第7話 どしたん?話聞こか?
「え。ヤダ。帰んないでくださいよ…」
「あらあら…もう、」
ギラお兄さんは、ドロシュのパーティメンバー、聖女・ラーラ様に後ろからグギュ…と抱きついた。
猫の尻尾を彼女の太ももに巻き付けて、額を華奢な肩に埋めている。
彼は眠そうにベッドで胡座をかいていて、パンツしか履いていない。ベッドに腰掛けているラーラ様もバスローブを着ていて、中は裸だった。
「…コーヒー淹れるから一緒(に)飲も。まだ居て」
ギラ兄さんは彼女の肩に顎を乗せ、ジーーッと甘えるように言う。ラーラ様は右頬に手を添え、ちまい汗を飛ばしながら困った。
けれどそれは満更でもなくて、一応少し悩んでいるフリをしたいだけだった。答えは聞かれなくてもYES、ラーラ様だってあそこに帰りたくない。
…ドロシュのパーティというか。
ドロシュの家畜小屋に。
「…え、ええ」
「!」
ラーラ様が頷くと、彼は「ヨッシャ」と小さい声で言って、サリサリと猫のザラついた舌でラーラ様の真っ白な首を舐め、キスをする。
「あとで風呂入ろ」
「はい」
ラーラ様は照れ照れして、黄金の髪を恥ずかしそうに弄りながら頷いた。
こんな風に正しい「女の子扱い」をされたのが、久しぶりだったからだ。
積極的に「一緒にいたい」と言われたのは初めてだ。
こんなに大事そうに撫でられるのも、座っているだけで全て用意してくれるのも本当に嬉しかった。
動きたくなくて、帰りたくなくて腰が凄く重たくなる。
「………」
ギラ兄さんが暗い宿屋で珈琲を淹れる背中を、ラーラ様はぼんやり眺めた。
彼の背中には、全面に女郎蜘蛛のタトゥーが入っていた。月明かりとベッドサイドの蝋燭に照らされて、彼の肌はほの白く見える。
彼がタバコに火をつけた。
タバコの先端が、吸うたびに闇の中でじんわり赤く光る。
ラーラ様はそれをなんだか、いつまでも見ていたかった。…
【何故こうなったのか、解説】
マァ簡単に言えば、「どしたん話聞こか作戦」である。
お誂え向き、チーム歌舞伎町には美男しか存在しない。
その上モテる男しか存在しないのであった。
女性の扱いというものを心得ていて、(女性にのみ)共感性も非常に高く、下心のない優しさというものを知っている。
そして下心を出すタイミングも当然完璧であり、乙女をキュンとさせるカードを幾らでも持っている。
よって糸クズ達は「あの子と付き合ってきて」と無茶を申しても、「はーい」と一言、本当に付き合うことができるのだ。
それはつまりたくさんフラれてきて、たくさん傷付いて、たくさん女の子と付き合ってきたからこそできることだ。
さて糸クズ達、今回は何故その作戦に踏み切ったかというと。
『オレマリンちゃんウチに欲しい』
大量の資料を読み漁ったコモンくんがそう言ったからだ。
というのも、チーム歌舞伎町には戦闘要員が居ない。
一人一人強くはあるけれど、結局まだ彼らはレベルゼロ。その上魔法も覚えていないし、本当に強い人間を前にした時逃げることすらできないだろう。
ハッキリ分かった。
我々の阿片製造計画の敵になるのは〝チート級転生者〟達である。森下ドロシュの襲来によりコモンくんはチートという恐ろしさの一端を垣間見た。
肌で感じれば、アレが脅威以外の何者でもないと分かる。
よって敵はハッキリしたのだ。
マしかし、コモンくんは彼らと戦って勝ちたいとは一切思わない。
もしどんなに強くなっても全然逃げるつもりだ。
何故って、面倒くさいから。
正面から戦うなんて無駄にコストと労力がかかるだけだし、その後の被害予想を考えると面倒極まりないため逃げるのが一番手っ取り早い。
力を誇示するのが大好きな連中に、そんなパフォーマンスの機会を与えるなんてバカのやることだ。
関わらないのが最も賢い選択である。
せいぜい他人に与えられた「無敵」とやらで、身内と存分に遊んでいれば良い。
彼らは今まで散々負けてきたのだ。そんなヤツらの勝ちに対する執着は半端じゃないはず。
なら見事に悪党としてみっともなく逃げれば良い。そうすれば満足するんだろうし、彼らの安いプライドも守れよう。
その為には「逃げる為の戦力」と「この世界の知識」を経験として知っている人間が必要だ。
逃亡はつまり抵抗でもある。
強者から逃げる時はある程度の戦力が必要だ。
それに、冒険者としてダンジョンやモンスターやギルドに精通し、戦闘知識を持っている叩き上げの人間が必要。
どんなに強い魔法を覚えたって、実戦に使用できるかどうかは微妙かもしれない。
例えば一帯を更地に出来る魔法を覚えたとして、それを発動する時仲間が巻き込まれたらどうする?
行きつけの武器屋が潰れたら?更地にした後で二次災害が起こる可能性は?あたりの経済ごと破壊してしまったら?
崩れた建造物で人々が下敷きになったら?
被害総額は?それにより町の水脈がダメになったら?
家を失った人々に対する補償金は?
遺族から訴えられたらどうする?
