異世界転生勧誘詐欺
良い人
第一章
第1話 これ労災おりますか?
「………」
それは異世界転生勧誘詐欺ビジネスというらしい。
近年、破竹の勢いで拡大し若人に流行した華々しい響き、「異世界転生」。
異世界に行けば素晴らしい能力に目覚め、美女に囲まれて頼られ、現世で成し得なかったような功績を必ず残すことができると言われているあの異世界転生である。
どんな不器量者も美男に生まれ変わり、社会で何も成せなかった不適合者と揶揄される者も確実に逆転できる機会に恵まれる…。
そんな現代人のための裸の楽園:異世界転生。
異世界人、つまり宇宙人達はそんな地球人を見てこう思う。これを悪用しない手はないと。
「お前も騙されて来たンだろ?」
首から下の全身にお経のタトゥーを掘った黒い狐のお兄さんが笑って言った。
彼は全てを教えてくれた。
「マァ聞けよ。ネズミ講、投資家詐欺、新興宗教勧誘ときて、最近のトレンドはロマンス異世界勧誘なんです。異世界転生なんて聞こえはいいが言い換えりゃ異世界人の拉致問題だ。ここ最近のアニメとか小説は全部異世界人が作った広告とプロパガンダなんですね。それも知らずに来ちまったんだろ、お前。ハハ…ハ、ハ。…ァハ…」
向かいの席に座った狐のお兄さんはバシ、バシ、と自分の後頭部を叩きながら古いラジオみたいにノイズ混じりのボソボソした声で笑った。
ここは異世界へ行くための蒸気機関車の中。
窓の外は真っ暗で、何も見えない。
「異世界で地球人は最下層の人種扱いだ。魔王を倒して貰うために地球人をスカウトするなんて変だろ?元々居る人間に能力を授ければいいじゃねえか。そっちのが話も早ぇし闘志も高い。なのに地球人に外注するってことは、いつ死んでもいいからだよ。つまり生贄なんです。驚きですね。異世界でバカンスなんでできません。お前は異世界勧誘詐欺にハマってしまったんです。どうせ美人な女神に喫茶店で口説かれたクチだろ?そんでイケメンに産まれ直させてもらって、異能を貰ってウキウキだろうが…向こうはサディスト県加虐市皆殺し2丁目14-3虐殺マート暴力大通り店だ。地球のヒューマンを痛ぶって遊ぶサーカス会場なのでした。残念至極、驚き桃の木気になる木。これからはワクワクしながら生きていこう。楽しみだね。オレだけ。お昼のチャッキー・ブギーマンでした」
狐のお兄さんはペコ、と頭を下げる。
この異世界行き蒸気機関車に乗っている青年達、或いは乙女たちは皆自分が今からハーレムヒーロー/溺愛されるプリンセスになると信じて疑っていない。
美男美女に生まれ変わらせて貰い、外見も変わった。
異能も女神から授かった。
ならばその先に待っているのはユートピアなはずだった。
ウダツの上がらない現世を捨てた先にある夢の世界。
そこに飛び込めるのだと。
自分をチャッキー・ブギーマンと名乗った黒い狐のお兄さんは微笑んで、「オレはね、こうして新人のヒューマンに現実を教えて怖がらせるのが好きなンです。人が未来を諦める姿って素敵ですよね。お茶請けにピッタリです。マァオレハブ酒しか呑まねぇけど…」と、優しく青年の肩にポン、と手を置いた。
黒く尖った爪。
黒いゴツゴツとした指輪がいくつもはめられた巨大な手が、肩に置かれた。
それはきっと絶望の象徴である。
狐のお兄さんは、蓮華升麻の香りがした。
しかし異世界勧誘詐欺に引っかかったと今知らされた転生者、コモンくんは落胆するでもなく真剣に…。
「アごめ、オレ知っ…てて来てるぜ?」
と、困った感じで首を振ったのであった。
「え…!?」
狐のお兄さんは思わぬ返答に、ピン!と大きな黒い狐耳を立てた。コモンくんは尚も困った顔で首を傾げ、
「あと別にオレ顔もこのままだし」
「マジで…!?」
「え、ウン」
「…ふ。普通はウダツの上がらんオタクくんが派遣されるはずなんですが。…お前、どうやって女神に口説かれたんだよ。通例通りちゃんとトラックで轢かれたか?」
「?いや口説かれたっつーかオレが口説いた。歌舞伎のラブホで。あのアレね、バリ×ンね」
「歌舞伎のバ×アンで…!?」
「なんか女神と…あの、お蜜ちゃんって子なんだけど。クラブで会ったんよ。ほらあの、WA×P分かる?あそこ」
「W×RPで女神と!?」
「え、うん。可愛かったから声かけて…そんで普通にホテル行くじゃん。そしたら女神ってカミングアウトされたんだよね。なんかヤバい宗教臭はしたけどマジで可愛かったからさ。普通に付き合いたくて話に乗ってたらこうなったみたいな」
「転生美人局じゃねえか…」
そうなのである。
この男は騙されてここに居るわけではなく、女神から全ての詳細を聞いていた。
だって彼女は全てを話したし、全てを聞き出したから。
「いや、やべーなとは思ってるけどさ。でもヤバいなら普通に助けたいじゃん。仲良くなったし。だからメンツ集めて来た。あれオレの後輩とか友達」
「異世界転生に友達連れて来たんか…!?」
「え?誘うでしょ。こんな面白そうなこと取り敢えず話さん?断られたら別にそれでいいし」
「マァ確かに。いやァ、友達がいないヤツばっか相手にしていたもんで…」
