣住民に愛され、サリちゃん、サリちゃん、と呼ばれていた。

「はい。サリです。みんな大好き」サリ子は、微笑みながら、答えていた。

葬儀には、近隣住民、小中学校時代の同級生など、100人以上が、集まっていた。

「あの子は幸せでした。みなさんにこんなに愛されて……」

サリ子の両親は、涙を流してお辞儀をした。

「今の時代は異世界転生がありますから。きっと、今頃はサリ子ちゃんも異世界転生し、大きな広い空を自由に飛び回る美しい小鳥にでも、なっているのでは、ないかな?それが、サリ子ちゃんには似合うような気がします……」

小学校時代のサリ子の担任教師をしていた常岡義雄が言った。

常岡は小学校の教師をしながら様々なテレビ媒体に出演し、社会問題やニュースなどに鋭いコメントをし、人気を博している人物。

やがては政界入りもあるのではないかと、噂されていた。

その常岡も、泣いていた。

かつての教え子の死は、悲しい。しかもあれほど、誰からも愛されたサリ子が死んだのだ。

「でも、いつまでも悲しんでいるわけにはいかないよな。サリ子ちゃんもそんなことは望んじゃいないはずだ」

しめやかな葬儀は進行し、みんなでお寿司を食べ、お酒を飲んだ。

次第に話はサリ子の思い出話からそれぞれの猥談に移行し、かなり盛り上がった。

そうして、最後に、みんなで手を合わせ、祈った。

サリ子が好きだったブルックナーの第4交響曲第2楽章が流されるなか、サリ子の遺体を乗せた霊柩車が、しずかに出発したのだった。

「さようなら、サリ子……」


***


「こんなに雨が降っているのに、お爺ちゃんどこに行ったのかしらね……」

窓から外の様子を見ながら、島岡トモ子が言った。

部屋の中には丸いテーブルがあり、そこには喫茶店「スイカズラ」で購入した手作りクッキーが置いてある。

それを、島岡幹彦がつまんで、食べている。

「さあね、最近ボケてきたんじゃないか。傘も持たないで出かけて行って」


「心配だわ……」

「心配してもしょうがないよ。死ぬときは死ぬんだ……」

「まるでお爺ちゃんに早く死んで欲しいみたいに言うのね」

「べつに。そういうわけじゃないけど」

「そうかしら……」


窓際には黒猫がいて、伸びをしている。

島岡トモ子は、その猫の背中を優しく撫でた。

猫は、甘えた声を出した。


「昔は凄いイケメンで、小説なんかを書いて、インテリとしてもてはやされていたのよね。お爺ちゃん……」

「昔のことだよ。今じゃ見る影もない」

「最初の小説「変質者たちの糞みそセレナード」は文壇内ではある程度話題になったけど、それが一般人たちまで波及しなくて。それで、お爺ちゃんの小説は売れなかったのよね」

「読むに堪えない代物だったよ。冷静になって見ると」

「そうね……」


窓の外では、雨が降っていた。当分止みそうになかった。


***


雨が、降っていた。

コンビニに入り、ビニール傘を、入り口前の傘立てに置いておく。

ツナマヨネーズのオニギリと、卑猥な雑誌を購入した。

コンビニから出ようとすると、入り口前の傘立てから、ビニール傘を抜こうとしている黒いレインコートを着た人物がいた。

「おい!それ俺の傘だぞ!」

そう声をかけてみたが、なんの反応もなく、黒いレインコートを着た人物はビニール傘を抜き取り、開いて、傘を差して、出て行った。

「おい!待てよ!それ、俺のだって!」

十数メートル先を、黒いレインコートの人物は歩いているのだが、追いつけない。

後姿からは、それほど早く歩いているようには、見えない。

だが、異様なスピードで進んでいるのは事実のようだ。

「おい!止まれよ!」

追っていくその間にも、全身が、雨で濡れていく。

嫌な感じだった。

「いい加減にしろよ!馬鹿!止まれよ!馬鹿野郎!」

怒鳴っても、無駄だった。追いつけない。

黒いレインコートの人物は、止まる気配がなかった。

「なんなんだよ!」

全身が、すでにずぶ濡れだった。

悲しみが溢れ、涙がでてきた。上を向いた。涙と雨が、即座に混ざる。

路上の真ん中に膝をついてしまう。

せっかく購入した白いビニール袋のなかの卑猥な雑誌は、すでに雨でぐちゃぐちゃだった。

「なんなんだよ……」


エロいものが好きな私は大変な不幸に見舞われたのだ。

世界で今、自分が一番可哀想だと、その時は本気で思っていた。

もし、お前よりウクライナの、戦地の子供たちの方がずっと可哀想だろうが、などと罵倒してくる奴がいたら、私はそいつをぶん殴り、血反吐を吐かせるに違いない。

温厚な私でも、そういわれたらブチ切れるに決まっている。


***


こないだの雨の日に横断歩道で信号待ちしていたら、1台の黒いセダンが停まっていた。異様だったのは、運転席、助手席に乗っている人物、その2人ともが黒いレインコートを着ていることだった。

「なにあれ……」


そのことを友人のサリ子に話したのだけど、彼女はスマホをずっと凝視していて、出会い系のアプリに夢中だった。イケメンの「ノリオ」という男性に会うとのこと。近所の荒地で待ち合わせしているとか。