…極端な例だが、つまりはそういうことだ。
強い攻撃魔法を覚えたところで、実戦向きかどうかの判断は付かない。
その判断ができる人間が欲しかった。
チャッキーもお蜜も魔法のエキスパートだし強いけれど、2人は冒険者ではない。
サバイバルで覚えておくと便利な魔法も、本ではこう書いているけれど案外役に立たない魔法だとか、意外とこれが必要だとか…そういうリアルな知識を持っているわけでもないのだ。
そこでだ。
マリンちゃんは明らかにあのパーティの中で唯一の近接系肉体強化型の戦闘要員。
あのレベル測定不能チートのドロシュ(オドロアンは彼のことを「チート牛丼(チーズ牛丼)」と呼んでいた)に着いて行けているということは当然神をも殺すほどに強かろう。
そこそこのダンジョンも1人で簡単に潰せるだろうし、ギルドは顔パス、強い知り合いも多いはずだ。
なんせなろうくんはスペックの高い女しか側に置かないから。
それにドロシュはきっともう終わりだ。
何故ってそりゃ、
『──レベル50以上の転生者がレベル10以下の転生者に対し有形力を行使する行為は転生法に抵触します。レベル50以上になった際、担当女神は転生者にそのことを伝える義務があるので、ドロシュが知らないはずはありません。知った上で転生法を犯しています。大問題ですよ』
と。
コモンくんのお腹のアザを見たお蜜がコメカミに青筋を浮かべながら淡々とそう言ったからだ。
コモンくんの鳩尾はあまりに酷いものだった。
ドス黒い拳の形のアザが真ん中にクッキリとできていて、その周囲の皮膚は青や黄色に変色していたし、体の中は酷い炎症が起きていた。
ところどころに赤い擦り傷のようなものがあって、それはきっと服と肌が強く擦れてできた傷だった。
コモンくんはお蜜の家に帰って少ししてから。
突然ズル、とゆっくり座り込んで、鳩尾を抑えて脂汗をかいた。
ドロシュに殴られたダメージが悪化したのだ。
慢性的な吐き気はずっと感じていたのだが、だんだん腹が腫れ上がるような重たい痛みがやってきた。
鼓動と一緒に突き上げるような鈍い痛みがあって、ミゾオチに丸い岩があるみたいだった。それが心臓と一緒にドクドクせり上がってくるようで、最早立っていられなかったのである。
痛みのショックで高熱も出たし、酷い有様だった。
この男は本当に格好付けなので、好きな女の子の前なら爪を剥がされていても「どた?笑」と笑っていられるのに、それでも耐えられない大苦悶であったのだ。
内臓の痛みは流石に耐えられるものではない。
それでお蜜にバレてしまったのだ。
コモンくんは「言うて軽傷」「喧嘩は結局オレが勝った」と頑張ってカッコつけたが、お蜜は怒り狂っていた。
『この私の転生者に傷を付けるなんて。身の程というものを知らないらしいわね』
彼女は細い首に血管を浮かせて言った。
コモンくんはお腹を抑えてふうふう言いながら、「あ、怒ってる…」と眉を下げて思う。
怪我はお蜜に治癒魔法で治して貰った。
彼女の手から緑の光が出るのを見て、「あ、凄い、アニメとかで見たことある」と思いつつ。しかしその光は結構眩しくて…例えば脱毛器のレーザーくらい眩しかったので、腕で顔を覆ってジッとしていた。
それに顔を見られたくなかった。ワンパンで負けたことが好きな子にバレて物凄く恥ずかしかったからだ。
『お蜜ちゃん。オレに任せて。オレ、このこと無駄にしないから。3日で片付けるから。だからオレにやらせて』
コモンくんはお蜜の片手。人差し指をギュッと赤ん坊みたいに握って言った。
お蜜がドロシュの担当女神と話を付けると言い始めたからだ。そんなの子供の喧嘩に大人が出てくるみたいで恥ずかしかったし、プライドが許さなかったのだ。
だから言った。
ドロシュの件は自分でなんとかすると。
そして考え抜き、マリンちゃんを手に入れるという目的と…その為にはあのパーティの女の子を全てドロシュから引き剥がすことが必須条件だと考えた。
つまり、3日以内に。
全ての女達を寝取るのだ。
『お蜜ちゃん。オレ男だからさ。男が一番再起不能になる方法知ってるんだ。森下…じゃない、ドロシュにはそれをやろうと思う。だからオレさ、必要に応じて他の子とチューしちゃうかもだし、口説いたりするかも』
『………』
『オレはお蜜ちゃんのことが本気で好き。でもどうしてもやんなきゃいけなくなるかもしんなくて、それ言いたくて…』
コモンくんは迷った末にそう言った。
ソファに座ったお蜜の膝の上にまたがるように座り、お蜜の肩に顎を乗せて言ったのだ。
すると怒り狂っているお蜜は、
『存分になさってくださいまし。抱いた方が良いというのであれば、抱いていらして。コモンくん、私、本当に怒っているの』
と言ってくれた。
彼女の目は瞳孔が開いていた。
『なんなら全員寝取ってきたら如何。徹底的にやりましょう。必要と言うなら私もご協力致しますから。私、貴方のことをとても可愛いと思っているのよ』
とまで、力強く囁いた。
それはゾッとするような色気が含まれた花魁の声だった。
『いくら高名な大名様でも、女に捨てられた男は悲惨なものよ。殺してしまいましょうその男』
そんな気前の良さを見せつけられたのである。
『え、えぇ〜〜………好き…♡♡♡♡♡』
コモンくんはメロメロにょろにょろよわよわと、お蜜に抱きついて力が抜けてしまった。
お蜜は鼻を鳴らしてそんな彼の頭を撫で続け、ドロシュ・ハウゼンの破滅を願う。
と、言うわけで。