狐のお兄さんは困った顔で隣のボックス席を見た。
蒸気機関車の中は2人掛けの椅子が向かい合っている4人用のボックス席が並んでいるのだ。
コモンくんと狐のお兄さんは椅子に1人で座って2人で向かい合っているが、隣のボックス席には派手な男達がゴチャッとギチギチになって座っていた。
「アイツオドロアンっつーんだけど、シーシャ屋の店員」
オドロアンと言われた男は黒髪の長髪で、パッツンの前髪をした中性的な美男であった。
日本人形みたいな髪型をしているが、頭頂部だけ銀色に染めている。
全部の指に入れた花札みたいなタトゥー、下唇についたピアス、黒いバンドTシャツと赤いカーゴパンツを履いていて、重そうな黒いブーツを履いていた。
一目見て愛想のないダウナー系の男だと分かる。
客が相手でも絶対に敬語を使わない、誇張し過ぎた歌舞伎町のシーシャ屋の店員を地でいく男だった。
テクノ系のクラブに入り浸っていそうな男である。
「シーシャ屋の店員って異世界転生することあるんですか…!?」
「え、異世界転生って職業適性あんの?」
「いやぁ、人種がかけ離れてるもんで」
狐のお兄さんは困ったなぁという顔で頭を掻いた。
オドロアンは電子煙草片手にかわゆいステッカーだらけの携帯を弄っていて、イヤフォンを付けているのでコチラの会話には気付いていない。
「アイツ友達のホスト。初日に一撃一千万稼いだんだぜ、ヤバくねぇ?」
指をさされた先に座っているのはどこぞのK-popアイドルの練習生かと思われる程の美男であった。
コモンくんは煙草に火をつけて少し笑う。
狐のお兄さんはそのライターで火を付ける音にも気付かず、夢中でホストのお兄さんを見ていた。
彼は黒髪でカルマヘア、奥二重の切長の目に少し前髪がかかっていて、高い鼻の先が薄化粧によりツヤツヤしていた。
素晴らしい体格に乙女殺しの甘い美貌は媚薬のようで、事実この男は怒るということがほとんど無く、柳のようにたおやかなのであった。
いつも桃の紅茶のとろりとした香りのする、薄く微笑んでいるお兄さん。
因みに彼は限界まで洗い物を溜める癖がある。
狐のお兄さんは見ているだけでドキドキしてしまって、「おお…」と感心した声を出す。
「こんにちはぁ」
こちらに気付いたホストのお兄さんは、ふわふわ微笑んで挨拶をしてくれた。狐のお兄さんは撃ち抜かれるようなときめきに思わず乙女みたく内股になって、「こ、コンチワ」と頬を染めて挨拶を返す。
そして露骨にドギマギして女学生みたいになってしまった自分が恥ずかしくて目を逸らしたが、向かい側のコモンくんも女学生みたいに髪をいじりながら「ん…」と恥ずかしそうに挨拶を返していたので特に問題がなかった。
そんな風に男すらとろかす悪魔的なまでの美丈夫が座っているものだから、狐のお兄さんはいよいよこの集団の異質さを再認識したのである。
「…あー、待った。歌舞伎のホストとシーシャ屋と来て、お前は何やってんの?」
「オレ?オレ地下格(地下格闘技場)のリングアナ。クラブでたまにバーカンとかやるけど」
「アイツは?」
「あの人は歌舞伎のスカウトマン。幹部だから偉い」
「スカウトマンって水商売の?」
「そそ。でもギラ兄さん…アイツ名前ギラっつーんだけど。ギラ兄さんは街中で女の子に声かけるっつーよりSNSで集客してっから普通のとはちょい違うかも」
「…アイツ?」
ギラと呼ばれた男は白髪のマッシュルームをしていて、前髪でほとんど目が隠れている。尖った鼻にはセプタムが付けられていて、首に入ったタトゥーは、たくさんの指輪がついた華奢な女の手が首を絞めるように彫られたデザインだった。喉仏のあたりで親指がクロスしている。
分厚い舌にはニコちゃんマークのタトゥーが入っているそうだ。たまに見せてくれるそれがコモンくんのお気に入りだった。
ギラお兄さんは女神から異能を授かったらしく、白い猫耳と長い尾を生やしていた。
染め過ぎて傷んだ髪から巨大な猫耳が生えているのを見て、狐のお兄さんは「スカウトマンね…ハーフか?」と気もそぞろに口の中で呟く。
「そぉ。ハーフ」
「面白くなって来たな…。最後は?」
「アイツ?ダイダラって名前。アイツめっちゃオタクだし引きこもりだぜ。この中で一番〝っぽい〟んじゃねーの。異世界転生めっちゃ詳しかったし」
「!やっとそれらしいのが来たな。仕事は?もちろんニートだろうな?頼むぜオイ」
「ごめんなんか普通にシューティングバーとSMバーのボーイやってるわ。なんか、アングラ?の人」
「オレの期待を返してくれ」
「マジごめん。え、でもオタクっぽい仕事って逆に何?ヴィレヴァンの店員?」
「おお、ガチのオタクはンなところで働けねえよ。オレが言ってるオタクはコミュニケーション取れねえヤツの話です」
「え?コミュニケーション取れないの?なんで?」
「わからん」
「…ふーん。待って、試すわ」
コモンくんは煙草の煙をフッと吐いて立ち上がり、後ろの席に座っていた男に突然話しかけた。
通路に立って背もたれに肘を引っ掛け、猫背になって「オニーサン」とシンプルな声で話しかける。
