妄執の花瓶
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妄執の花瓶
人は常に、自分が理解できないものすべてを否定したがる。
──ブレーズ・パスカル
人は自分の個人的な楽しみを優先し、他者を殺すことができる。
──マリーナ・アブラモヴィッチ
***
お越しいただきありがとうございます!
当展示『ぬらり無機質』では、ほとんどの作品において皆さまが不快に思われる可能性のある表現があります。
くれぐれもお気をつけください。
***
来客の数はまずまずといったところか。室内には絶えず三、四人程度の来場者がいた。お世辞にも広いとは言えない展示室なうえに作品数もたったの六つと少ないが、少なくとも前回よりは多くの人が足を運んでくれている。そう考えて内心ホッとしている自分はやっぱりどこまでも小物で普通人なんだ、と自嘲してしまいそうだった。だから目の前の光景から顔を背けて、部屋のすみにインテリアとして置かれている花瓶ばかり見つめていた。名前の知らない花々の赤と青の色彩がよく映えている。
「あの」
しかし背後からこわばった声で話しかけられ、ふつふつと浮き上がっていた自虐心は引っ込んだ。意識的にゆっくり振り向くと、そこには私より頭一つ分背の低い女の子が緊張した面持ちで佇んでいる。
「はい」
私が短く応えると彼女はますます委縮したように肩を縮こまらせたが、その双眸は沸き立つ好奇心を抑えられないかのようにじっと私を捉えている。小刻みに震える唇がつっかえつっかえしながら言葉を紡いだ。
「あの、間違ってたら申し訳ないんですが、く、草薙、かんな……先生ですよね?」
「あっ……と、はい、そうです。私がこの個展の主催者──草薙です」
今度は私が言葉を詰まらせる番だった。やばい、あらためて面と向かってその名前呼ばれるの結構恥ずかしい。ちょっと厨二病感がすごい。数年前深夜テンションで適当に考えた名義でツイッターでの活動を始めてしまった自分を殴りたい。かといって簡単に改名できるほど有名でも無名でもない……。などと思考が脇道に逸れてしまった私をおいてきぼりに、眼前の彼女はなにやら感激した様子だった。
「やっぱり! すごい! 本当に本人なんだ!」
「ええ、まぁ。そんなにすごいものじゃないですけど……」
「いやいや先生はすごいです! 私本当に先生のファンで、あの、二年くらい前にツイッターでたまたま先生の作品と出会って、そこからもうハマっちゃって。去年やってた初個展はまだ上京できてなくて行けなかったので、今回すっごく楽しみにしてきたんです! しかも今日は先生が在廊されるってツイート見てもうワクワクが二倍になって、とにかく今日来れて本当によかったです!」
おお、すごいグイグイ来るなこの子……、と若干気圧される。まぁここまでファン感出してくれる人は初めてだからこちらとしても嬉しいっちゃ嬉しいけども。
「あ、ありがとうございます。えっと」
どういう経路で私のこと知ってくれましたか、はさっき語ってくれたから他になにか話題を……。
「上京されたってことは、今は大学生かなにかですか?」
なにかってなんだよ、というセルフつっこみはぐっと呑み込んだ。
「そうですそうです。都内の美大に今年から通ってます。確か先生も学生さんでしたよね?」
「あ、一応……。でももう大学は出て今は院生です」
美大かぁ……、美術系の大学ってなにを勉強するんだろう。しょせんアマチュアに過ぎない私なんかよりもよっぽどいろんな知識とか持ってそう。そう考えた途端、目の前に佇むたぶん五つくらい年下の少女がとても偉大な人物に見えてくる。
「院生! すごいですね、アーティストとして活動しつつ学業のほうもご立派だなんて!」
