第8話 地獄穴
「…………」
ドロシュが持ち続けていたのは、コモンへの強烈な劣等感と怨念のような憧れだった。
クラスの中心人物というのは余程の田舎でない限り、不良でも爽やかな好青年でもない。
ああいう場所で有り難がられるのはファッションセンスがあって、身長が高くて、美男で、喋るのが上手なヤツ。部活は運動部で、委員会や文化祭などの事務仕事はほとんどやらない。(後半で突然頑張り始める)
空間の支配が得意で、人気の教師とは仲が良いが不人気な教師には徹底的に反抗する。それはつまり教室の良き代弁者になってくれるということだ。
彼が授業中に口を開けばみんながコッソリ期待する。
いつも仲間内で泣くほど笑っていて、学校での面倒くさいことはやらなくて済む。
「ヤダ。オレやりたくない」と大声で言っても許される立場なのだ。目立たない人間は勤勉でなければいけないが、彼らは怠惰でも良い。
それにもし彼らがイジメをするばそれは民意となり、周囲は「マァアイツキモかったし」「そうなるだろうね」「男子バカだなー」というくらいの認識になる。
彼らは周囲を味方につけるのが非常に得意で、集団心理というものを無意識によく分かっており、簡単にヒーローになれるのだ。
頭は別にそこまで良くなくていい。
バカ過ぎなければ良くて、家もそこそこ金を持っていれば良い。
コモンは正しく全て上記に該当する。
コモンが気に入った人間はベツレヘムの人間となり、コモンに「おはよう」と言われた女子はその日一日気分が上を向く。そういう風に人の心へ直に影響できる人間なのだ。
ドロシュは中学の頃いじめられる程人に構われた経験もない。ただ女子に名前を覚えてもらうことはなく、ウダツの上がらないクラスの友達が2人。
小学生の頃は露骨に揶揄われたが、中学、高校といくと、周囲は大人になって、構わられることもなくなって放置された。
告白されたことなんて当然一度もなく、地味だけれどかわゆくて清楚で…片思いをしていた女の子はなんだかんだ先輩の男と付き合っていたりした。
話しかける勇気は当然なかったし、話しかけたとしても困ったように愛想笑いをされるだけだった。
…彼はコモンに虐められる前、一度普通に話したことがある。
インフルエンザが流行って、コモンの友達が軒並み学校を休んだ時のことだ。
『涼し。え。オレもここ座っていい?』
保健室。
ドロシュがどうしても体育に出たくなくてサボっていた日のことだ。
保健室に先生はいなくて、クーラーが故障していた夏。
ドロシュは汗をかきながら日陰のベッドに座っていた時だ。
カーテンを閉めていなかったから、コモンがやって来た時に近くに座られてしまった。彼は心臓がギクッとするのを感じて、「ウワ、気まず」と思った。
勘弁してくれとも思った。会話したくなかったし、なんで来たんだよとも思う。
彼もココにサボりで来たらしい。
『え、なに。森下スクフェ×やってんの』
会話はしなかった。
が。
コモンは上半身だけベッドに転がして携帯をいじっていたのだが、突然起き上がって彼のスマホ画面を見てそう言った。
ドロシュはドキッとして、「あ。えっ?やってるけど」と目を合わせずに応答。彼の口から「スクフ×ス」なんて言葉が出るとはまさか思わなかったから。
コモンは彼のその画面を見て、「待って。ガチプロくね?いやうま過ぎ」と近くに来て目を輝かせたのである。
『は、早川…くん、知ってんの。これ』
『え知ってる。なんか元カノがやっててさ、オレもやってたんだよね。お前誰すき?』
『え。え、×澤にこ』
『ウワ!元カノと同じだわ。オレはねー、コイツ好き。名前なんだっけ。まじエロいよな』
『あ、のんたん、?』
ドロシュは驚きつつも、期待で心が膨らむのを感じた。
まさかこんな会話ができると思っていなかったし。
彼がそこまでキャラに対して詳しくないことに関しては少し物足りなさを感じたが、共通した趣味があることは嬉しかった。
その上自分はかなり難しい設定でプレイできるので、上手いと言われたことも強烈に嬉しかった。
周りに凄いと言われたくて教室でやっていたりもしたから、彼に褒められたのは媚薬のような効果をもたらしたのである。
『フレンドなろうぜー。オレこれ』
『…あっ。え、いいよ。俺これだから』