それは特に感情のない、数字のような声だった。
「…ぇ、」
「隣座っていい?」
「えっ」
コモンくんは隣に勝手に座りながらそう言った。断られる可能性を考えていないのである。話しかけられた少年は当然戸惑って、何度も「え?」と言ってから。
「あ、ッす、え、…」
特に意味のない音を口から出し、目線をうろうろさせた。
コモンくんは相手の方に体を向けて座り、ニコリともせずに「なろうくんさぁ」と突然嫌な切り出し方で話しかけるのであった。
「ぇ、あ」
「なんて言って異世界連れて来られたの?」
「っえ。あ、俺…スか」
「ウン」
「あ、や。え?あ、め、女神?に、アレ。魔王を倒して欲しいって、言われ…?て?」
「えそれで了承したん?」
「あ、え。ハイ…というか。ハイそうです」
「…え。なろうくんさ。元カノ何人?」
「えっ?元カ、いやいませんが何ですか急に」
「いないんだ。なんで?」
「なん、」
「作ろうとしたことある?」
「あ、いや、機会なくて」
「じゃそもそも女の子好き?クラスの子とか好きになったりしねーの?」
「え、はい。え?普通に…」
「そっかー。じゃ連絡先交換した?」
「いや交換してない…ですけど。グループとかで、あの、分かるし」
「デート誘った?」
「いやしませんけど、え?なんですか?」
「マジ?なんで誘わなかったの」
「え、いや、え、め、迷惑、っていうか、いやあの」
「え?じゃあ…なろうくんは好きな女の子をデートに誘う勇気もないのになんで魔王倒せると思ったん?」
「え」
「なんでいけると思ったん?メンタル矯正的な?」
「え。いや、っす、あ?え?」
「てか思ったんだけどさ。目ぇ見て喋れよ」
「え?え、」
「や、なんでもない。じゃね」
なろうくんは俯いてしまった。
歯の隙間からスーッと息を吸う音だけを口から出すだけで、他にはなんの動きも見せない。
だって突然隣に金髪の長い三つ編みを垂らしたベルサイユの美男が座ったのにも驚いたし、服装も香水の匂いもよく知っている…クラスの中心にいた男たちと似通っていたからだ。
コモンくんは金色の前髪を首の動きだけでサイドに寄せ、もとの席にドカッ!と座り。
「なろうくん全然喋ってくんなかったんだけど。傷付くわー」
「今のを一般的にイジメって言うんだよ。オレの好きなやつな」
「え?普通に喋っただけじゃん」
「優しくしないと良くないかも。ちょっとずつ治していこうネ。マァオレは治しませんが。趣味なので。どうしてこんな人間が生まれちゃったんだろうね」
「気ィつけるわ」
「イナフだ。マァしかし…何でお前らみたいなのが派遣されたのかが益々わかんねぇな」
「オレら?派遣された理由?」
「オウ。今のヤツからも聞いたろ?なんて言って連れて来られたの、お前は」
「あー、これどこまで喋っていいんかな」
「そりゃ、どこまでも…」
狐のお兄さんは首を傾け、血の付いたオイルライターで煙草に火をつけて笑った。それは「世界恐慌」という名の銘柄の煙草で、赤くて猛烈に辛い煙草だった。
「このSLは異世界行きだぜ?丸一日は降りらんねえよ。その間話してくれ」
狐のお兄さんはハンサムだった。ボサボサのウルフカットの黒髪のせいで目元が少しずつ隠れているが、キツイ吊り目が格好良くて、短くて密集したまつ毛が目を縁取って印象的である。
「歌舞伎のラブホで女神と何があった?最初から話せよ」
コモンくんは片眉をキュッと上げて、鞄からジンの瓶を出して煽ってから「いいぜー」と低い声を出す。
そして語り出した。
「オレ、異世界勧誘ビジネスする側で声かけられたんだよ。詐欺じゃねぇ方な」
と。
そう切り出したのである。
■
【彼に何があったのか】
「、……」
女神は基本的に顔採用らしい。
異世界勧誘を行わなければならないのだ、当然である。
それも地球人に一番好かれる顔立ちでなければいけないので審査は厳正に行われるそうだ。
よってその姿は、正しく〝女神〟。
夏、深夜。
新宿のクラブに女神は困った顔で立っていた。
オレンジジュースを両手で持ってキョロキョロしながら眉を下げていたのだ。
コモンくんは遠くからそれを見つけた。
その時の彼の心臓の音と、彼女に駆け寄るスピードは何よりも速かった。
なんせ一目見ただけで、人生をたやすく変えられてしまうほど美しい女であったからだ。
よく美女は「絵画から抜け出して来たかのような」と表現されるがその通り、彼女は絵の中への帰り道がわからなくて途方に暮れているように見えた。
それ程孤独に見えたし、白い鶴のように気高くも見えた。
古風な美貌は雅やかであり、触れば体温で溶けてしまうのではと思うくらいに肌は雪のような白さを持ってツヤツヤ光っていた。
皮下脂肪がほとんどない体、白いキャミソールワンピース。長い黒髪は黒方の香りを吸い込んで冷たく艶めく植物のようであった。
そんなほっそりとした寒椿の乙女がクラブ、通称チャラ箱でほろりと眉を下げて困っているものだから。
当然コモンくんは音の速度を超えて駆け寄り、彼女の目の前に立てばゆっくりと優しく歩いて行った。