聖女/ラーラ・エヴァンスには歳上キラーのギラ・ヴォイニッチが派遣された。
弓使いのクール系美女、カオリ・ツクヨには蓮華升麻の美男、人を騙し誑かすことに最も長けているチャッキー・ブギーマンを。
無表情系ロリ美少女アリアちゃんには、…糸クズは当てがわなかった。
理由は子供相手にどうして良いかわからないから。
あと糸クズ達は全員子供が嫌いなので。
よって相手はどうしたかというと、悪役令嬢系転生モノの攻略キャラクターオーディションで不合格になった美男子を採用した。
この辺りはチャッキーのコネが役に立ったのだ。
悪役令嬢系は部署が違う。
けれど、チャッキーの女友達が攻略キャラオーディションを紹介してくれたのだ。
概要を話せば、悪役令嬢が転生してきた際の幼少期に登場するちまこい美男子達のプロフィールを送ってくれたのである。
所謂〝子役〟だ。
不合格になった彼らは、しかし夢に見るほど美しい少年達ばかりだった。
その中でこれかと思われる美男を発掘。
アリアちゃんの3つ上、14歳。
アウストロ・ロマンスである。
アウストロはとろりとした柚の香りがする、白鳥のような美少年であった。
ザクザク雑にカッティングされたアメジストのような輝く紫の瞳、長くゆわえたシルクの白髪。
開いた五指のようにハッキリしたまつ毛。
長い足、半ズボン、着こなしたドレスシャツ。
…薔薇の見る悪夢のような美貌であった。
マしかし小癪なジャズみたいに軽薄で狡猾な性格をしており、悪役令嬢に意地悪をする貴族役としてオーディションに参加していた。
最終的に悪役令嬢に惚れ抜いてヒヨコのようについて行くようになるが、不幸な生い立ちゆえに最初は警戒心が強く、気位の高い子猫みたいに紊乱なのだ。
だが残念、オーディションは倍率が高すぎて落ちてしまった。
糸クズたちはこのアウストロ・ロマンスをアリアちゃんに当てがうことに決めたのだ。
アリアちゃんが1人でいるところを見計らって、その白薔薇の美男子を派遣する予定。
──さて、意気込みは、
『簡単そうで良かった。平気だよ。ボカァ(僕は)こういうの慣れてるから。部署は違うけど、こういう子って自分に自信無いんだ。主人公にキミは強い子だよって説得されたら簡単に落ちるし、助けてあげたら命を捧げるくらい従順になる。テンプレートだから、難しくないと思うな』
この通り上々。
アウストロ少年は計画通り、アリアお嬢様とトウモロコシ畑でガラス細工のような恋をする。
頭の良い狡猾な彼なら問題なかろう。
ラーラ様にはギラ兄さん。
カオリさんにはチャッキー。
アリアちゃんにはアウストロ少年。
もしダメなら他の美男も控えているし、コモンくんもいつでも出動できる。
というわけでまずはこの3人。
これを派遣することに決めた。
これが「どしたん話聞こか作戦」の全容である。
【解説終了】
「んも、む、」
ラーラ様はときめきに溺れていた。
一緒に風呂に浸かり、ギラに押し潰されるようにキスを続けられていたから。
深いキスではなく、ちむちむとかわゆい音ばかりのキスだった。
それが終わればギラはトロンとした目をして、「まだ帰んないで」と甘えるように言うのだ。
「カレシいないんでしょ」
「い、いないけれど…。…その、心に決めた方が」
「なにそれ。オレ?」
「違うわよ」
「オレって言って。言わないと殺す」
ギラは彼女のモチモチの太ももをカリッと軽く引っ掻いた。お湯の中で、尖った猫の爪がくすぐったくて、ラーラ様は「もう!」と顔を逸らす。
冗談だということは分かっていた。
「今日も泊まってくスよね。オレラーラさんのこと、結構本気で好きなんだけど」
手を握られた。
ギラの手は大きくてゴツゴツしていて、お湯で温まっていて暖かい。
タトゥーだらけの体、雫にキラキラ光るアレキサ×ダーマックイーンのネックレス。
下唇と舌につけたピアス。
セクシーな香水と、ガラムタバコの匂いがする気だるげなネコのお兄さん。
全てが「あの人」に似ていなくて、つまり彼のフとした仕草で彼を思い出すことはなかった。
それにラーラ様はドロシュに抱かれたことがなかった。
何故かはわからない。
…マァ意気地が無いのと童貞だからなのだが、彼女はそれを知らない。
誘ったこともあるけれど、何故か「お、おいやめろ」と素っ気なく断られてしまった。
それで、物凄く傷ついた。
恥ずかしくて仕方なかった。でもいつかを夢見て頑張っていたのだ。
彼はいつも全員の女達に同じ態度で、全員平等に優しい。
が、忘れるなかれ、
女が好きなのは「特別」だ。
男が好きなのは「一番」だけれど。
ラーラ様はくたびれていた。
〝あの事件〟があってからはみんなギクシャクしていたし、パーティにも居辛くなってしまったのだ。
みんな気にしないようにドロシュを励ましたし、過去は過去だと割り切ろうとした。
しかしそれを思うたび、あの言葉が毒のように蝕んだ。
『過去は過去って言うならさ、オレのこと殴った説明つかなくね?』
発音まで簡単に思い出せる。
あの罵倒の変奏曲を。
けれど確かに的を得ているようでドキドキしてしまった。
今までは彼のことが好きな人しか自分の周りにいなかったから分からなかったけれど、反対意見をバケツで浴びせられた瞬間、ショックと驚きで体が痛くなったのだ。
自分は確かに、ドロシュからどっち付かずの対応をされていた。
恋をしているのを知られた上で放置されていた。
そうすれば断られているわけではないし…私たちは彼から離れられないから…。