『待ってフレンド登録ってどうやってやんの?』
『あ、これこう。貸して』
『やプロ過ぎ』
『え。アニメは見た?』
『一期は見た。風邪引いた時にすることなくてなんかめっちゃ観てたわ。いやアツイ。オレら仲間じゃん?』
フレンド交換もした。
2人はその話を少しして…先生が帰ってきたので、自然に離れたのである。
ドロシュはそれを今でも覚えている。
嬉しかったし、凄く楽しかったから。ドキドキもした。仲間意識が初めて芽生えたのだ。
…それ以来彼と仲良く話すことはなかったけど。
でも覚えている。
使っている香水の話になって、知ったかぶって付けたこともないけれど名前だけは知っている香水を言ったことも。コモンがそれを調べて、「え、良さそう。オレ買おっかな」と言ってくれたことも。
本当に付け始めたことも。
けど、アイツはそんなのきっと覚えてない。
…オレは全部覚えているけど。
だって数少ないコミュニケーションの一つだったから。でもアイツの人生にコミュニケーションはいくらでもあって、話せない人間なんていなかった。
誰かと一緒に爆笑しない日はなかったろうし、アイツの人生はきっとオレの人生の何回分も濃いんだろう。
だから忘れられていた。
そしてやっと巡ってきた幸運…夢の異世界生活でも会ってしまい、女も何もかも取られた。
アイツが来て過去をバラされたから…きっと彼女たちは去っていったのだ。
全部アイツのせいだ。アイツさえ来なければ。
憧れていた。好きだった。
憎んでいた。殺したかった。
アイツにはなりたくない。
けど、〝アイツみたいに〟なりたかった!
…無双をして雑魚を倒したい心理は、きっと教室での弱者をいじめるのと同じ心理だ。
どうせ女はイケメンが好きなんだとやさぐれるけれど、自分だって結局美人な女をパーティに入れている。
ああなりたかったから、無双してああなった。
教室で無双していたアイツみたいになりたかったから。
「そっか。それは怖かったね」
「…え?」
「…知り合いも誰もいない土地に来てさ。仲間ができて、嬉しかったのに。それをある日突然失うって、凄く怖いことだよ。オレなら怖い。けど貴方は今こうやって話せるくらいには心を保っていられてる。凄いことだよ。貴方はとても強い人だと思う」
「…………」
「オレにはそんなことできないなぁ」
酒屋。
カウンター席。
隣に座って安いウォッカを呑んでいる美男は、何だか傷付いた顔で言った。
彼もまた、最近物凄く辛いことがあったような顔をしている。けれど横顔を見れば、スグにニコニコふわふわして、優しく「寂しい気持ちって簡単にはなくならないのにね」と言った。
「やっと信頼できる人ができたと思ったのに。ちょっとずつなら信じていけると思ったのに。オレ達、何かしちゃったのかな」
オレ達。
ということは確定だ。
彼もドロシュと同じように、何かあったのだろう。
どうしてだかドロシュは彼になんでもかんでも話してみたい気分になる。もっと、誰にも言いたくなかったことも話したくなった。
男というのはどうしても格好つけたくなるものだ。
だから甘えたくても、上手く本当の所まで甘え切れなかったりする。
だが何故か彼にはそんな気にならなかった。
普段ならこんなに格好いい男と同席すれば咄嗟に格好付けたくなるけれど。
「一杯奢るよ。話してくれてありがとう。乾杯してくれたら嬉しいな」
「…ああ、」
「大事な話だと思うから、大事にするね」
彼は、シャオという名前らしい。
彼が店に入ってきた時、店の人間は皆ギョッとしたような…突き飛ばされたような顔をして思わず眺めてしまっていた。
そして気まずそうに慌てて目を逸らし、しかし横目で無意識に彼の姿を追っている。
…身長の高さと腰の位置の高さゆえに彼は細長く見え、骨格からして全く別の生物に見えたのだ。
足を組み替えるだけでその場の空気を変えてしまう、神殺しの美貌を持った男だった。
尖った耳の上あたりにツノが生えている。
その美貌ゆえに魔族か妖族かとも思ったが、きっと鬼だろう。
そんな彼はドロシュの視線に気づいて、一瞬手元を見てから。
ニコ。とふわふわ微笑んで、
『良かったら、お話ししてくれないかな。1人だと寂しくて』
と、少ししてから。
トイレからの帰りで、通り過ぎざまに立ち止まってそう声をかけてきたのだ。