そうして圧迫感を感じさせないように斜め前に立ち、
「乾杯」
「お、…」
コモンくんは右手に持っていたテキーラコークを彼女のオレンジジュースに優しくぶつけて、ニコ!ととびきりかわゆく笑った。
女神はキョトン…としてコモンくんを見て、戸惑っているように見えた。
そんな黒薔薇の重たそうな長いまつ毛に縁取られた瞳があんまりかわゆくて、思わずキュンとするのだ。
「急に話しかけてごめんね。ビックリした?」
「あ。いいえ…」
爆音のサウンドに負けないよう、彼はなるべく優しい音を保ちながら彼女の耳元で声を張った。
鼻先に冷たい黒髪が触れて、ちょっとドキドキする。
コモンくんは「こういうとこ慣れて無さそうだな」と理解していて、警戒心も強そうな子だとスグに察した。
だからヘニャ、と眉を下げてにこにこ微笑み、「今日は1人で来たの?」とまったり言う。
「は。はい」
「良かったぁ。オレ今さ、先輩にめちゃくちゃ呑まされちゃって死にそーだったんだよね。連れがいるって嘘ついて逃げて来たんだ。迷惑じゃなかったらオレもちょっとここに居ていい?」
無論嘘である。
が、彼女は男を漁りに来たようにも見えないし、間違ってここに来てしまったように見える。だから警戒心を解いてもらうためナンパだとバレないよう努めた。
こういうのは、最初が肝心だから。
「………、」
けれどコチラが好意的だというのも知って欲しいので、コモンくんはジッと彼女を見つめ…初めて彼女の存在に気付いたような顔をして見せた。
女神は彼の顔を見上げ、不自然な沈黙を奇妙に思う。
「…オレ目ぇ悪くて全然分かってなかったんだけど。すげー可愛いね。めっちゃ声かけられたでしょ」
「え」
「急にオレ来てナンパだと思った?怖かったよな。ごめん」
「いいえ、そんな」
「ほんと?やじゃない?」
「はい」
「アブネー、良かった」
チャラ箱で声を掛けられてナンパでないわけがないのだが、彼女はどこかホッとしたようであった。
というより、彼女もまた彼の美男子具合に少しドギマギしているようで、時折コチラを見上げて目を下向きに逸らして見せる。
彼は彼女の隣、壁に寄りかかるように立ち、少し黙ってから。
「なんか困ってそうだったけど。大丈夫?酔った?」
「いいえ。その、出口がわからなくて困ってたんです。迷っちゃって」
「あ、出たかったの?」
「はい。人酔いしてしまって…」
「言ってよ。出口案内するぜー」
好都合、出たかったらしい。
コモンくんはニコニコニョロニョロ蛇みたいに微笑んで、彼女に手を差し伸べた。中は人でごった返していて、手をガッチリ繋いでいないと確実に逸れてしまうのだ。
彼女はおずおず手を差し出した。捨てられたばかりの野良犬みたいにずっと困っていて、どうしていいかわからない感じだった。
痛め付けられるのを待っているみたいな白い手をコモンくんは優しく握って、「コッチ」と務めて明るく言った。
今から凄く楽しい場所に行くみたいに笑っておけば、彼女はネオンライトの中で少し安堵したように見える。
2人は出口に辿り着き、外に出た。
「大丈夫?慣れてないと大変だよな」
「ありがとうございます。もう出られないかと思って、」
「声かけて良かったー。マジで困ってたんだね」
「初めてだったので…大変なことでした」
「だよね。ちょっと待ってて」
コモンくんは近くの自販機へ行き、水を買って彼女に手渡した。
「はい。落ち着くかも」
「!ありがとうございます…」
「ううん。オレも助かった。1人で抜け出すわけにいかねーもん。ほんとは出たかったとこだったんだ」
彼女が水を飲む。コモンくんはそのペットボトルを横から受け取って自分も飲み、彼女にまた渡した。
「具合悪い?」
「少し…大きい音でビックリして」
「ありゃ、しんどいかぁ。ちょっと座ろうぜ」
女神は本当に具合が悪そうだった。
ぼんやりした顔をしていて、強い風が吹けば座り込んでしまいそうだ。
だから2人は近くの邪魔にならないところに並んで座って、少しだけ黙って風に吹かれたのである。
女神は時折横目で彼を見て、小さな沈黙を少しずつ作りながら僅かな緊張を感じていた。
なんせ彼がハッとするほど美男であり、サイドに寄せた前髪から覗く鋭い瞳が格好良かったから。
パッと見は普通のショートカットに見えるけれど、背中には長くて細い三つ編みが肩甲骨の下あたりまで垂れている。
その三つ編みに触ってみたいと思うような人だった。
大体出会いはこのような経緯である。
語るまでもない、単に男女がクラブを抜け出しただけだ。
そして体調を気遣った彼が彼女をバリ風のホテルまで連れて行き、作務衣に着替えさせて寝かしつけた。
そこでセックスはしなかった。
うとうとしている彼女を襲って台無しにしたくなかったし、チャンスはいくらでもある。
だから仰向けになってぼんやりとまばたきを続ける彼女の隣に寝転がり、お腹をトントン優しく叩き続けた。
にこにこめろめろ微笑んで、眠くなるような声で話した。
「寒くない?」
「さむくない…」