目をきらきら輝かせて見つめてくる彼女に、私は曖昧な頷きしか返せない。なんだろう、美大生って知ってしまったからか、誉め言葉が全部皮肉に聞こえる。いやもちろん彼女にそんな意図はないだろうけれど。
「大学院ではなにを学んでらっしゃるんですか?」
「比較生物学……、えっといろんな動物の身体構造を調べて共通点とか相違点を見つけよう、みたいなやつです」
全くアートとは無縁の学問でなんか申し訳ないな……、と頭を掻いた。美大生の彼女はあまりぴんと来なかったのか、可愛らしく小首を傾げる。
「初めて聞きました、生物は高校のときから苦手で……。うーんと、身体構造を調べる、って具体的にはどんなことをするんですか?」
「生物標本を参考にしたり実際に解剖したり……ですかね」
「解剖ですか⁉」
彼女は手元をわちゃわちゃと動かすジェスチャーを添えた。おそらく解剖を表しているんだろう。
「そうです。魚類から鳥類まで、ひたすら解剖しますね」
そのごちゃついた動きが可笑しくて、私は思わずそれを真似しながら返した。彼女はなぜか一層尊敬の眼差しをもって私を見つめてくる。
「なるほど! そこから来てたんですね!」
「な、なにがですか?」
「先生の絵ですよ!」
彼女はそう言いながら私の右斜め後ろを指さした。私が示された方向を振り向くと、そこには質素な額縁に飾られた私の作品がある。一見するとただのウシガエルの解剖図スケッチだが、本来心臓と二つの肝臓が位置すべき場所にはむき出しのオルゴールが埋め込まれていて、腸など他の臓器は輪郭が曖昧で色彩の濃淡によって表現されるだけにとどまっている。そのため明確な線でくっきりと描き出された素朴なオルゴールが、その異質さを大胆に主張している。
彼女は興奮気味に話を続けた。
「このオルゴールのカエルとか特にそうだと思うんですけど、先生の作品って動物モチーフが多いじゃないですか。それも外見だけじゃなくて、なんというかそのままの意味で中身をよく描いてる印象があって。どこからそのアイディアが浮かんでくるんだろうって疑問だったんですけど、なるほど日頃から勉強していらっしゃる題材だったんですね」
「あ、そうですね。実はこの絵を描くときにも一匹解剖して、オルゴールも実際に埋め込んでみて参考にしました。自分の妄想を頭にとどめながら描くのが苦手なので、一度形にしてみるんです」
「えっ! 本物を作ったってことですか?」
私が頷くと、彼女は目を丸めた後「へぇー」と感嘆の息を漏らした。
「なんですかそれ、すごいですね! アートですね! あ、写真とかないんですか、見たいです!」
一体どのあたりがアートだったのだろう。なんかワイルドとか大胆とかと似たような意味で使ってそうだった。
「えっと、写真は一応撮ってますけど、描き終わったら現物と一緒にすぐ廃棄してるので残してはないです……。すみません」
「あぁ、いや! こちらこそすいません、ちょっとテンション上げ過ぎました」
彼女はこほん、と小さく咳払いすると多少落ち着いたようで、話を再開した。
「それで、現物を作って写真まで撮るのにどうして絵画なんですか?」
私が質問の意図を上手く掴めずにいると、彼女は焦ったように両手を胸の前で振って補足する。
「あ、えっと、違いますよ、絵じゃダメみたいな意味じゃなくて。フォトグラフィとか、模型とか、それこそ現物を展示しても映えると思うので、なんで表現の手段として絵画を選んでるのかなって」
なぜ絵画なのか? いかにも美大生って感じの質問来たな……。言われて少し考えてみたが、確かにその点について強く意識したことはなかった。
「えーっと、それは」
自分の内面にあるごちゃごちゃとした思考の鱗片を言葉にしながらまとめていく。