ドロシュは顔を見てボーッとしながら頷いてしまった。
シャオと名乗った彼は、話してみれば随分のんびり優しく話す男で、しっとりとした花魁のようだった。
女狐のような男だ。
仕草も座り方も、顔も体も男臭いのに、何故か彼に対する褒め言葉は全て女に使うものが思いつく。
そういう、柳の下に立っている美しい女の幽霊みたいな、つかみのどころのない色気が彼を女らしく見せているのだ。
…
「シャオの役職は?」
「?オレはねぇ、デバッファーだよ。後方支援が得意なんだ」
「デバッファーか」
「きっとオレたち相性良いよね。貴方はアタッカーだろ」
「なんで分かったんだよ」
「内緒」
「オイ」
「秘密。教えない」
シャオは少し機嫌が良くなったようで、ふわふわお花を飛ばしながら酔った顔で三杯目の酒を煽った。
ドロシュはフ、と気が紛れたように笑って、デバッファーはウチのパーティにいなかったなと思う。
「どんなデバフが使えるんだ?」
「………」
聞けば、シャオはフッとコチラを見て、何だか意味深に黙った。瞳は酔ったせいでトロンとしている。
知りたいの?という顔だ。
彼の角に絡まったアクセサリーが、シャロンと音を立てる。
「癒すのが得意だよ。甘やかすのが」
「それはデバフじゃないだろ。ヒーラーの特性だ」
「…ううん。オレが甘やかすとみんな動けなくなっちゃう。ちゃんとデバフだよ」
シャオはふわふわ笑って、それから。
いきなり立ち上がって。
「ッが、」
彼の胸を軽く押し、座っていた椅子に足を引っ掛けて手前に引いた。
すると当然、椅子は仰向けに倒れる。
油断していたし酔っていて…そして何故か力がうまく入らなかったドロシュは、思い切り椅子ごと仰向けに倒れた。
ガァン!と目を開けていられないくらいの轟音が鳴って、腕につけていた鎧が床にぶつかって金属的な音を立てた。
「な、」
目を開けた。
シャオはしかし、そんな彼の仰向けになったら腹の上にドス!とまたがって座る。
足を大きく開いてしゃがむように。
そして膝に肘をついて、ニコ、ふわ、とお花を出しながら微笑んで。
「…やってあげようか。甘やかしてあげる。オレたち傷付いたもんね」
「、……」
「1人でトイレも行けなくさせてあげる」
シャオはニコニコしていた。
死が男の形をして体の上に座っているみたいだった。
カウンター内のマスター、寡黙でセクシーな黒人の男は黙ってグラスを拭いている。
彼は店に入ってきたシャオに金と薬を握らされ、ドロシュの酒に痺れ薬を盛ったのであった。
お蜜が神力を込めて調合したこの薬。
チートだろうと、効かぬわけがなかった。
「…歯、立てたら殺すけど」
「っ、」
シャオはふわふわ優しく笑って、ドロシュの顔の真横の床にトン、と足を置いた。
顔の真横で、革靴がキラキラ光る。
彼はドロシュの腹の上に座ったまま、キュートに首を傾げた。
「どうする?本当にする?…やめておく?」
貴方が選んで良いよ。
と。
孤独のドン底に堕ちた彼へさらに足を掴んで引き摺り下ろすような声で言う。店の人間はとにかく2人を見ないように俯いて酒を呑んでいた。
荒れ暮れものばかりの店だが、だからこそ関わらない方が良い人間というものよく分かっている。
ドロシュの喉から空気がなくなっていく。
シャオはそれを見逃さなかった。
長い黒のまつ毛をクッと下ろして細め、「ドロシュくんの家は近いの?」と優しく言った。
「行こうか。貴方の家がいいな。オレの家は遠いから」
「………」
「立てる?背中、痛いでしょ。耐えてくれてありがとう」
腕を引かれた。
ドロシュはもう戻れなくなるのを感じた。
この男に人生を壊されるのを感じた。
シャオはこう言う風に人の人生を破壊するのに慣れている男で、人が自分で壊れていくのをいつも簡単そうに見ていた。
紙に書かれた数字を見るみたいに。
「………」
ドロシュは肘の辺りを掴まれて、そのまま自分の家へフラフラ連れて行かれた。何故か彼が自分の家の方向へ迷いなく歩いて行くことに、全く違和感を覚えなかった。
さて、木造の自宅に着き。
慣れたようにドアが開けられた。
暗い家の中に入り、オレはこれからどうなるのだろうと心臓が痛くなるような感覚に息もできなくなりそうになって、喉の辺りに鳥肌が立ったが。
「こんばんは、身の程知らず」
「!」