「うん、あったかいね」
「うん…」
「…ね、お名前なんて言うの?」
「なまえ」
「ウン」
「…京蜜(きょうみつ)ってね、いうの。みんなね、お蜜(おみつ)って呼ぶ…」
「お蜜ちゃんっていうの」
「うん」
「オレね、コモン。コモンくんっていっぱい呼んで。名前呼ばれるの好きなんだ」
「コモンくん…」
「嬉しい。ありがとう。おやすみお蜜ちゃん」
「おやすみなさい…コモンくん。ありがとう…」
オレンジの光の中、うとうとした女神の目は煌めいていた。そうして彼女はちいちゃくバンザイして眠り、コモンくんから温もりを感じて安堵の寝息を立てたのであった。
彼も少し眠り、彼女より早く起きて手を繋いでウトウトしていた。
その朝のこと。
ソファに横並びで座っていた時。
「私ね、ほんとはね。異世界でね、女神様をしてるの」
「…………そうなんだ〜!!」
安堵し切った女神・お蜜ちゃんはついにカミングアウトした。
カミングアウトというか。
世間一般で言うとこれを不思議ちゃんと呼ぶのだが。
コモンくんはここで引いてはいけないと思って一拍我慢し、とりあえず肯定することにしたのである。
「ど。通りで可愛いと思った〜!」
と。
背中にドバッ!と汗を掻きながら。
なんせコモンくん、不思議ちゃんへの合わせ方を知らない。よってどうすれば傷付けないで済むのかを知らんのだ。
こんなに美しいというのに男慣れしていないものだから不思議だとは思っていた。余程の田舎者かと思ったけれど、原因がわかった。電波系、もしくは不思議ちゃん、あるいは新興宗教にハマっているのかも。
そう思って彼は少し黙って出方を見た。
すると彼女はホテルに備え付けられているカフェオレをふうふう冷ましながら、洗いざらい話し始めたのである。
「いいんです。信じてくださらなくて。でも誰かに話さなくちゃ辛くて」
「?別に信じるぜ?嘘だったとしても、オレが傷つく嘘じゃないし」
「…そうですか?」
「ウン。信じた方がお得じゃん。だから話してみて。意外と面白い方向に行くかもよ」
コモンくんはニコニコして、とにかく否定的な態度は一切取らないで見せた。そして異世界についてアニメや漫画でどのくらい理解しているか確認を取られ、それから。
「いくらチートでも、頭が良くないと権力に握り潰されるから意味ないの…」
「おおお……」
シビアな切り出しだった。
彼女は哀しそうな目をしてため息を吐いて、目を伏せる。
「魔法も最初は一生懸命勉強しようとするけど、あれって結局資格の勉強と一緒だし、当然努力が必要なんです。けれど転生者の方は努力とは無縁で…」
「だろうね」
「魔法は体を使うものです。身体能力を伸ばすのと一緒で、筋トレと同じだったりするの。だから運動神経と努力が必要な科目で…。でも転生者の方はそれが嫌みたいでね、最初は頑張るけど途中から諦めちゃうの」
「そりゃそうだよ。日本ってすげー恵まれてる国なのに、そこで脱落したやつは異世界でなんてもっと頑張れねーよ」
「う、うん。そうなの。私何度もそれは言ったんだけど、」
「聞き入れてもらえなかった?」
「うん…決まりだからって跳ねられてしまうんです。他の世界はそれで成功してるんだからって」
「フォーマットができてそのまま思考停止しちゃってるんだね。出世するか新しい成功例作るしかないけど、その為には許可が必要だからなぁ…堂々巡りだね」
「うん。うん、そうなの」
お蜜ちゃんは頬を赤くして、嬉しそうに何度も頷いた。コモンくんは「どこも一緒なんだな」という顔をして、「うわぁ、大変だぁそれ」と自分ごとのように眉を下げる。
「私ね、女神になった時すごく嬉しかったの。新しい世界を任された時頑張ろうって思ったし、楽しかったの。でもね、どんなに転生者をスカウトしてきても上手くいかなくて、私の管轄はどんどん悪くなってきちゃって、周りの女神は成功してるのに、私だけ…」
「周りは上手くいったんだ?」
「うん、なんか、上手くいったみたい。一生懸命育てればいいのよって言われて…か、体とかも使うのよ。時には。でも、…。…私、もう、転生者からのセクハラに耐えられなくて、人事に相談しても仕方ないって言われて」
「性欲だけは一丁前だからなぁ」
「そうなの。もうね、もうや!」
「ありゃ」
お蜜ちゃんはムキャ!と怒って顔を覆った。
初めて人に話せたのが嬉しかったらしい。コモンくんはそれを見てスグに立ち上がり、ベッドから布団を持ってきてお蜜ちゃんをそれでくるんだ。そしてその上から抱きしめ、「頑張ったのにそれはマジで悔しいわ」と目を閉じて言った。
とりあえず調子を合わせているのである。
「私がお節介して強い力を与えても、もっと怠けるだけだった」
「だよなぁ。分不相応な力持たせちゃいけねぇよな。力を持つと持っただけ色んなトラブルに巻き込まれるだろうし、その解決能力もねえのに」
「そうなの。力の強さより、精神的に強い人の方が結局有利で…」
「ウン」
「異世界に確かにモンスターはいます。けれどモンスターより怖いのはモンスターから感染する伝染病なの」
「伝染病?」