「写真とかだと直接的過ぎるかな、という配慮もあります。あと現物だとすぐ腐ってしまうし、臭いがひどいので……。けど一番の理由はやっぱり絵を描くことが楽しいから、ですかね。動物たちの中身を妄想するのも楽しいし、実際に作ってみるのも楽しいんですけど、それを紙の上にさらに好き勝手な解釈を加えながら描き起こしていく作業がもっと楽しくて。なんというか、生物の死体というものの中に絶対的に含まれるグロテスクさや醜さを故意に排除して、そこに残った美しさだけを強調できるというか。すみません、上手くまとめられないんですけど、そんな感じの理由です」
私の語りに丁寧で細やかな相槌を挟んでいた彼女は、最後に「なるほど!」と大きく頷いた。
「とっても勉強になります! そっか、先生は作品に残虐性を持たせたくないんですね」
「そう……、なんですかね。どちらかというと私の主観を強く表したい、みたいなエゴの側面が強い気がします。『私には動物たちがこう見えている』というメッセージというか。鑑賞者への配慮はあくまでそのおまけでしょうか」
「エゴ、ですか。いいですね、カッコいいです! まさにアートですね!」
だから「アートですね」ってなんなんだ。
それからサインをせがまれたりツーショットをお願いされたりした後、彼女は大学の講義があると言って画廊を去っていった。「応援してます! また個展とかあったら絶対行きますね!」と朗らかに一礼する彼女と入れ替わるようにして、長身の女性が入室してくる。私を見つけると手を軽く挙げてきたので会釈を返した。この画廊のオーナーだった。
「なに今の子。もしかして君の大ファン?」
私はなんとなく気恥ずかしくて頬を掻いた。
「まぁ、ありがたいことに……」
「へぇ、よかったじゃん。やっぱり君の絵は人気があるんだねぇ」
オーナーは気の抜けた声でそう言いながら、私の隣に立って室内全体を見渡す。もっとも六畳ほどしかない狭い空間だから、首をほんの少し動かしただけだったが。そうしてオーナーは満足げに頷いた。
「いいね、お客さんの入りも上々。初日だからちょっと様子見にきたんだけど、これならなんの心配もいらなそう」
私が同意しようとしたとき、オーナーは「あれ」と呟いて室内のすみに置かれている花瓶に近づいた。無機質な灰色の花瓶は、紫がかった青色と燃えるような赤色を互いに食い合うように主張する花々の脇役に徹している。オーナーは青いほうを一輪つまんで、その花弁をじっと見た。
「このロベリア、ちょっとしおれてきちゃってるね。後で水切りしなきゃ」
オーナーはポケットから携帯を取り出してなにやら操作しだした。たぶんメモ帳かなにかに書き留めているんだろう。マメな人だなぁ、と感心しているとオーナーはさっさと携帯をしまってまた私のそばに戻ってきた。
「しかしまぁ、こんだけ人が来るならひょっとして次回の開催も見据えてたりする?」
少し頬をニマニマさせながらオーナーは私の肩を小突いた。
「今日が初日ですよ……。最終日ならまだしも、流石にそんなの考えてもないです」
「えぇ、今のうちに決めとこうよ。ほら、安くするし」
「結局レンタル料目当てじゃないですか」
私のつっこみにオーナーはけらけらと笑った。
「まぁ半分はそうだけどさ」
半分はそうなのかい。いや慈善団体でもなんでもないんだから当たり前か。
「もう半分は、私自身も君の作品が結構気に入ってるから。もう少し刺激が欲しいな、とも思わなくはないけど今回だと特に……、あのブタなんかはビビッときたね」
オーナーは作品の一つを指さしながらそう言った。ブタ一匹を真横から断面図のように描いているが、腹部にあるべき内臓群は取り除かれ、生来のものはそれらをつるしていた背骨だけになっている。内臓の代わりにブタの腹を満たしているのは、ところどころ錆の目立つソーセージ製造機だった。
「出来上がったソーセージが肛門から出てくる作りになってるところが趣味悪すぎていいよね。風刺的ななにかを感じるよ」
「別に皮肉を描きたかったわけでは……。たまたま研究室でブタの解剖をやって、滅多にない機会だからなんか描こうって思いつくまま作っただけです」