「…ラーラさん風呂上がろ。オレのぼせそう」
「熱い?」
「ウン。アイス買いに行こ」
「待って、私…一度歯を磨きたいのだけど」
「ン。磨いたげる。待ってて」
「え」
彼はそう言って湯船から上がり、ラーラ様の歯をちまちまシャクシャク磨いてくれた。
終わればコップに水を溜めて水を含ませ、「ペッして」と言って口を濯がせ、湿った唇を親指で拭ってやるのだ。
それから。音を出さずにムニッとキスをして、
「…ねえ。面倒なんだったら、寝てる?」と聞く。
「オレなんか買ってくるし。動きたくなかったら寝てていいスよ。欲しいもんある?」
「…いいえ。いえ、私も行きたいわ」
「マジ。じゃゆっくり行こ」
こんな風に世話をして貰ったのは初めてだった。
ピンチを助けてもらうことはあったが、こんな小さなことでもやって貰えたのは本当に初めて。
…むしろドロシュの細かい世話をするのはこちらの仕事だった。
彼を癒すために色々といつも頑張っていたのだ。
それは、自分を殺す行為だったのかもしれなかった。
「…わたくし、こんな風に優しくされると、そのぅ」
「?」
「いけないわ。甘えてしまって…」
「何それ。燃える」
結局アイスは買いに行かなかった。
2人は布団でくっ付いてセックスをしたり、話したり、互いの世話をしたり、何も言わずに肌をくっつけてまどろんだりもした。
本当に優しいというのはこういうことなのだと思う。
ラーラ様が何かしようとすると率先して動いてくれるし、何もしていなくても布団で肩まで体をしまってくれて、「寒くない?」と聞いてくれる。
それにセックスをしたからと言っても、「ごめん、触るよ」と許可をとってから服を着せてくれた。
2人は三日間ずっと一緒だった。
昼は手を繋いで眠って、夜はご飯を食べに行ったり、特に何もなくてもキスをしたり、風呂場で服をシャワーで濡らしながらセックスをしたりした。
何もなければ彼はもちもちの布団でラーラ様を包んでくれて、ちまこい口にイチゴをちまちま入れてくれたりした。
お互い幸せだったし、ラーラ様は何かが満たされていくのを感じたのである。
好きだと目を見て言ってくれることが、こんなに嬉しいのだと知った。
そして最後の日、彼女はこう言った。
「私…もういいわ!」
と。鏡で髪を整えながら。
なんだか物凄くさっぱりした顔で。
「私。私、貴重な若い時間をとても勿体無いことに使っていた気がするわ。…私…そうよ、どこでもやっていけるはず。ドロシュ様がいなくても…魔法省から声も掛かっているし、やってみようかしら」
「んえ、?」
「どう思うかな。ギラくん、どう思う?」
「…え、分かんないけど。ラーラさんにしかできないことあるんだったら、そっちの方がいいんじゃないスか?」
「そうよねぇ。そうだわ。…ねぇ、恋と仕事はどっちの方が大事だと思う?」
「仕事スね。恋は余興」
ラーラ様はそれを聞いて、「その通りだわ」とフンフン興奮しながら頷いた。髪の毛をモソモソ整えながら。
ギラは彼女の体に覆い被さるように洗面台へ手を付いて、「なに、なんか仕事すんの?展開早くてついていけないんだけど」と聞く。
「ええ。新しいことを始めるの。私、パーティで冒険していたのだけれど、それを止めるのよ。無駄だって今気付いたから」
「…そっか。いいんじゃん」
「そうでしょう」
「ね。じゃあ暇な時たまに会ってよ。ラーラさんの邪魔しないスから」
「邪魔?」
「うん。邪魔しない。良い子にするからたまにオレで遊んでよ」
ギラはスッカリラーラ様に懐いていた。
頬をほっそりしたもちもちの背中にくっ付けて、「お願い」と言う。
ラーラ様は「邪魔しない」と言われたことに驚いた。
そうか。
自分は、ずっと邪魔をされていたのかもしれない。
恋とか、冒険に。
自分のキャリアを…。
「ギラくん」
「ん?」
「たまにまとめて休みを取るから、その時は会いましょうね」
「マジ。嬉しい。カレシにしてくれるってこと?」
「違うわ。もう恋は暫くしないの。でもあなたのこと、お姉さんとても好きよ」
「え。めっちゃキュンてした今」
「私いくわね」
「もう?」
「いいえ。最後にもう一度しましょう。脱いで」
「ウワ、最高。」
「長くしたいから頑張ってね」
「あ?上等だよ任せろ」
2人はキスをして、笑いながら布団へ一緒に飛び込んだ。
そして。
ラーラ様は終わった後、肌を少しほてらせたまま。
けれどとてもすっきりした顔で、乱れた髪をポニーテールにして。
「またね。ギラくん」
チュッとキスをして去って行った。
彼女はきっとパーティに戻らないだろう。
自分の状況を確認し直したことで、もう未練を断ち切ったのだ。
女というのはルージュを引きなおせば、過去の男など二度と思い出さない生物なのである。
「またね」
ギラはそのスッキリ伸びた背中を…宿屋から手を振って見送った。
本当は「送っていきます」と言うのを我慢して。
多分余計に付きまとうのは良くないから。
さて計画通り。
ドロシュから彼女を引き離す作戦は上手くいったわけだが…。
「寂しッ…」
結構ラーラ様のことを本気で好きになっていたギラは悲しそうに耳をペタンと下げた。
残念至極。
しかし彼女のやりたいことができるなら、それで良いと思う。
「………」
しかし良い女だったなぁと、ギラお兄さんはタバコに火を付けた。
なろうくんにはもったいないね、と。
■