滑らかな透き通る声が聞こえた。
誰もいないはずの室内。
暗い無人のはずの我が家に立っていたのは、白い女だった。
ウェーブを描いた豊かな黒髪を持ち、白いドレスを着ている。
彼女は唇も白く、白い舌を持っていた。
どう見ても女神だ。しかし自分の担当の女神ではない。
ドロシュはガン、と一歩後ずさった。
そして咄嗟にシャオを振り返ると。
「……あ」
シャオは壁に寄りかかり、もう全てに興味を失ったような瞳でタバコに火を付けて煙をフーッと吐いていたのである。
美人局。
しかも、男の。
待っているのは女の。
ハメられた。
「、」
真後ろでバタン!と。
ドアが閉まる音が聞こえた。
…異世界でまさかこんなことになるとは。
流石にドロシュも思わなかったのである。
ドロシュはもう一度目の前の、白薔薇の乙女を見た。
もう二度と後ろは振り返れなかった。
何故かと申せば、自分の真後ろ。ドアの前に、何か黒くてものすごく怖いものが立っている気配がしたからだ。
シャオではない。
シャオも室内にいるが、それじゃない。
自分では絶対に敵わない真っ黒な「なにか」だ。
それが押し入れにしまい込まれ続けたひな人形みたいに、ジーッと音もなく佇んでいる。
気配だけで分かった。
自分は今女神と、S級モンスターとは比べ物にならない高位存在に挟まれている。
「ドロシュ・ハウゼン。ユーザーID1-1-6-9-9-5。転生法違反につき、逮捕令状が出ています。貴方の取得魔法は没取され、勇者の役職も剥奪されました。担当女神も2日前に辞職しています」
白い女は言った。
すると真後ろにいた何かが。
「はは、は。はぁ…ハ。…転生法は絶対厳守だ。契約書を列車で書いたのを忘れたのか?…忘れたろうなア。お前にとっちゃ何年も前のことだ。面倒なことって、楽しいと忘れちゃうよネ。だから足をすくわれちまう」
肩を掴まれた。
真っ黒くて長くて、尖った爪がキラキラ光っていた。
白くて大きな蜘蛛が肩に乗った気分だった。
彼は少しも動けなかった。
前と後ろ、あまりの迫力に息もできなかった。
「ドロシュくん、御用だ。大丈夫。新しい環境でもきっと無双できるよ。こことは別世界だが、そういうのは慣れてるだろ?」
「あ」
「…不安そうだなァ。どうした」
「、」
「たった1人で異世界にでも飛ばされたか?」
低くてガサガサした声は、毎日夢に出るほど恐ろしいものだった。
「チャッキー・ブギーマン、登録ID:BW6-5-3-4-9-8。対象者:ドロシュ・ハウゼン。種族:ヒューマン、役職:勇者。捕縛許可の申請」
「修羅屋京蜜、登録ID:BD7-4-3-8-5-6。対象者:ドロシュ・ハウゼン。種族:ヒューマン、役職:勇者。転生者連行の申請」
2人がバラバラのタイミングでそう言った。声は変な風に重なり、しかも同時に言ったわけではないので妙なズレ方をしている。
前と背後でチカチカっと金色の光がした。
それから『ユーザー認証が正しく行われました。音声ガイダンスに従い、転生法違反者を拘束してください』と電子音声の女の声が、これも前後で僅かにズレながら聞こえた。
ドロシュは瞳すら動かせなかった。
異世界に来てから、ここまでの恐怖と絶望に見舞われたことなど一度もなかったからだ。
この世界で、挫折など一度も経験しなかったから。
「ッあ、」
背中に手を当てがわれた。
瞬間、ドンっ、と強い衝撃が来て、足以外うまく動かなくなる。倒れることはなかったが、口が閉まらなくなり、マバタキもできない。
目を見開いたまま、足以外の感覚がなくなったのだ。
これがこの世界の最上位の拘束の仕方であった。
ドロシュは首根っこを掴まれ、家からそのまま連れ出される。
「………、」
家の前には、白いワゴン車が停まっていた。
窓にはスモークが貼られていたが、運転席の窓は開いていて、タバコを指に挟んだタトゥーだらけの腕が出ていた。
車は日本からの輸入品である。
人間を輸入できるということは、他のものも当然輸入することができるというわけだ。
コモンはそのワゴン車に寄りかかるように立っていて、タバコを片手にスマホをいじっていたが…音を聞いてパッと顔を上げ。
「──じゃ。行こっ、か。」
フッと下唇をわずかに突き出し、真上に煙を吐きながら言った。
■
「は、はぁ、」