私の言葉にオーナーは目を丸くした。
「そうなんだ。てっきりセラーノみたいな侮辱的な風刺を目指して描いたのかと。いやセラーノだったらソーセージを尻から垂らすところまで描くか」
「まずセラーノって誰ですか?」
「知らない? アンドレス・セラーノ。いろんな動物の大便を写真に撮ったり、キリスト像を自分の尿に沈めたりする人」
オーナーは楽しそうに話を続ける。
「まぁ、説明聞いただけじゃ『うへぇ』って感じだろうけどね。実際に作品を見たら案外アートとして成り立ってて驚くよ」
「便とか尿がですか」
「そう。これは君の作品にも当てはまることだけど、本来芸術とは無縁のはずの醜さや汚らわしさだってやり方次第でアートになるし、してもいい。表現は自由だからね、極論なにをしたっていいんだよ」
まるでアートという言葉自体が免罪符になり得るかのような言い草だった。
「とにかく、次回もほとんど確定みたいなもんなんだから日程も決めちゃおう。いつにする?」
「いやまだ新しい作品出来上がってもいませんから、そんな性急に──」
続く言葉は「ちょっと今よろしいですか?」というすぐ右横からの声にさえぎられた。
「あっ、はい! なんでしょうか」
いきなりのことで心臓が飛び出るほど驚いた。しかしなんとか平静を取り繕って右を向くと、そこには五十代後半くらいの女性がいる。身なりの良い格好をしていて上品な印象を受けるが、厚めの化粧でも隠し切れていない顔のしわをさらに深めていた。なにやら気難しい顔をしたまま、女性は私とオーナーへ交互に目を遣った。
「失礼ですが、どちらが主催者のお方でしょうか?」
「あ、私です。こちらはここのオーナーさんでして……」
私の愛想笑いに、女性はフンと鼻を鳴らすだけだった。
「そうですか、あなたが草薙かんなさんですね。私は蝶野るり子と申しまして、現在は都議会で議員をしております。あのですね、あなたの作品についてお話があります」
そう言って蝶野と名乗った女性はオーナーにチラと目を配る。その視線には「邪魔だからおいとましろ」とありありと書いてあった。こちらを一瞥するオーナーに頷きを返すと、小さく嘆息してから出入口へ足を向ける。
「私は他の展示室の様子を見てくるよ。次回やる気になったら連絡ちょうだいね、君ならいつでも歓迎だからさ」
オーナーの背に軽く頭を下げてから、私は蝶野さんのほうに向き直った。
「それで……、お話というのはなんでしょうか?」
絶対に気分の良い話ではないだろうから、正直今すぐ逃げたかった。そんな感情はおくびにも出さないけれど。こういうのは聞き流すのが一番手っ取り早いと相場が決まっている。私がおっかなびっくり訊ねると、途端に蝶野さんは目を吊り上げた。
「わからないんですか?」
「えっ、えっと、すみませんが検討もついていないというか」
蝶野さんの「ハァ」と露骨なため息が室内に響いた。いやそんな「常識ないわねこの子」みたいな目をしなくても。
「普段テレビやネットニュースはご覧にならないようね?」
「あ、はい。大学院での研究と作品制作、バイトとかでなにかと忙しくて」
「そう。まぁいいでしょう。私はね、都議会議員のかたわら美術系のテレビ番組や雑誌などに評論家として名が通ってるんですよ」
「はぁ……。それはすごいですね」
だからなんなんだ。そんな人がこんな無名作家の個展なんかになんの用だろうか。
「あなたの作品は初めてお目にかかりましたけど、あなたね、本当にこれが芸術だと思っていらっしゃるのかしら?」
予想外の質問に私は数瞬のあいだ固まった。自分の作品が芸術かどうか? そもそも私には芸術をやっているつもりがあまりない。私の妄想した美しかったり面白かったりする動物たちの姿を、絵を通じて誰かに共有したい、それだけだ。しかしそれが芸術かと問われれば、答えはもちろん──
「まさか『芸術だ』なんて仰らないでしょうね?」