「コモンくん、…でも…どうやってホテルまでその子達と行くんですか?寝取ると言ってもね、大変なことよ」
「え?ホテルの行き方?そりゃ…え、流れで…?」
「な、流れ」
「ウン。なんか、普通に」
「普通に」
「だってお蜜ちゃんとオレホテル流れで行ったじゃん」
「!たしかに」
「でしょ。何でもありよ。つかそんなんもできないやつウチにいないし安心して」
「そなの?」
お蜜は心配だった。
土壇場で断られたらどうしようとか、みんながうまく口説けなかったらどうしようとか。というか口説くってどうやってやるんだろうとか。
「マァ出会い頭に〝かわいいね〟って言わなきゃ大丈夫」
「?どして。軽く見られちゃうから?」
「違う違う。可愛い子って可愛いねって挨拶より人に言われるからね。慣れてるし特別な言葉じゃないわけ。それに毎回男から可愛いね〜って寄ってこられるからウンザリしてる。一番最初に可愛いねって声かけたらシャッター降ろされちゃうよ」
「成程…ならどうするんですか?」
「ナンパだと気付かれないこと」
「そんなことできるの?」
「できるよ。オレお蜜ちゃんのことナンパしたもん」
「え。あれナンパだったの?」
「そだよん」
「気付かなかったわ」
「ほんとかわいいね」
お蜜はもちもち撫でられ、「そなのね…」と思いつつ…
さて、チャッキーさんはカオリさんとどうなったかしらと思ったが。
『カオリさん可愛いネ。虐待して良いですか。小さな箱に閉じ込めたい。心から』
「死ね」
『マァ上手く行ってることには変わりねぇよ。仲良くなれたし。因みにこれは全然関係ない話なんだけど、オレの家には完全防音の広くて暗い地下があるんだよ。全然関係ないけどネ〜〜……。ハハ…ハ…ァハ…』
「めんどいからリアクションしなくて良い?」
『全然良いよ、自分でもやんなっちゃう』
「助かるわ」
こちらも順調だった。
彼はギラ兄さんとは全く別で、最初にセックスはしたけれど…その後は2人で遊び呆けたのだ。
カジノに行ったり下町で食事をしたり、服や装備を沢山買って2人で馬に乗って狩場へ遊びに行ったり、映画を観たり、特に意味もなくキスをしたり。
2人で別世界のクラブに行って、音楽に負けない声で大声で喋ってお酒を呑んだ。
カオリさんはそれが凄く楽しかったみたいで、ずっと笑っていた。
『ずっと武の道一筋だったからな。こんなに楽しいのは久々だ!』
カオリさんは爆音のハードテクノの中、着物の上をはだけさせてサラシのまま案外品もなく笑った。
それが物凄く色っぽくてかわゆいのである。
周りには裸みたいな女ばかりだったから脱ぐのは恥ずかしくなかった。
チャッキーも暑そうにしながら、「パーティのメンツでこういうのやらなかったのか!?」と大きな声で返した。
『冒険がメインだぞ、そんな暇はない。それに、アイツはこういう場所に来ないからな!』
『アイツって?』
『ギルドマスターだ。酒場に行ってもあまり変わらない。クールなやつなんだよ!』
『そりゃクールじゃない。楽しみ方を知らねえんだ』
『そうなのか?』
『そうだよ。こんな楽しい場所に来てクール気取りはオシャレじゃねぇな。馬鹿騒ぎがドレスコードだぞ』
『アッハハ。確かにそうだな』
カオリさんは結構豪快に笑う人だった。
クールな武人だと思っていたが、酔うといつもケラケラ笑っている。大きく口を開けるので、それがかわゆいのだ。
チャッキーは彼女の下唇にチュッ!とキスをして、「フロア行こうぜ」と手を引いた。
点滅するライト、距離の近い人々。
上から降るスモーク。
音楽はうるさくなかった。
音響設備に金がかかっているから、音が繊細で…爆音でも嫌な気分にならなかったのだ。
カオリさんはこういう場所に来るのは初めてで、向いていないと思っていたけれど凄く楽しかった。
品も自分も脱ぎ捨てられて、心から気楽だった。
だから見知らぬ美女に突然ほっぺにキスをされても、男に酔っ払った状態でキスをされても、「やめろ!」と叩きながらも笑ってられた。
本当に楽しかったのだ。
冒険をしなくたって、あの場所にいなくたって…。
『なぁ、ブギーマン』
『はい?』
『私は好きな男がいたんだ。でもお前に抱かれたし、いろんな奴とキスをした。…私は、尻軽なのだろうか』
『別に人間との関わり方なんて人それぞれだろ。オレは昨日のことなんて酔っ払ってて覚えてねぇし。何したって良いんだよ』
『そんなものか?単純過ぎる気もするが…』
『なぁ、ここに良い酒があるとしたらどうする?』
『…?呑む』
『腹が減ったらどうする?』
『た、食べる?』
『目の前にモンスターがいて襲いかかってきた。どうする?』
『…倒す』
『目の前に最高に良い男がいる!どうする?』
『あ、う…抱く!』
『イナフだ。そんなもんなんだよ』
『…………』
『で?お前にとってオレは良い男か?』
『…そうだな』
『ベッドに寝っ転がってるぞ。どうする?』
『……。…抱く!』
『その調子だ』
宿屋にて。
カオリさんはバフ!とチャッキーの上に飛び込んで、そして。跨ったままパッと笑った。
『単純だな!』
『だろ?』
『面白い。私、これが良いな』
『気に入ったか?』
『ああ。凄く』
『じゃあダーリン。激しくしてくれ』
チャッキーはTシャツを脱ぎ、チッチッ、と舌を鳴らした。
カオリさんはアハアハ笑って、「ああ覚悟しろ」と覆い被さる。
2人は笑ってベッドに埋もれ、最中も時折笑っていた。
なんだか子供に戻ったみたいに楽しくて、この時間を愛しいと思った。