静かなワゴン車の後部座席。
ドロシュは俯いて座っていた。
その座り方は、かつて教室でいつもしていた座り方だった。
隣には足を広げて座り、彼の肩に腕を回したコモンくんが黙ってタバコを吸っている。
前の座席には青レンガ色の髪をして、丸いサングラスをかけた男(ダイダラ)とシャオ、オドロアンとお蜜とチャッキーが乗っていた。
車内は本当に静かで、カッチ、カッチ、というウィンカーの音か、ダイダラの乾いた手のひらがハンドルに擦れるシュル、という小さな音以外聞こえなかった。
真っ黒なハイウェイはどこか別の世界に向かっていることがわかる。
これは女神のみ使えるワープ機能か何かだろう。
初めて見たが、悪夢の入り口みたいだ。
ドロシュは荒い息を吐いていた。
心臓が変な風に音を立てていたのだ。
「なぁ」
コモンくんが喋った。
畳が軋むような重たい声だった。
「…どうせオレのこと、後から殺して隠蔽すればバレないと思ったんだろ。そうすりゃ証拠上がんねえもんな」
「…は、…は、」
「悪いコト思い付くじゃん」
「…は、はぁ、」
コモンくんはトン、トン、とドロシュの肩を寝かしつけるように優しく叩きながら小さな声で喋った。
穏やかに見えるが、彼は本当にいつ暴力を振るうか分からない。
だからドロシュは声を出せなかった。
瞬きができなくて、目が真っ赤に充血していた。
ダラッと閉まらない口から唾液が垂れる。それが靴に落ちた。
「だァら(だから)言ったんだよ。部屋から出んなって。親の金なくなったら保険金かけて親殺せば良かったじゃん。そしたらずっと引きこもってられんだろ」
「…は、……」
「森下くん」
「、」
「聞いてる?1人で長台詞喋らすなよ。シェイクスピアじゃねんだから…へへへ。黙りやがって…いいご身分じゃん。ッ聞いてンのかゴラァ!!!」
「ヒッ、」
突然脈絡なく怒鳴られて、ビクッ!と足が震えた。
「………」
それから、沈黙。
コモンくんは真っ白な無表情で、トン、トン、と肩を叩き。ドロシュを見つめていた。
そしてチッチッチッと犬を誘き寄せるように舌を鳴らし、「笑えー。森下ー」と老婆みたいにしわがれた明るい声を出した。
「オレがイジメてるみたいじゃん」
「………はぁ、…はぁ、」
「笑え」
「…、…」
「え?笑えよ。ハハ」
「…づぁッ」
耳の下にジュッと煙草の先端を押し付けられた。
ドロシュは背骨に電気が走ったみたいにビグ!と震え、シートから転げ落ちた。患部は手で押さえられなかった。足しか動かせないから。
すると髪を引っ張られて仰向けに寝転がらされ、腹に足を乗せられた。
そして。
「笑え。次目ぇいくぞ。瞼閉じれねぇからキッツいぜー」
シュキン、と鳴ったオイルライターの音。
本気でソレをしかねない男の顔。
彼はマズイ!と心から思って、キーンと頭の奥で耳鳴りが聞こえるのを感じた。
「!…ぁ。っあ、……。っは。…、はは」
ドロシュはヒューヒュー息をしてから、なんとか乾いた音だけで笑った。
喉はカスカスに乾いていて、顔は凍りついている。
「は。はは、は」
…笑った。
コモンくんはそれを見下ろし、「…アハハッ!」と、お蜜のブサイクでかわゆい寝顔を見た時みたいな、無邪気な笑い方をする。
ドロシュの必死が面白かったようだった。
「アハハ。ゲラゲラゲラゲラ。ウケる」
「は。は、はは、…は、」
「アハアハアハアハ」
「は、は、…は、」
「っあー。あー、アハハ。ハハハハ!」
夏みたいな笑い声だった。
コモンくんはそのままアハアハ笑って、それから。
「うるせぇ」
「ッぅブ」
ドロシュの腹をドン!と踏んで無表情に戻った。
つまらないフランス映画を観ているみたいな顔で肘をついて、窓の外を眺めるのである。
突然に興味を失ったらしい。
その顔はかつて「森下」が見惚れた、授業中の「早川」の横顔だった。
…狼のような美貌なのだ。
カツンと尖った形の良い鼻が、キツい吊り目に生えたベルサイユのまつ毛が本当に見事だった。
あの時の顔だった…。
「、……ッ、」
ドロシュは目が閉じられなくて、ずっとその顔を見ていた。まばたきができず、乾燥で涙が流れていた。
ワゴン車は沈黙に満ちた。
さて、ちなみに車内の人間は、オドロアン以外の全員が「ァ怖〜!」と思っていた。
全然後ろを振り返れないし、口も挟めない。
