第2話 見えないあの子はかわいいらしい

 隣の席の子が自分にだけ見えなかった。


 何を言っているのかわからないと思うが景浦信夫かげうら しのぶ自身も理解できていない。隣に見えない相手がいる中で授業に集中できるはずもなかった。


 人間、わからないものは怖い。それにしたって正体不明にもほどがある。シノブは隣が気になって仕方がない。


 有瀬香苗ありせ かなえ。彼女は一体何者か。シノブは観察するうちにどうやら有瀬が持っているものまで見えなくなることに気がついた。開かれたノートに勝手に文字が刻まれていく様子はシンプルに気持ち悪い。


 とはいえ自分にだけ起きている現象で相手の気分を害するわけにもいかないだろう。シノブは努めて笑顔で話しかけた。


「教科書、見せてくれてありがとうな。有瀬さん」


 新学期の新しい教科書は無駄に数が多い。この高校ではあらかじめ新年の教科書を買わされる。どうせ使わないだろうからと信夫は何冊か抜いてきたわけだが、ちょうどその一冊が授業で使うものだった。

 違う教科書で開いたふりをしようとしていたシノブを察して、有瀬は自分のノートを見せてくれたのだ。女の子と一緒の教科書を見る、それは男子なら一度は憧れるシチュエーションの一つだろう。シノブはとてもドキドキした。違う意味で。


 そんなシノブの心情など露知らず、有瀬はカラカラと笑った。


「あはは。お安い御用だよー! ねぇねぇ、景浦くんはお昼はお弁当?」

「いや、購買で買うよ」

「ほんとに!? アタシ、まだ購買行ったことないんだ。連れてってくれないかな」

「あー……うん、いいよ」


 シノブの視線はずっと机やら時計やらに向けられている。そのことに有瀬は何の不満も感じてないようだった。鈍いのかはたまた底抜けなお人好しか。どちらにしても変わっている。これで本当に避けられていたならどうするのだろう。


 まぁ実際は見えないから視線の合わせようがない訳だが。


「今からでいいかな? 有瀬さん」

「うん! 行こ行こ!」

「わかった。じゃあ、ついてきてよ」


 シノブは笑顔を貼りつけたまま席を立った。

 本音を言えば本当に勘弁して欲しい。まだ動揺している最中だというのに。だが教科書を見せてもらった恩もあるしヨーコ先生にもよろしくと念を押されている。面倒だが仕方がない。


 どうにか先導する形にはできたが、姿が見えていないことをいつ悟られるともしれない。慎重にいかなくてはとシノブは決意を新たにする。

 まったく、なぜ風邪が治ったというのにもっと頭の痛い事態になるのか。


「景浦くんは購買で何買うの?」


 有瀬が話しかけてくる。前を歩いていれば顔を向けずとも会話できるのはありがたかった。


「焼きそばパン」

「いいね! アタシ、焼きそばパン大好き! 炭水化物と炭水化物合わせる馬鹿みたいなところがいいよねー」

「歯に青のりつくけどね」

「そんなこと言ったらたこ焼きもお好み焼きも食べられないでしょ? 自分の口に入るんだから食べたいものを食べなきゃ。アタシ、食べるときは余計なことは考えないことにしてるの」


 いい考え方だ。有瀬に対する好感度も上がったが、姿が見えない点がマイナス過ぎて恋愛感情もクソもない。せっかくかわいい声をしているのに。


 購買までやってきたシノブは見知った顔を見つけて声を掛けた。


「よぉ、リョウ。お前も昼飯は購買か」

「お? シノブじゃねぇか。風邪はもういいのか?」

「ああ……て、いやお前な。俺が風邪なの知ってたのかよ。見舞いに来いとまでは言わないけど、少しくらい気使ってくれよなー、冷たい奴め」

「んー? 俺は気ぃ使っただろうが。どうせお前ヒカリちゃんに看病してもらってたんだろ。邪魔しちゃあ悪いだろうに」

「いや見舞いには一度来たけど、あいつとはただの幼馴染だっつの。変な妄想膨らませるなよ、このむっつりめ」

「景浦くん? この人は?」

「ああ、ごめんな有瀬さん。紹介するよ。こいつは僕の友人の名川亮ながわ りょう。リョウ、この人は転校生の有瀬香苗ありせ かなえさんだ」

「初めまして! 名川さん。これからどうぞよろしく!」

「え、えあ。はい。よろしく……」


 リョウはシノブと有瀬の顔を交互に見返すと、ぱちくりとまばたきする。そしてシノブの首に手を回した。


「おーいシノブ。ちょぉーっとこっち来い」

「うお!? おいおいなんだよ……」


 有瀬から少し距離を取るとリョウはひそひそと耳元で話し始めた。


「……おいどういうことだよ! シノブ!」

「何がよ?」

「いやお前、なんであんなかわいい子を連れてんのって聞いてんだよ!」

「かわいい……?」


 シノブは有瀬のほうとちらりと見る。相変わらず姿は見えないがどうやら有瀬は相当かわいいらしい。よくよく周囲を見渡せば、有瀬のいるあたりに視線が妙に集まっている。

 なるほどとシノブは納得した。どうりで周囲の視線が痛い訳だ。


「そうか……有瀬さんってかわいいのか」

「なんだお前、目ん玉腐ってんのか」

「ひどい言い様だな。いや、でも、そうだな腐ってんのかもなぁ。面食いのリョウがこんな食いつくんだもんな」

「で、質問に答えてないぞ? どういう関係だよ!」

「いやただクラスメイトで隣の席になったから面倒任されてるだけ……」

「お前は! この! ヒカリちゃんというものがありながら! この!」


 リョウは首に回した手に力を込める。割と本気で首が締まりかけ、感情のままになっている馬鹿相手にシノブは腕を叩いた。


「ちょいちょいちょい! ギブギブギブ!」

「まったく……! まぁ、シノブは有瀬さんに気がないみたいだしなぁ。今回は見逃してやるかね」


 リョウの拘束から解かれたシノブはやれやれと首を振る。ひどい目に合った。

 しかしそうか。そんなにかわいいのか。


 シノブは有瀬の声がした位置にもう一度視線を向けてみた。うん、やはり何も見えない。しばらくそうしていると有瀬がもごもごしながら言った。


「あ、あの……そんなに近くで見られると恥ずかしいかも。なぁーんて」


 ……しまった。近づいていたのか。


 周りの人が白い目を向けてくる。リョウが背中で般若のような顔をしていた。



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