ずっと約束していた楽しい日を過ごせることに、喜ぶかつての親友同士みたいに抱きついた。
2人は友達になったし、互いが愛おしかった。
恋ではないけれど喜びがあって、カオリさんの横顔はエネルギーに満ちていた。
良い男とはつまり、女に自信と美しさを取り戻させるのだ。
甲斐性のない男は女をメンヘラにさせるのだが。
『私は知らないことが多いんだな』
『そうみたいだネ。これから遊んだら良いんじゃないですか』
『ああ。そうだな。遊ぶこともまた学びだ。研鑽していこうと思う』
『真面目でかわいっ』
『フン。そうだ。私は可愛いだろ』
カオリさんは自信に満ち溢れ、嬉しそうに笑った。
チャッキーは「いい女ぁ〜…!」と思ったが。悔しくもこれは作戦なのでそれ以上欲張らなかった。
残念、本当にいい女だ。
こんな面を引き出せないなんて、アイツには益々勿体無い。
『カオリさん。これからどうすんの』
『私か?そうだな、これからか…。…実は私のいるパーティなのだが、色々あってな。あまり上手くいっていないんだ。どうするべきか考えている』
『ふーん、そ』
『お前ならどうする?』
『さっき言ったこと忘れたのかよ』
『何がだ』
『パーティが嫌になった。どうする?』
『……あ。い、いや、無責任だ』
『責任なんて男が取るもんだ。そんなもん女のお前にねぇよ、自惚れんな』
『な、』
『で、どうする?』
カオリさんはムッ!と唇を小さくしてから、スミノフ片手に考え。考え抜いてから。
『やめる!』
スパッ!と言った。
チャッキーはこれにニコッ!と笑って、
『いいねぇ。辞めちまえ!』
と言ってキスをした。
というわけでカオリさんもパーティから抜けたのである。
全く、完璧なまでに進んでいったのだ。
アウストロ少年からの結果報告も上々。
意気込み通り、このままなら問題なくアリアお嬢様も陥落するだろう。
と、言うわけで。
3人の女はドロシュから剥がれた。
残るはドロシュとマリンちゃん。
計画はいよいよ大詰めである。
■
「………」
パーティはあれから、マリンちゃんとドロシュだけになってしまった。
何故だか分からないが、突然ラーラ様が「今日で辞めるわ。みんな元気でね」とスッキリした顔で告げて行ってしまい。
カオリさんも「やりたいことができたんだ。世話になった」と嬉しそうに言ってどこかに行ってしまい。
アリアちゃんなんて「カレシできた。ばいばい」と去って行ってしまったのだ。
ドロシュは流石に動揺した。
ついこの前まで好き好きと言ってくれた女たちが自分の手から離れていくのだ、当然である。
人生を捧げると言ってくれた女でさえ離れた。
裏切られた気分だったし、やさぐれるのは当然のことである。
理由はきっと、自分の前世の姿を見られたからだろう。
だからだ、きっと。
結局女はイケメンが好きなのだ。
昔のダサい姿を見て幻滅したのだろう。
口では「気にしない」と言っても、やっぱり!と。
…問題は顔ではないことに気がついていない。
これまで彼女たちにしてきた扱いがまずかったのに、それにも気付かなかった。
マリンちゃんはそんなドロシュのそばで、「私は離れません」と何度もずっと慰め続けていた。
けれど。
…ドロシュを独り占めできて嬉しいはずなのに。
抱きしめられて嬉しいはずなのに。
何故か心はあまり満たされなかった。
きっと彼は強いからすぐに立ち直るだろう。信じている。信じているけれど…。
そしたらきっとまた、パーティに綺麗な女の人が入ってきて、取り合いになるんだろうなとも思った。
今の幸せは束の間。
きっと長くは続かない。…と、彼女は彼を抱きしめながらソッと思った。
それからの生活は暗いものだった。
このままで良いのだろうかとも思う。
なんだか突然そばにいた人々に置いていかれると、当然焦るものだ。
ここに居て、彼の側にいられて幸せなのに。
何故か哀しくて、先行きが怖かった。
彼のことは好きだ。好きなのだけれど、うまく心の整理がつかない。
ずっとモヤモヤしていて、いつも通り彼の食事を作っている時も心が下を向いていた。
いつもなら「あーんですぅ、ドロシュ様ぁ♡」と食べさせてやるのだが、そんな気にもならなかった。
明るく振る舞ってはいるのだが。ドロシュも「…ああ、すまない」と頭を撫でてくれるが。
ドン底の人間と共にいるというのは、自覚がなくとも至極疲れるのだ。…
それにマリンちゃんはコモンくんに言われたセリフを忘れてはいない。
そのせいで充分ドロシュには労われていたと思ったけれど、そうではなかったらしいということもなんとなく自覚した。
恩を受けたのだからこの身を捧げて返し続けるのは当然だと思っていたけれど、なんだか違う気もするのだ。
自分は彼に依存しているだけなのかもしれない。
それに、全然良いんだけど、あの後別に彼からは何も言われなかったし。ごめんもなかった。
…良いんだけど。
別に…。
と、彼女はなんだかしっとりとした、鬱々とした生活を送っていた。
頼もしい仲間がゴソッといなくなったので、スグに冒険にも行けない。仲間がいなくなったこともかなり寂しかった。
だから停滞した日々である。
そんなにすぐに、あんなに強い仲間は集まらないだろうし。
これから少しずつ建て直すしかない。
建て直した先に、楽しい生活が待っているかは分からないけど。
「…ドロシュ様。お買い物に行ってきますぅ」
「ああ。分かった。助かるよ」
「…はい」
…ありがとうもなし?