全員ちゃんとコモンくんにドン引きしていたし、全員人の当たり前としてコモンくんの最悪さを再確認していた。
怒っていたはずのお蜜と面白がっていたはずのチャッキーは嫌過ぎてお互いに手を繋ぎ合ってなんとか堪えていたし。
ダイダラとシャオさんは窓を開けて極力会話を聞こえないようにし、「ァ嫌ッ…」と当たり前に思っていた。
これが本物のいじめか、と思った。
しかしコモンくんは凄い男なので、いじめている自覚が全くない。
殴られたお腹が痛くて目をバッテンにしてふうふう言うハメになったので、その恨みを〝ちょっと〟晴らしているだけだ。お蜜に嫌われたくないので本気でブチギレているわけではない。
この男の脳みそには多分ゴキブリとかが入っているし、人格はズダ袋なのでこれでも〝容赦〟しているのである。
そもそも全部お前が悪いのに、自分に逆らった人間が全部悪いし絶対に間違っていると思っている。
本物の糸クズとはこういう思考らしい。
彼に罪悪感がない理由はこの辺にあるのだ。
チャッキーはいつ「やっぱコイツ強ぇわ。もうダメだ」と呂布カ×マみたいなことを言って車を降りようか考えていた。
いくらダークリスト同士とは言えシンプルに引いていたので。
『目的地に到着しました』
ポン、と音が出て、車のガイドが言った。
連行先に到着したのである。
到着地点は、深くて、広くて、大きな穴だった。
ハイウェイの途中に突如として開いているこの大穴が、勇者の資格を剥奪された者、もしくは勇者適性が無いと判断された地球人の行く末だった。
この穴の下には生きているのか死んでいるのかも分からなくなるような辛い労働が待っている。
異世界開拓の仕事だ。
労働者たちは異世界を讃える歌を歌いながら朝も夜も昨日も明日もなく、ただ働かされるのだ。
だから暗い穴の向こうから、その歌が反響して風のような音が聞こえる。
穴の側には「開拓局」を管理しているお姉さんが立っていた。
そのお姉さんは背中に千手観音みたいにいくつもの赤い腕を生やしていて、赤い豹柄のボブヘアをしていて、赤いペンシルドレスを着た190センチはあろう美しい色白の女であった。
「──惚れた。」
オドロアンが窓から顔を出してそう言った。
赤いお姉さんは4本の手を体の前で合わせ、ゆっくり頭を下げた。彼女の耳から垂れている鈴のピアスがシャロン、と音を立てる。
『ようこそお越しくださいました。転生者の皆様。開拓局局長のエニグマ・クロノグラムです』
彼女は滑らかで平坦な発音で言った。
全員に聞こえるように拡声魔法を使っているようで…拡声器越しみたいにガサついた音であった。
オドロアンはボーー…ッと彼女を見て、「エニグマさん…」と口の中で繰り返す。
どうやら彼のストライクど真ん中だったらしい。
『転生法違反者の引き渡しを担当いたします。修羅屋京蜜様、ドロシュ・ハウゼンをコチラへ』
「!あ、はい、」
お蜜は名前を呼ばれたことでハッとして、車を降りようとした。するとコモンくんが慌てて車を降り、彼女のためにドアを開ける。
そしてドロシュを自らの手で引きずるように持っていき、お蜜の手を煩わせることなく赤い女・エニグマさんへ引き渡したのであった。
『はい、ドロシュ・ハウゼンですね。確かに受け取りました。ありがとうございます。サインを頂けますか』
「あ、えっと、メールしておきました」
『確認いたします。少々お待ちください』
エニグマさんは片目をチカチカッと赤く光らせてから、『…はい。確認が取れました。これで手続きは全て終了となります』と全く表情を変えずにまた頭を下げる。
ドロシュはエニグマさんの無数の手で強制的に起き上がらせられ、立ち上がった。
やっと彼は拘束を解かれた。
「〜〜〜ッ」
しかし抵抗はできず、ただ目を強く閉じて瞬きができる有り難さに顔を覆うことしかできなかった。
彼はこれから穴に突き落とされる。
死なない体にされるので、落下しても問題ないのだ。
コモンくんは「んーっ、」と伸びをして、仕事が終わったことに満足する。
さて、後は帰るだけだと思って背中を向けようとすると。
ドロシュが、顔を覆ったまま。
「──は。早川」
「は?」
言った。
震える声で。
コモンくんは「なにー?」という純粋な顔でドロシュを見た。
周囲では鈴虫の声が鳴り響いていた。