「…うん。モンスターに噛まれるとね、病気になっちゃうの。ネズミに噛まれたら鼠咬病になっちゃうでしょ?それと同じで病原体が体に入っちゃって、凄く危ないの。モンスターってばっちぃから」
「あ確かに。動物に噛まれて放置したら感染症になるよな」
「うん、寄生虫が入っちゃう可能性もあるし…モンスターの死骸は動物も食べない代わりに特殊な虫が湧いちゃうの。それが大量発生して井戸水もダメになるから…みんな凄く苦しんでる」
「…え、リアル」
「それでみんな辛くて、変な新興宗教とかが流行っちゃって…なんとかしなきゃいけないのに、魔族…あ、んとね、魔族がこっちの世界でいう貴族みたいな立場なんです。その魔族が絶対的に偉いから…魔族が肥えて民が飢えてる。食べ物の値段が上がって、武器と子供がどんどん売られて…」
「うわうわうわ」
「魔族…というか、魔王はね。その国の国王陛下で、勇者を名乗ってるの。それで、陛下の悪口を言う人は魔王の子って言われてて、秘密警察に連れてかれちゃうの。私の管轄の国はもう処刑くらいしか娯楽がなくてね、国民は魔族のおもちゃになっちゃった。そうなる前に食い止めようとして、色んな転生者を呼んだんだけど、みんな結局もうダメになっちゃって…か、体も使ったけどダメだったの。転生者は引き篭っちゃって家に返せとしか言わなくなっちゃって…。せめて家に帰してあげたかったんだけど…もう死んだ人だから…。…私、何の役にも立てなくて…。他の女神の管轄は平和な世界なのに…」
「…あのさ。なんで他の女神の管轄の世界は平和なの?そもそも他にも世界があるの?」
「…あ。うん、他にもね、あるんです。正確な数は神様から教えられてないんだけど…。何で平和かって言うと、大量に異世界転生者を地球から騙して輸入してきて、労働力にしてるからなんです。強い異能を持った頑丈な地球人は優れた労働力になるから、家畜と同じ扱いをして国力を上げてるの。だから国家が豊かなの。奴隷に支えられてるんです。これをね、異世界勧誘詐欺って呼ぶんだけど、私コレだけはしたくなくて…でもしなかったせいで、国は崩壊しちゃって…」
「異世界勧誘詐欺…」
「大量に輸入してるから、その中でも〝当たり〟の転生者もいて…それが勇者になるんです。勇者が出せればその国はもう安泰で、女神はもうやることがないの。私はまだできてないし最下層になっちゃったから、再建もできるかどうかわからなくて…グズのお蜜って呼ばれて…。も、もう、それで、引きこもりの男の子を転生させるのやめようって思って、全然真逆の男の子を転生させようと思ったの。それでクラブに行ったんだけど、上手く勧誘できなかったんです。そもそも勇者候補に元々いじめられた経験がある男の子以外は不可っていう規則もあるし、上手くいくはずないのかも…」
「それでクラブにいたんだ」
「うん、」
「成程…」
コモンくんはなんだか思っていた話とは全く違ったもので、流石に少し黙ってしまった。
だってもっとなんか…異世界転生ってこんなにシビアな話じゃないはずだから。
ひょんなことから転生して、ユートピアで剣を振り回すだけだと思っていたのに。
布団に包まれてモコモコになったお蜜はよわよわと膝を抱え、「もう、フェスまで時間がないのに、」と涙の溜まった目でまばたきをする。
「フェス?」
「うん。フェスっていうね、転生した勇者同士を戦わせるお祭りがあるの。最下位の勇者を、格上の勇者と戦わせるんです。つまり私の勇者と、上位の女神が所有している勇者が戦うということになります」
「でもお蜜ちゃんって勇者持ってないよね?」
「うん…だから今から探さなきゃいけないの。でも…見つけたとしても新任の勇者とベテランの勇者では格が違うし、育成も間に合うわけがないし…勝てるわけもありません。いわゆる見せしめですね。それが上位女神の娯楽ですから…」
「ポケ×ンみたいなもんか…。ブリーダー同士の戦いなのね。それ負けたらどうなんの?」
「負けたら神様に女神の権利を剥奪され、火炙りにされます」
「火炙り…。え、ごめん待って。神様っていうのが一番偉い人?」
「うん」
「じゃあ神様が一番上で、その下が女神?」
「うん、そうなの。ごめんね、説明します…」
もこもこのお蜜は涙を拭いて説明を始めた。
彼女が言うにはこうである。
まず、異世界は無数にある。その無数の世界を束ねているのが「神様」らしい。
神様は無数にあるその世界一つ一つに女神を1人ずつ派遣し、世界の統治を任せるそうだ。
女神は地球から勇者になり得る人材を引き抜き、育成し、勇者に世界を救わせる。つまり勇者のマネージャーとして働くのだ。
勇者が結果を出せば出すほど、女神はマネジメント力を評価され、上位の女神へと出世していく。逆に勇者が結果を出さなければ下位へ下っていくのだ。
そして最下位になると罰として、上位女神の受け持っている勇者が自分の勇者を殺しに来るのである。
そういう物騒な見せしめをフェスと呼び、女神や神様はお祭りとして楽しんでいるそうだ。
フェスに負けると女神という職を奪われ、世界を崩壊させた魔女として火炙りにされるらしい。