と、マリンちゃんは咄嗟に思ってしまった。
助かってるなら「手伝うよ」とか、たまにはないのかな。あなたのご飯なのに。
いやいや、そんなこと思っちゃダメだ。
自分はドロシュ様のメイドなのだから。
と思い直し。
彼女はちょっと自分自身と仲が悪くなってしまって、ご機嫌斜めのまま買い出しに出かけた。
今日は何を作ろう。
ドロシュ様の好きなものを沢山並べようとは思うが、うまく頭が働かない。
なんだか最近ぼーっとしている。
疲れかな。生理だからかな。
と思いつつ、りんごを買って、屋台に行く。
帰って今日も彼のためにご飯を作り、少し話して一緒に眠る。
眠る時に抱き付くのはいつも自分から。
それが今はなんだか無性に哀しかったから、その日は初めて抱きつかないで眠った。
…ドロシュ様は私のことなんて好きじゃないのかもしれない。
好きだよと言ってくれたこともないし。
今優しくしてくれるのは、みんながいなくなったから寂しくてしてくれているのかもしれないし。
家事をするなら誰でも良い気がする。
私じゃなくたって、誰だって。…
と。彼女は市場と家の往復をしていた。
ため息はつかないように、涙は見せないようにする。
「………」
今日も朝早くに市場に行った。
空は晴れていて、優しい匂いがした。
外に出ると最近はどうしてかホッとするのだ。
彼女は「えっと、今日は何を作ろう」と考えながら歩き…みんなは今どうしてるんだろうと思う。
カオリ様、どこに行ったんだろう。
ラーラ様は元気かな。
アリア様の時はびっくりしたなぁ、と。
トボトボ歩く市場、活気あふれる屋台の通り。
「マリンちゃーん!!」
「っ、」
遠く。
こちらに手を振る人がいた。
驚いて目を凝らせば、向こうに背の高い男達がいる。
その中には日本人形みたいな髪をした知り合いが。
真ん中には金髪の、三つ編みの美男が。
「マリンちゃん。そんな男やめてウチ来なよ!」
「、え」
「こっちで楽しくやろうぜーッ」
コモンくんは人混みの中、ポケットに手を突っ込んで声を張り上げていた。
マリンちゃんはジ。とかたまり。
ビックリして。
しかし言われていることはわかって、動揺した。
アレはあの日の男達だ。
知っている。あれは確か、コモン様。
それにオドロアン様だ。
私のことを覚えてたんだ。
いや、それより。
ウチ来なよ。
ウチ来なよって、つまり、パーティに入れってこと?
それって本気?
たまたま見かけたから言ってるの?
それとも、…いやでも、入るわけがない。
ありえない。
傷付いたドロシュ様を置いていくなんて。
私も裏切るなんてできない。
だってドロシュ様が好きなのだ。
だって、好き……だと思うから。
「っい。いやですぅ」
マリンちゃんは一歩後ずさった。
「ドロシュ様は私がいないとダメなんですぅ。行けません!」
声を張り上げた。
それを言って逃げるつもりだった。のだが。
「女が居なきゃダメな男なんて捨てちまえバカ女ァッッ」
コモンくんが叫んだ。
シビビ、と体が震えるくらいの大声である。
流石もと地下格闘技場のリングアナウンサー、声量が違う。
「!」
マリンちゃんはビク!として。
周りをキョロキョロ見てから。
いきなり何を、と思ったのだが。
「ふっ、」
小さな息を吐いてしまった。
それは胸をトンと押されたような、発作的な吐息である。
泣く前の衝動的な息の乱れだった。
…まずい。泣く。
今優しくされたら、本当にまずい。だって最近本当に辛かったから。
どうしよう、まずい。逃げなきゃ。
今肯定されたら、本当に挫けてしまう。
名前を呼ばれただけで嬉しいのだ。
ドロシュはあまり名前を呼んでくれないから。
「マリンちゃん!ウチは逆ハーだぞッ。毎日ソイツの飯作るよりイケメンに飯作ってもらう女になれ!!」
しかし続けてチャッキーが怒鳴った。
それに対して「そうだっ」「よく言った」と国会みたいに糸クズ達が言う。
マリンちゃんはそれを聞いて、「あ」と思い。
「あ」ともう一度思って。
「…………」
自分の靴を見た。
そして、果物が入った紙袋を見た。
活気溢れる市場の人々を見るでもなく見て、自分は今頭が痛いことを自覚した。
自分が冷え性なことを思い出す。
今、体調が悪いことを思い出した。
なのに今日は冷たい麺類にしようと思っていたことも。
ビールも買って行こうと思ったことも思い出す。
私は今日、あったかいスープと鶏肉が食べたいのに。
お風呂にゆっくり浸かりたいのに。
「ぅ」
別に、本当は、何にもせずに寝たい。
お昼に起こしてほしい。
それで、ご飯を作ってほしい。
気ままにお散歩して眠るから、眠るまで側にいてほしい。
もう嫌だとは本当はどこかで思っていた。
大切にされたいと望んでいた。
そんな時に手を差し伸べられて、心が折れてしまった。
もうメイドなんて辞めたい。
たくさんの女の子の中の1人になりたくない。
……。
私も抱き付くから、そっちからも抱きついてほしい!