強くぬるい風が吹いていて、コモンくんの三つ編みの毛先がヒラヒラ揺れていた。
「…アイツらは。どうしてる?」
アイツら。
それはきっと、マリンちゃん達のことであろう。
最後の最後に、彼は彼女たちを心配してそう言ったのだ。
コモンくんは「ん?」と目をちょっと大きくして、首を傾げた。
それから「ああ、」と納得して。
「マワして殺した。」
そう嘘をついて、ドロシュの背中をドンッ、と蹴り飛ばす。
「あ。」
ドロシュは最後、スマホを落としたみたいな声を出して、深い穴へ落ちて行った。
彼の姿はすぐに見えなくなる。
叫び声は聞こえなかった。
落ちていく時、逆風に息ができなかったのだろう。
だから物凄く静かな落下であった。着地の音は聞こえない。
周囲は労働者たちの歌声と、風と、鈴虫の声しか聞こえなかった。
「つまんねーな。オレなんかしちゃいました?って言えよ」
コモンくんは唇を尖らせて言った。
マァしかし、今度こそ全てが終わったと安堵をする。
ドロシュは退治した。
自分に歯向かったものは、もう居なくなった。…
スッキリした気分である。
だから彼はお蜜の前にしゃがんで、彼女のちまい手をギュッと握った。感謝を伝えたくなったからだ。
「…お蜜ちゃん。今日までお疲れ様。オレのために怒ってくれてありがとう。嬉しかった」
「お……」
「始末を任せてくれてありがとうね。連行?の手続きとか、色々大変だったと思う。他に仕事もあるのに…。手伝えなくてごめん。ほんとに感謝してる」
「…う、うん」
「…お蜜ちゃん大好き。オレね、お蜜ちゃんに会ってから男が失恋する映画とか音楽聞けなくなっちゃった。ずっと一緒にいたいなって思う。いつもありがとう」
「……うん」
「ギュってしていい?」
「…よ。…よきにはからえ」
「へへ」
コモンくんは幸せそうにお蜜をギュ!と抱きしめ、めろめろニョロニョロ嬉しそうな顔をする。
彼にとってはみんなで悪者をやっつけた瞬間なので、怪獣映画の最後みたいにロマンティックなシーンなのだ。
それにお蜜への感謝もちゃんと伝えられたので、この時間が嬉しかった。
人格がめちゃくちゃカチ壊れているので状況が分かっていないのである。
お蜜はギュ…と抱きしめられながら、「ほ、絆さりる…!(ほだされる)」と顔をシワシワにした。
「だいすき」
甘くて優しい声だった。
2人で夕暮れに染まるライ麦畑を見ているような、そんなうっとりとした声である。
お蜜は顔をしわしわにして何も言わなかった。
本当に絆されてしまいそうで、というか絆されてしまっていたから。
…当然、マリンちゃんたちは殺されていない。
ラーラ様は自分のキャリアを積むために魔法省で勉強をしつつ、自分磨きに勤しんで毎日キラキラわくわくしているし。
カオリさんは物凄く格好いいカレピ兼パーティメンバーができて、毎日2人で遊びながらも冒険をしている。
アリアちゃんはアウストロ少年と本物の恋に落ち、トウモロコシ畑の側に寝転がって今は幸せそうに内緒話をコソコソし合っている。
マリンちゃんは、今、ギラ兄さんと夜のお散歩に出かけ、アイスを買ってもらってニコニコえへえへとはしゃいでお話をしていた。
みんなは1人を犠牲に、1人はみんなのために犠牲になったのである。
マリンちゃん達はドロシュの結末を知らないし、これから先知ることもなかった。
「帰ろうぜー」
「う、うん…」
コモンくんはお蜜と手を繋いで、エニグマさんに頭を下げて車へ戻って行った。
エニグマさんは無表情のまま、彼らが去るのを見送ろうとしている。
隣でずっとオドロアンに、
「あの、連絡先だけでも交換してもらえませんか?養います」
「エニグマさんって呼んでもいいですか?」
「好きな食べ物とかあります?奢ります」
「オレガチでめちゃくちゃレベル上げて死ぬほどいい男になるんで、そうなったらあの、転生者様じゃなくてオドロアンって呼んで欲しいです」
「マジ頑張ります。え、ここにいつもいます?マジで良い男になってまた来るんで、良かったら今度チラ見してください」
「取り敢えず財布だけ受け取ってください。30万とカード入ってます」
「どんな男好きですか?あれならオレタバコ辞めます😅💦🚬❌」
と口説かれているのを完全に無視しながら。
しかしオドロアンは無視を貫かれても全くめげずにずっと話しかけ続けるので。