お蜜はそれを避けるために今スグにでも最強の勇者を見つけて育成しなければならない。
だが現状、才能ある勇者の卵を見つけられていない。見つけたとして、育成の時間が足りるかどうか…。というところらしい。
「もうね。どうしたらいいかわかんない」
お蜜は塞ぎ込んでしまった。
他の〝勇者持ち〟の女神に相談しても鼻で笑われるだけで、意地悪なことを言われて終わるだけ。
未だに勇者も待っていない女神など相手にもされず、グズのお蜜と指をさされているのだ。
他の女神達は最早自分の世界に関与すらしていない。もう既に平和にし終えたので、これ以上やることがないのだ。
時折勇者へ気まぐれに異能を授けるだけ。
あとはスローライフを楽しんでいた。
「勇者持ちじゃないの、私だけなの。こんなにたくさん世界があって、私だけ…誰も助けられてないの」
「そっかー。じゃあさ」
「う、うん」
「勇者持ちは無理かもだけど取り敢えずカレシ持ちになろうぜ。オレ立候補するー」
「へ」
コモンくんは今までの深刻な話を全く聞いていなかったみたいにペロッとそう言って、布団からはみ出た彼女の小指と薬指をまとめてやわく握りしめた。
「カレシになれるんなら助けるぜ。メンツも集めるし、協力する。聞くけど、他の女神の管轄の世界に住んでる住人ってスカウトしたりできんの?お蜜ちゃんの世界に引っ張り込んだりできたりする?」
「ぁ、え。で、できます。やっちゃダメだけど…」
「平和な世界っつったって拉致くらいあるよな?犯罪ってなくならないもん」
「は。はい。行方不明者の数は地球と変わらないと思います…」
「ウン、そっか。じゃきっとできるよ。勇者がいなくても何とかなるよ」
「え、」
「オレも異世界勧誘手伝うぜ。だからカレシにして」
コモンくんは病人みたいに静かに息だけで笑って、コメカミを彼女のちまこい肩にソッと乗せた。
そして目を閉じ、「どうしたらいいか分かんないならオレが何とかするからさー」と適当な発音で言う。
お蜜ちゃんはしばらくキョトン…!として彼の顔をパチクリ目だけで見てから。
「コモンくん、私のお話聞いてなかったでしょう。凄く深刻なのよ」
「聞いてたぜ。仕事で悩んでるって話でしょ?」
「ほら聞いてない」
「聞いてるって。オレが解決できるように頑張る。他所の異世界から強そうなの拉致しまくって軍作って革命すればいいんだろ?他から勇者になれそうなやつも拉致って来ようぜ。なけりゃ持って来ればいいんだし」
「い、いけません。違反行為です」
「地球人奴隷にしてるより良くね?なにも強制労働させるわけじゃないじゃん」
コモンくんは床に落ちていたクッションを拾って彼女の膝の上に乗せ、その上にゴロッと頭を乗せて寝転がった。そして簡単そうに「できるできる」と優しい声で言う。
「他所の世界でなんか、モンスター?とか価値の高いものいっぱい密猟して盗んで別の世界に横流ししたりしてお金儲けしようぜ。代わりにお蜜ちゃんの世界にいるヤバそうな虫とかモンスター…なんかブラックバスとか鼠みたいに繁殖力すげー高いやつ持ち込んだりしてさ、生態系破壊しちゃえばいいよ。そんなに沢山世界があるんだったらバレないって」
「コモンくん、今適当に喋ってるでしょう」
「バレた?え、でも面白くね?これ」
「聞いている分には…」
「だよな。でもこれ手間かかるし…どうにか手っ取り早くもっとガッツリ稼げねぇかな」
「稼ぐ方法…」
「ウン。なんにしても最初はお金だろ?国を良くするんだったらいくら金あっても足りねぇし…。うわ、世界史勉強しときゃ良かった」
彼は手を伸ばして彼女の顎の下を人差し指と中指でコショコショ引っ掻き、ウーン、と目を閉じて考える。
話に関しては流石に半信半疑だが、彼女は本気で困っているように見えた。だから全て彼女の妄想だとしても、その妄想の中の彼女を助けてやろうと思ったのだ。
それで感謝されてキスでもして貰えれば嬉しいから。
この会話も面白かったし。
なので妄想パズルで一緒に遊ぶような気持ちになって、だらだらルームサービスを見ながら2人で考え。
「あ。待った。お蜜ちゃんの世界…っていうか、異世界全体でさ。薬物ってあるの?」
「薬物。薬なら勿論ございます。高いけど…」
「種類は地球と同じ?」
「いいえ、全く違います。けれど怪我とか、病気を治すなら大体治癒魔法で何とかしてしまうので薬はそんなに使わないの。薬はあまりに高価だから、魔族のものですし…」
「あ、違う違う。治す薬じゃなくて、気持ち良くなる薬」
「気持ち良…。あっ。あ、えと。こ、子供を授かりやすくする薬のことですね」
「や、違うよ精力剤じゃない。麻薬だよ、脱法ドラッグ。覚醒剤って言えばわかる?」
「ま、まや…?かくせいざい…」
「ッえ?ないの?ほら、あの。キメるとめっちゃ気持ち良くなるヤツ。副作用エグいけど」
「そ、そんなものはありません。そもそもそれって薬なの?気持ち良くなるとは、具体的にどういう…」
「マジかよ。他の世界にもないの?それ」
「聞いたこともないです」
