徒然なるままに~ヒトリタビのススメ
鶴崎 和明(つるさき かずあき)
序段 ヒトリタビ準備編
第1話 旅はじめ
私の父は長崎駅の近くで商売をしており、幼少の私にとって大黒町は庭のようなものであった。
当時はまだ三角屋根が長崎の玄関であり、オフィス街の女性が近くの洋食屋に集まり、消費者金融がの看板が堂々と鎮座する。
今も変わらぬのは消費者金融の看板だけであろうか。
このような街に、私はバスで訪ねてきては少しずつ馴染んでいった。
幼稚園の年長の春、店を飛び出して心の赴くままに歩を進めることとなる。
何も喧嘩をして家出したり、何者かにかどわかされたりしたわけではない。
強いて言えば、穏やかな春の陽気に誘われたということだろう。
立体駐車場のスキンヘッドの小父さんと挨拶を交わし、薬局の象のマスコットに手を振り、路面電車の軌道に沿って進んでいく。
いつもは車窓から逃げていく街並みがゆっくりと近付いて来、今はもう見る影もなくなった大黒市場の活気がありありと感じられる。
左には山手、どこまでも続くかのように見える坂道がどこへ続くのか、その頃の私には月よりも遠いもののように見えた。
沿道に咲く花々が甘い香りを辺りに漂わせ、僅かに土の香りを立たせ、石畳風の歩道が確かに私のつま先を押し返す。
やがて長崎放送の建物が見えると、路面電車はトンネルという闇に消えてゆき、私を追い越したバスは唸りを上げて脇の坂を駆け上がる。
晩春の初めのその道は満開の桜に彩られ、ディーゼルの排気の後に残った芳香を追って果敢に登山に挑む。
もしかすると、大通りの向かいにあった喫茶ルパンから不安という言葉を盗まれていたのかもしれない。
息は上がるが、それ以上に心が弾み、ゆっくりと膝と小さな大腿を駆動させ、前へ前へと進んでいった。
坂を登る 桜並木の 彩の 不思議の憑きし もの知らぬ子は
坂を上り切った先には長崎市役所が鎮座した。
通りを挟んで向かい合う大きな建物が、幼少の頃には摩訶不思議な遺跡にしか見えず、出入りする難しい顔の大人を戸惑いと共に見つめる。
ただ、それよりも近くのパン屋の方が気にかかったのだから、私は当時から食への好奇心が旺盛だったのだろう。
市役所前の通りを道なりに行けば、消防局や労働局、簡易裁判所と強面の建物が続き、やがてその最たる長崎県庁に至る。
通りを挟んで向かいに見えるその威容は、往時には奉行所が置かれていたこともあってか、木陰による独特の薄暗さを孕み、子供に近寄りがたさを与えていた。
ここを越えれば煌びやかな繁華街、越えなければ港。
店から帰る時に抱いていた感慨も、その時ばかりは薄らぎ、西の方へと坂を下って行った。
大波止は文明堂総本店がその歴史を語り、浜町から丘を越えた者達に輝きをもたらす。
暫しはぐれていた路面電車とも再会を果たし、疲れが出始めた足も一際やる気を取り戻す。
おくんちの時には御旅所が置かれ、袖擦り合わねば進めぬほどに込み合う大路も、春の陽気を一身に浴びてどこか伸びやかっであった。
北へ北へと軌道沿いに進めば、少しずつ長崎駅が近づいてくる。
五島町の少し踏み入りがたい路地は、やがて私のお気に入りの散歩道になるのだが、この頃はまだ大通りを歩く方が好みであった。
近くに道を極めた方の事務所があることを知り、さもありなんと思ったものであるが、この頃の無邪気は的確にそれを掴んでいたのかもしれない。
ただ当時の道はまだそれほど社会から逸れていなかった。
やがて長崎駅に戻り、父母に迎えられる。
時間にして三・四時間ほどではなかったか。
これを生前の母はよく昔の話として切り出し、その度に私は頬を赤くしたものである。
探検と 名付けて腕白 街歩き 小さき勇者に 笑う往来
しかし、これが私の旅の初めではなかったか。
あの日の花の絢爛とその後に続く街の雰囲気は、未だに私を酔わせるに十分な力を持つ。
三十年経った今もヒトリタビが好きな私は、となれば、この時に形作られたと言えよう。
少々長い連載となるが、暫しヒトリタビを語る旅を許されたい。
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