「う!」
「え?」
マリンちゃんはブワッと涙を盛り上げて。
そして、グッとしゃがんでから、
飛んだ。
否、飛んだのではなく、単なるジャンプである。
しかし糸クズ達には彼女が飛翔したように見えた。それくらい高い位置だった。
彼女はそのままダァン!と屋台の上に着地し、屋台の上を走って行く。
人混みがあまりにひどいので、人をかき分けて行くよりこちらの方が速いのだ。
だから目にも止まらぬスピードでちまこいパンプスでその上を走っていき。
「っうお、」
ピョン、と彼らの真横の屋台から飛び降りた。
コモンくんは咄嗟に両手を広げて姿勢を低くした。
しかし。そんな高いところから飛ばれては、絶対に受け止められない。
いくら蛇の獣人とはいえ、彼女がいかに軽いとはいえ。
人間の重さが真上から降ってきたら潰れてしまう。
と思い、ヤバい!と焦った。
焦ったのだが。
その瞬間。
ガシャン!という音が頭の上で聞こえた。
一体何か。
コモンくんの頭の上に、緑の透ける文字が浮かんだのだ。
Common ・Deathadder.
Level up. 750↑
と、後から聞けばそう浮かんでいたらしい。
ちょうどその瞬間、山奥に放置していた猛獣が衰弱し、仕掛けたトラップで死んだらしいのだ。
素晴らしいタイミングであった。
コモンくんの頭の上に、続けて獲得スキルが大量に並ぶ。
しかしそんなものを確認する暇もなく。
「ッオラァ"!」
彼は彼女を受け止めた。
飛び降りたマリンちゃんを抱き止めたのである。
一気にレベル750に上がった彼は、思うよりも簡単に彼女を受け止めることができた。
「う、」
さて、受け止められたマリンちゃんは。
目にいっぱい涙を溜めており、暫くキュ…とピンクのかわゆい唇に皺を寄せていたのだが。
やがて。
「う、うぇ」
「お」
「うぇえ"〜〜〜ッ」
「ワッ…」
ンビャ!と泣いてコモンくんに抱きついた。
泣き方は派手で、ブルーのツインテールは震えていた。
彼女は彼にセミみたいに抱きついて、そのままずっと泣いていたのである。
「おお泣け泣け。嬉しいから。オレだけ」
「マジで可哀想なんだが…😢頑張ったやん…」
「オレらが養うからな…」
「わあぁ"〜〜〜」
「声デカ」
マリンちゃんはコモンくんの胸板に顔を埋めて離れなかった。お蜜に「だいじぶよ」と撫でられれば、続いてお蜜に抱きついてほよほよ泣き、チャッキーに抱き上げられればキスを嫌がる猫ちゃんみたいに腕を突っ張って嫌がって泣き、シャオさんからおでこにキスをされればセーラー服になって甘え泣きをした。
こんな風に人前で途方もなく泣くのは久しぶりで、もう止まらなかったのである。
「もうやら。わらしもう帰りません〜ッ」
「そうだそうだ(国会」
「よく言った(国会」
糸クズ達はマリンちゃんを代わりばんこに抱き上げ、同意を得たのでお蜜のおうちに持って帰った。
そしてお布団にくるみ、あったかいスープを口に流し込んでやった。
トイレに行く時も手を繋いで連れて行ってやり、服もオドロアンの暖かいスウェットを着せてやった。
香水の香りがする大きなスウェットに溺れるようになって、マリンちゃんは与えられるままご飯をちゃむちゃむ食べ続け。
やがて。
「あ…寝ちゃった…」
ポテ…と眠った。
バンザイをして満足そうに。
「かわいい…」
「ガチ可愛いな…」
男達はまじまじそれを眺めながら布団をかけてやり、頭の下にクッションを差し込んでやる。
マリンちゃんはきっと良い夢を見ていて、優しい暖かさに包まれて眠っていた。
…つまり。
ドロシュから全ての女を奪い、マリンちゃんという最強のカードまで手に入れたのである。
「どしたん話聞こか作戦」はこの通り成功したのだ。
さて読者諸兄、忘れてはいけないことがひとつ。
今回この作戦に際し、一番のキラーカードが使われていない。そのカードとは当然、全ての人間を陥落させることができる男シャオさんである。
彼は今回何もしないのではない。
仕上げを任されたので沈黙していたのである。
全ての女がドロシュから去り、マリンちゃんも手に入れた今。
最後にまだ誘惑していない人間が1人。
それは当然ドロシュである。
シャオさんはドロシュを誘惑するため、最後までカードを切られなかったのだ。
では総仕上げ。
というよりトドメ。
次は糸クズたちの大本命、我らがシャオさんがドロシュを地獄に落とす番である。
オマケ
「コモンくん、モテるコツってなあに?」
「女の子をナメないこと」
つづく
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