不縋

序文或いは跋文


 人間というのは徹頭徹尾、利用し、利用され、補完しあう生き物であるということを知ったのは小学校に上がったばかりの事だった。

 当時、私があーちゃんと呼んでいた上の兄が同年代のある女の子を頻繁に家に呼ぶようになった時節、私は男と女というものがどういうモノであるのかをよく知らなかった時分につき、さしずめ、あーちゃんとマリちゃんは仲の良い友達同士なのだと固く信じて疑わなかった。

 二人はよく私を混ぜた三人で年甲斐もなくはしゃぎ、私自身、大層楽しかったことを覚えている。

 おままごとも追いかけっ子も小さな私という免罪符があれば、中学生の彼らであっても見咎められることはなく、また気まずい沈黙も私という静寂や気遣いを知らぬ無垢なる一人がいれば、忽ち笑いに変わるのであった。


***


 中学時代、一律の制服に身を包む三十八人の前で国語の担当教諭がこんな話をしていた。

 彼曰く、「完成された美術彫刻というものはある一定の美学のもとにその生涯を終えた、その結果です。故に、その彫刻はそれ以上、磨かれることはない。終わっているものに別の形を与える事はできないのです。」

 そう、終わりは不変だ。何者にも穢されることのない唯一無二である。

 ただ、私はそれを聴きながら『中学で教鞭をとるには些か、ネガティブな考え方をする国語教師だ』と内心、嘲笑を付していたのだが。

 今になって、あの国語教諭は又聞きのそれを生徒に向けて話していたのではないか、と思うに至る。

 「一方で顔のない女神像というものは無限の可能性を孕んだ、ビックバンです。不思議なことに、人は有形の美よりも無形の美の方に心惹かれる。」

 何故だか分かる人は? と生徒に挙手を求める国語教諭。教師という生き物は生徒を円滑に授業を進めるための舞台装置だと思っている節がある。

 誰も手を挙げないのを見て、殊更得意げな面持ちへと変じた教師は咳払いを一つ挟むと講義を再開する。

 「それは我々が欠落を埋める事を本能としているからです。我々は群生動物としてその哀しき性を負う一端の生物故、満たされなければ代替え品で補うことを好むのです。」

 代替え品。ストックさえあれば人は本物でなくてもいいと、そう自身に信じこませる。

 「顔が無ければ、そこに当て嵌めるのは自らが思い描く完璧。決して有り得ないはずの理想。あったかもしれない未来。そういった、あらゆる願望を人は無貌の女神に思い描くのです。」

 失くしてしまったからこそ、如何ようにでも変えてしまえると人は信じている。或いはそんなつもりはないのかもしれない。無意識の願いが何時しか、本質さえも歪めてしまうことだってあるだろう。

 「さて、次は……――」


***


 そんな皮肉じみた記憶の断片が今も尚、夢に現れるのは一体全体どういった訳だろうか。

 今やその記憶は教師の鼻から下と、ポロシャツに袖を通した生徒が白いシミのようにして思い出されるだけに留まるというのに。

 教師の言葉ばかり、色落ちすることなく、海馬を漂っているのだ。

 どんな夢を見ていようが、夢にどんな感想を抱こうが、目覚めはいつもと変わらない。

 ピピピッとちょうど三度、繰り返された電子音を耳にして、アラームを止める。

 午前6時。いつもと変わらぬ朝。何百、何千と繰り返し、これからも同じように刻み続けるであろう日常。

「マリさん、起きてください。朝です。」

 ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。横で眠るキャミソール姿の同居人は抗議の唸り声をあげ、腕を庇のようにして顔を覆う。

 数ある同居人の睡眠リズムの内、これは遅刻パターンだ。昨夜のアルコールと薬効がまだ、同居人の脳を睡眠へと誘っているらしかった。

 それでは仕方ない。

 ベッドを一人占有でき、どこかご満悦気な同居人を残し、私は寝室をあとにした。

  

***

 

「マリさん。朝です。起きてください。」

 二度目の呼びかけに同居人は、はたと目を覚ます。最も分厚い色素の層に覆われた黒い瞳が細まり、次いで壁掛時計を凝視。

「やばっ、遅刻……! 」

 慌てふためく様子はいつもと変わらない。

 同居人は食卓に並べられた食品に然程の疑問も抱かず、お世辞にも美しいとは言えない所作で朝食を摂り始めた。そして、私も既に食事は終えていたが、同じ机の向かい側に座る。

「よく、君は毎日こうも時間ピッタリに動けるね」

 私が対面へと現れたのを認めると、開口一番、私へと呟かれる声はそんな言葉だった。

 悪気はないのだろう。同居人は時折、小言とも皮肉とも取れる声色でそんなことを言っては、ため息を吐く。その度、私は身を硬くし、瞬間心が薄ら寒くなるのだ。

 きっと私のマニュアルじみた所が彼女を不快にさせているに違いなかった。

 ──しかし、これをやめるつもりはない。いや、やめることなどあってはならない。

 ふと、今朝の夢が思い出された。

 人間は完璧な美しさ、見えている完全さよりも幾らかの欠陥を抱えたものを好むのだ、と。なるほど、確かにそういう事らしい。ただ、手を抜くにしてもどこまでが最適なのか、とそれすら完成されたものを求めるが故、私は人として満たされないのだ。

 朝食を胃に流し込んだ同居人の行動は素早かった。

 私はただただ、扉の向こうへと消える彼女の後ろ姿を見送り、今日一日の休みを如何使おうかと頭を悩ませる。そうして結局、仕事で疲れた同居人に甘いものでも買ってこようかだなんて下らない結論に行き着くのだった。

 そんな事をしなくたってもう、奪われることはないのに。


***

 

 これから死ぬ恋人と自らに好意を持つあの人。何れ消えゆくのは同じで、でも恋人のいない未来を歩まなければならない私。

 恋人の病室を出て、唇を奪われ、私は流される。

 惜しみない愛を注ごうとも、もうその愛を返してもらう事はできなくて。

 底のない柄杓でいくら汲み取ろうとしたって、私は満たされない。愛した彼との幸せはもうやってこない。本物を手に入れる事はもうできない。

 私は誰かの幸せを踏み躙る事になろうとも自らの幸福を願ってしまった。

 誰もがやっている事だ。己にとっての最善を選ぶ。己の正義に則る。誰かの目を借りてみれば見えてくる真実も、自らの眼に映るものには限界がある。

 己を擲ち、捧げた想いが報われることはない。

 だとすれば、私は──

「マリさん。朝です。起きてください。」

 ──この声に安堵を覚えるのは一体何度目だろうか。

 己の幸せを追求することを是としたこの声。

 例え、そこが底なしの沼と知ろうとも私は溺れてゆく。

 水面は遠ざかり、伸ばした手は虚しく、水を掻く。

 私はもう彼に雁字搦めの鎖で縛られてしまっているのだ。

 瞼を開けば、視界に映るのは彼によく似た同居人で。

 その姿にいつだって一抹の痛みを覚える私は。


***


 『マリのことを幸せにしてやってくれ』

 

 机に置かれた紙面を見るのは一体何度目のことか。

 何度これを読み込み、何度破り捨てようと思った事か。

 知っていて、利用した。知っていて、託した。知っていて……。

 「幸せってなんですか、兄さん。」

 年々、積み上げられる重責は何時しか報われるだろうか。

 分からない。しかし、分からないなりに私はあの人の隣に並ばねばなるまい。

 人間は補完しあって生きて居るのだから。

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不縋 @miyabi_toka

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