蝶野さんは私が返答しようと口を動かしたのに被せて高圧的に吐き捨てる。私はただ口をつぐむしかなかった。
「あのねぇ。ハッキリ言いますけど、こんなものは芸術でもなんでもありませんから。いいですか、芸術というのは、美しいもののことを指すんですよ? 例えばそうですね、あそこの花瓶」
蝶野さんは灰色の花瓶を指さした。私はそれを半ば無意識に目で追った。
「あれに生けられた花々は──色合いが派手過ぎて私の好みではありませんが、美しいでしょう。好みの差はあれど、きっと誰もが『美しいものだ』と頷くはずです。その美しさをカンヴァスのなかに閉じ込めるのが絵画であり、芸術なのですよ。きっとフェルメール先生ならあの完璧な明暗技法を惜しげもなく用いて、花の持つ美しさを何倍にも膨れ上がらせるでしょう。ゴッホ先生ならあの大胆なタッチと色使いで、花弁のなかに隠された素朴な美しさを私たちに気づかせてくれることでしょう」
巨匠二人の描く花瓶を想像しているのか、蝶野さんはうっとりとした表情になる。
「私の絵が芸術ではないのなら、なんだと言うんですか?」
蝶野さんはすぐにゆるんだ顔を引っ込めてしかめ面に戻した。
「形容するのもおぞましい。あなたは、ただ醜悪さを客引きにして悦に浸っているだけよ。最近の『アーティスト』の方々は誰もかれもそう。アイディアさえ突飛だったら、それがどれだけ醜くて人を不快にさせても構わないと思っている。同じ時代を生きる人間として、本当に恥ずかしいわ」
暴論だ。そう思ったが、きちんと正当性のある反論を組み立てることができなかった。まるで頭のなかに靄がかかったような感覚を味わう。
「あなたなら、この花瓶をどう描く? きっと茎の長さや葉のしおれ具合、花弁の鮮やかさをすべて『些細なことだ』と無視するんでしょうね。そうしてよくわからないものを生み出した後、それの前に立ちながら誰も求めていない哲学を滔々と語るに違いないわ」
「なん、なんであなたにそこまで決めつけられなくちゃいけないんですか? 私のなにがわかるっていうんですか」
必死に紡ぎ出した声は震えていた。それが的外れなことを言われた怒りからなのか、図星を突かれた羞恥からなのか、自分でも判別ができなかった。
「わかるわよ、あなたの作品を見たら否が応でも伝わってくるのだから。あなた、こう思っているでしょう? 普通じゃない感性を持ちたい。他人から変わっている人だと思われたい。天才に、なりたい。だからこんな、子どもの落書きじみた絵を描いている。そうなんでしょう?」
その目は私のすべてを見透かして嘲笑っているようにも、幼子が地べたで駄々をこねる様子をはるか高い視点から冷ややかに見下しているようにも見えた。違う、そんな理由で描いてるわけじゃない、と一言発すればいいだけなのに、私の口は重く閉ざされて動かない。
「その程度の妄想は、わざわざカンヴァスに描き起こす価値もない。ずっとその頭のなかにしまっておけばいいのよ」
もはや諭すような口調だった。
私が間違っていた?
私は他人から一目置かれるために絵を描いていたのか?
からっぽで具体性がなに一つ含まれていない『すごい』が欲しかったから?
そうかもしれない。わからない。
「なにも反論がないようなら、そろそろおいとまさせてもらおうかしら。これから雑誌の取材を受けなくてはいけないから」
私がなにも言わないでいると、蝶野さんはフンとつまらなそうに鼻を鳴らして出入口へ歩き出した。
「とにかくこれに懲りたらもう落書きを飾るのはやめておきなさい。今のあなたに必要なのは勉強と模倣だわ。そうね、まずはゴッホの作品をじっくり見て真似してみるのはどうかしら。そうすれば、今のあなたにはとっても難しいであろう『目の前のモチーフを見たまま描くこと』ができるようになるかもしれないわね」
私はどうして絵を描いていたんだっけ?