エニグマさんは、
『…転生者様』
「はい!」
『お車が出るようです。お見送り致しますので、車内にお戻りください』
と、ものすごく平坦にそっけなく言った。
オドロアンをチラとも見ずに。
しかしオドロアンはパッ!と花が咲くような笑顔になって、「っ話しかけてくれた!」とキラキラした目で言った。
「また来ます!」
『ご用件がない場合はお会いできません』
「会話してくれる…!…分かりました!違反者たくさん連れて来ます!そしたら仕事の邪魔にならないスよね?」
『はい。それであればご対応いたします』
「ありがとうございます!また来ます!」
『お待ちしております』
「好きですッ」
『本日はご足労頂き誠にありがとうございました』
「はい。失礼します!」
オドロアンはピカピカ笑って頭を90度に下げた。
会話ができたことだけでもこれ以上なく嬉しかったのである。満足したし、これ以上邪魔してはいけないので。
彼はるんるんで車に戻ろうと思ったのだが。
『──転生者様』
エニグマさんが一つ、呟いた。
「?はい」
『私は、柚子茶が好きです』
と。
「!!持って来ます!!!」
『では、失礼いたします』
エニグマさんはそう言って、体の前で手を合わせたままフワッと飛んで、穴の中へ消えて行った。
オドロアンは「おやすみなさーい!!」と穴の中へ叫び、ニコニコキラキラして「ハーッ…」と胸を押さえて感動的なため息をついた。
「好きなのだが…?笑」
「オドロアーン!帰ろうぜーっ」
「あ、りょ🤚」
オドロアンは胸をときめきに高鳴らせ、ふわふわとした夢の足取りで車へ戻って行った。
ダイダラから「上玉じゃねえの」と言われ、嬉しそうに頷きながら。
糸クズ達は暗い穴をUターンして、ハイウェイを走って行く。
好きな音楽をかけて、窓を開けて髪を風にひらひら靡かせながら。
先程の緊張感は車内に残っておらず、そのおかげでリラックスした彼らはやっといつも通り話し出す。
15分も経てば、もう「うまくいったなー」「いや、オレら凄くねぇ?」と安堵で笑いながら窓の外を見ていた。
お蜜とコモンも手を繋いで後部座席に座り、「お蜜ちゃん、寒くない?」「くない」「良かった…」と会話をしている。
オドロアンだけは窓から顔を出して、いつまでもいつまでも、穴のあった方向をうっとりした目で見つめていた。
車は進む。
闇のハイウェイを飛ぶように進んでいく。
ドロシュは二度と穴倉から出てくることはなかった。
お前ら行くな。
異世界にはコモン・デスアダーがいるから。
■
「──えっ」
2時間後。
到着し、車を降りたコモンくんが「ただいま」を言い、脱いだ自分の靴をチマチマきちきち揃えて並べて家に入った時である。
チカチカッと突然右目が金色に光り。
ポン。と機械的な音がして。
『リストが更新されました。ご確認ください』
と、自分の耳元であの音声ガイダンスの声が響くのを聞いた。こんなことは初めてだった。
女神のお蜜やチャッキーにしか備わっていない機能だと思っていたので、流石にビクッとする。
周りもビックリした目で彼を見ていた。
リストが更新された。
リストとは、一体何のことだろうか。
「…え。か、確認します?」
コモンくんはキョトンとした顔で、取り敢えず応答した。すると『はい、ユーザー認証を行ってください』と言われ、「あ、えっと」と一言…辿々しく、スマホのメモ帳を見ながら言った。
『ユーザー認証が正しく行われました。コモン・デスアダー、ユーザーID:TA1-1-2-0-0-7。〝勇者殺し〟のスキルを獲得した為、ダークリストから除名。サイコリストに登録されました』
「え?なにて?」
『役職、〝マッドハウス〟が新たに追加されました。〝沈黙の春〟〝侵略者〟のスキルを自動獲得。ご確認ください』
「え?はい…」
『以上で案内を終了致します』
「え?はい」
返事をすると、片目は光らなくなる。
コモンくんは右目を押さえて、ビックリした顔で固まった。
するとそれを横で聞いていたチャッキーが。
「…悪魔以外でサイコリストに載るやつ…存在するんだ…」
と。
心からドン引きした声で言ったのであった。
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