「とってもイケメンでお金持ちなのよ!あたしこの人と結婚して専業主婦になりたいのよ!」


輝く笑顔のサリ子。

嬉しそう。

でも、私にとってそのことはどうでも良かった。


どうでもいいのに、サリ子は顔を異様に近づけて来て、唾を飛ばしながら、熱心に、金持ちと結婚して絶対に専業主婦になる、それが夢なんだ、と言っていた。


心底どうでもいい。私は「あーそうなの、へー」とか、適当な返事をしていた。


最近はやたらと雨の日が多くて辟易する。

憂さ晴らしに野良猫を捕まえて文化包丁でめった刺しにして殺害することもある。


1度、近所の島岡とかいう変な爺さんの家で飼っている黒猫を文化包丁で刺して路上でバラバラに解体していたら、小学校の頃に担任の先生だった常岡義雄に出くわしたことがある。


「なんだ……君、血まみれじゃないか……」

「あ、先生」

「せっかくの綺麗な白い洋服が、汚れているじゃないか」

「ええ……」

「とにかく、このお金でクリーニングに出しなさい。いいね?」

そう言って、常岡義雄は1万円札を渡して来たのだ。

「そんな、こんなお金もらえないです」

「遠慮しないで。ただ君を助けたいだけなんだ。僕は正義の人だから……」

「ええ……」

私が、バラした黒猫の死骸を片付けようとしゃがむと、常岡義雄は「いいから。そんなのは放っておけばいいんだ」と言った。


「汚いケダモノの死骸なんて放っておけばいい。そんなのは人間様のすることじゃない。僕たち人間には、もっとやるべきことがあるんだ。正義がある。君にはこれから、そういうことを学んでいって欲しいんだ」


***


「お嬢さーん!マンコ見せて!」


小学1年生のユメコが、帰宅しているとき、公園の横を通り過ぎると、声をかけられた。


草むらがあり、そこが、動いていた。誰かが、いた。


「マンコマコ、マコマンコ!!」


「だれ?」


「マンコ見せてよお!ピンクマンコ!」

そう叫ぶと、草むらが激しく動き、全裸の、中年男性がでてきた。

「マンコマコ、マコマンコマコ!」


「あっ!常岡せんせい!」


それは、現役の小学校教諭・常岡義雄だった。

常岡義雄といえば小学校教師をしながら各種テレビ番組に出演し、社会問題などに鋭いコメントをすることで人気を博している人物。

著書も多く、新しい世代のインテリタレントとして注目を集めていた。


そんな彼のチンポコは、今、赤黒く勃起し、びくんびくんと動いていた。


「マンコ!マンコだよお!」

もう、それしか言えないようだった。


「せんせいキモイ!」

ユメコは駆けだした。


「待て!ピンクマンコ!待て!」


白昼の路上で、全裸の中年男性が、マンコと連呼しながら、全力疾走していた。

もちろん、そのような異常な光景を、善良な市民たちが放置するわけもなく、すぐに通報され、常岡義雄は現行犯逮捕された。


「マンコ……俺のピンクマンコ……」

警察から何を聞かれても、常岡義雄はそれしか言わなかった。


数日後に釈放された。


「マンコ…マンコ…」

虚ろな目をして、涎を垂らしながら、路上をふらふら歩きながら、常岡義雄は呟いていた。


以後、彼をテレビで見ることはなくなった。

小学校からも姿を消した。


ある日、付き合いのある出版社に酷くぼろぼろの恰好をした常岡義雄が現れたというが、出てくる言葉は、やはり「マンコ」だけだったという。


そうしてA4コピー用紙の束を、担当編集者に渡して来た。


そのA4コピー用紙の束には、鉛筆でびっしりと「マンコ」と書かれていたのだった。


「ひひ。マンコマコ。マコマンコマコ」


少し笑いながら、彼は立ち去ったのだという。


***


喫茶店「スイカズラ」の中には、小太りの男性の姿はない。


喫茶店の外では、岡田トシカズが傘を差しながら、携帯電話を操作していた。

「もしもし、岡田です。例の取材は、中止になりました」

電話の相手は、編集長だった。

「はい、そうです。僕が喫茶店に入りましたが、誰もいませんでしたよ」

岡田トシカズは、喫茶店の中で起きた出来事を話し始めた。


喫茶店「スイカズラ」を出た岡田トシカズは、自分の車に乗った。

エンジンをスタートさせた時、後ろからクラクションを鳴らされた。


振り向くと、先ほどまで自分がいた喫茶店の駐車場から、黒のセダンが出てきた。

その車に乗っていたのは、黒いレインコートを着た人物だった。


岡田トシカズの目の前を、その車が通り過ぎる。


その時、助手席に座っていた黒いレインコートの人物が、こちらを見た。

その顔は、女性だった。

さっき、店の中で作業をしていた女性だ。

不敵な笑みを、頬に浮かべている。


「あの女……」

岡田トシカズは下唇を噛んだ。そうして彼は野獣のように鋭い眼光を、していた。彼は片手を懐に入れる。ずっしりとした、金属の筒が、そこには、入っている。

「時に、暗殺は是認される……」


アクセルを踏んだ。ゆっくりと、彼の運転する車が、動き出す……。

黒のセダンの後を、追っていく。


(了)

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