個展の二日目以降は大失敗に終わった。有り体に言って最悪だった。来客数はぐんと伸びた、オーナー側が仲介して整理券を発行する事態にまでなったほどに。ただ、蝶野さんは本当に美術界隈の有名人だったようで、訪れた人のほとんどが彼女の名を口にした。そして「気持ち悪い」や「品がない」、「理解ができない」という言葉で私の作品をことごとく非難した。おおかた蝶野さんがSNSかブログにでも、私を槍玉にあげるような投稿をしたんだろう。それと、私が違法に動物を殺害しているという糾弾も何度か受けた。くだらない作品一つ描くためだけに、尊い尊い生き物の命を一つ無駄にしている狂人だと罵られた。私が実際に解剖していることを話したのはあの女子大生だけだから、彼女がどこかで誰かに伝えたことが瞬く間に広まったんだろう。私自身はあくまで大学院での研究のおこぼれにあずかっているだけで、違法性はないと自負している。しかし私の意思など全く取り付く島もないまま、世論は私を犯罪者だと決めつける。いくら弁明しようがその決定は覆らない。ほとぼりが冷めるまで小さく縮こまって待つしかない。バイトも院も作品制作も億劫になって、ただぼんやりと芸術について考えていた。
アートとはなんだろうか。美しさとはなんだろうか。醜さや汚らわしさは美しさと共存できないのだろうか。私ならあの美しい花瓶をどんな風に描くだろうか。偉大なるゴッホの絵画にはなぜ六十億円の価値がついて、私の作品は「ゴミ同然」と言われるのだろうか。蝶野さんの頭のなかにならその答えがあるだろうか。
そうだ、蝶野さんに教えてあげなきゃ。私が絵を描く理由を。私の芸術を。やっと答えを見つけたんだ。思えばとても簡単なことだったのだ。でも口で説明するだけでは彼女はきっと納得しないだろうから、やっぱり形にしないといけない。作品を描かなきゃいけない。彼女が理解できるように、彼女の目の前で描こう。嬉しい。また絵が描ける。その事実がどうしようもなく嬉しかった。
約一年ぶりに会うオーナーは、画廊を訪れた私を見つけるなり嬉しそうに破顔した。
「久しぶりだねぇ! あの後ちょっと怖いくらい音沙汰なくなったから心配してたんだよ。塞ぎ込んじゃってたりしてないかなって」
「あの件は本当にご迷惑をおかけしました。でも、もう大丈夫ですから」
オーナーは私の顔をまじまじと眺めた。
「なんか、変わったね」
「そうでしょうか」
「そうだよ、見た目は全然だけど、雰囲気とか。この一年のあいだになにかあった?」
オーナーはいぶかしむような目を向けてくる。そこには若干の心配も含まれていた。
「いいえ、特別なことはなにもないですよ。ずっと作品を制作していただけですから」
「そっか、ならいっか。まぁまたうちで個展やるって言ってくれてよかったよ。ほら、前に言ったでしょ? 私は君の作品がわりと気に入っているんだ」
そう言ってオーナーは優しく微笑んだ。
「そうだ。オーナーに見てもらいたい絵があるんです」
「なに、新作? 見たい。今すぐ見せて」
オーナーは食い気味で催促し、その目を期待に輝かせる。
「はい、どうぞ」
中央やや下方には、陶磁器のように冷たい灰色をした人の顔。深く窪んだ眼窩は影を作り、真一文字に引き結ばれた唇はひどく乾燥していて、左耳はそぎ落とされている。力を失って垂れた頬と、小さなものから大きなものまでところどころに刻まれた顔のしわは、年齢の積み重ねによる老化を惜しげもなく強調していた。頭頂部は脳みそごと切り落とされ、ぽっかりとした空洞ができていた。そのからっぽの空間に生けられているのはゴッホのようなタッチで描かれたひまわりだった。しょせん模倣に過ぎないひまわりたちは本家のような圧縮された素朴な美しさは持ち合わせないが、自由気ままに四方八方を向く彼ら彼女らだけの溌剌とした美しさがそこにはあった。残りの左右と最下方を占めるのは、互いを食い合うように咲き乱れる花々の紫がかった青色と燃えるような赤色、そしてその隙間を優しく埋める茎と葉の深々とした緑色だった。
「このサイドの花って、もしかして前回の個展で私が飾ってたロベリアとカンナ?」
「そうです、色合いが私にとっては好みだったので使ってみました」
黄色、赤色、青色、緑色。それらが織りなす鮮やかでそして濃密な色彩を前に、中央の灰色だけがカンヴァスに空いた大きな穴のように異質な存在となっていた。言い換えれば、醜いものを、美しいものが囲んでいる。それを見つめているあなたはいつの間にか、醜く汚らわしい灰色の花瓶に一種の美しさを見出すようになる。境界線は曖昧になり、混ざり合い溶け合いながら、いつしか完全な美があなたのなかで出来上がる。
どうして絵を描くのか。
楽しいから。ただそれだけ。
そのためならなにをしたっていいし、なんでもできる。
これがアートなんだから。
妄執の花瓶 rei @sentatyo-
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