「他の転生者が持ち込んだりしなかった?」
「いえ、そのような話は聞きませんが…」
「…そっか。オタクはやらねーか…」
コモンくんはジッと考え、それから「え?」と目を大きくして彼女を見上げ。
「これいけんじゃねーの?向こうでガンガン製造すれば簡単に金作れるんじゃね?だって概念自体ないんだろ?」
「お…?」
「めちゃくちゃ作ってさ、他の世界にも輸出しまくれば良いじゃん。概念無いなら法律もないだろ?え?異世界で脱法ドラッグ作りゃもうチートどころじゃねぇぞ!」
「ぁ、う、すいません、よくお話が…わからなくて…えっと、」
「あ。そうだよね。ごめんね」
お蜜は彼が興奮している理由が全くわからなくてひたすら戸惑った。流石にその様子は不憫で、「オレだけ盛り上がっちゃった」と彼はキョ…トン…としているお蜜の頭をヨシヨシ撫でながら、しかし…しかしコレ、いけそうだなと心ここに在らずである。
「お蜜ちゃんの世界って荒れてるんだろ?宗教に縋るくらいみんな困ってるんだろ?じゃあ完璧だよ。みんな夢中になるよ。他の世界に流せれば勇者の弱体化に繋がるかもだし、一網打尽だ」
「…?」
「オレでもあんま詳しくないから…友達に造ってるヤツいるしソイツに聞くかな」
「…えっと、よく分かりませんが、良い薬が地球にはあるんですね?」
「そう。凄いヤツ」
「それを造ればお金になるし、世界も良くなるのねっ?」
お蜜はよく分からないながら、目をキラキラさせて言った。コモンくんは思わず目を逸らしそうになった。
流石にまずいことは分かる。
世界が良くなるどころか泥沼化するに決まっていることも知っていた。
しかし彼は彼女の妄想と一緒に遊んでいる気分で話しているので、「なるなる」と簡単に相槌を打ったのだ。
「詳しいヤツも周りに居るしさ。面白いかもよ」
「コモンくん凄いのね、本当に何とかなるかも」
「コモンくんカッコいいっつって」
「コモンくんカッコいい!」
「へへ。嬉し。オレお茶取ってくんね」
コモンくんは彼女のこめかみにチュッ!とキスをして起き上がり、新しいお茶を淹れて彼女の前に置いてまた寝転がった。
「ね。メンツ揃えるからさ。異世界勧誘オレもやるぜ。地球から引っ張ってくるっつーか、他の世界から引っ張って来りゃいいじゃん。そしたら魔法?も使えるヤツばっかだし、色んな技術持ってるわけじゃん」
「本当に手伝ってくれるの?」
「え、ウン。おもろそーだし。やるぜー」
「でもね、一回死ななきゃ異世界に行けないのよ。転移に肉体が耐えられないから」
「そうなの?ウーン、マァいいよ」
どうせ妄想だから、彼は特に何も考えずに彼女の膝の上で頷いた。窓から光が降り注いでいて、彼の髪は光の角度でホワイトに見える。
「コモンくんのお友達もよ。いいの?」
「いいぜ。歌舞伎のヤツらなんていつ人生終わっても良いと思ってるヤツばっかだし」
「そなの?」
「そだよん」
「なら、いいのかしら…。…あ、そうだ。その、薬?すごく良いんですよね。私確認で一回やってみたいです」
「絶対だめ。絶対やらないで」
「?どして…」
「依存性死ぬほど高いから。ダメだよ。わかった?」
「??わかた…」
「え、めっちゃ良い子じゃん。かわい」
「コモンくん」
「ん?」
「あのね。もしそんな風に手伝ってくれるとしたら、ヒューマンのままだと差別されちゃうの。だから獣人って言うのに生まれ変わらなきゃいけないんだけど、良い?」
「?ヒュ…人間だと不利ってこと?なにそれ、オレ猫耳とか生えんの?」
「ううん、自分で選べるのよ。でもきっとそうね…ちょっと待ってね」
「?ウン」
お蜜は少し悩んでから彼の目を見た。
見てから、目をギュッとつむり、また目を開ける。
その途端である。
「、」
キン、とお蜜の黒い瞳が金色に変わった。
一瞬お蜜の黒髪が風を受けたように膨らみ、内側から発光しているみたいな金色に変わったのである。
コモンくんはビクッとして、あんまり驚いて動けなかった。
一体何が起こったか分からなかったのだ。
しかし「えっ!?」と声を上げることも起き上がることもしなかった。直感的に動かない方がいいと…どうしてか思ったからだ。
だから両肘を背中の後ろに突き、少しだけ上体を起こしたまま固まった。お蜜はそのままジーッと彼を見て…。
またまばたきをしてから、黒い瞳に戻り。
「コモンくんは蛇になるのが1番体に合ってるわ。性質的に鬼かと思ったけれど毒蛇なのね。毒持ちが向いてるのは凄く珍しいことよ」
「え?ぇ、へび…。…え?今の何、」
「じゃあ、ちょっと儀式するね。痛くないからね。だいじぶ(大丈夫)よ」
「えなん、ぎし、えっ?え?マジ何?えごめんガチで何ッ?」
お蜜ちゃんは「だいじぶ、だいじぶ」と言ってコモンくんの胸板をほの白い手で撫で。
それから、たぶらかすような微笑みでスルリと彼の上にまたがり。
「痛くないからね。力抜いてね。いくよ」
「ぇ、な」
「毒蛇、コモン・デスアダー」
「へ?」
「お前の命一滴、骨一粒、皮ひとひら、血の汁全て、私の奉仕に使うことを許します。最期の息を吐き終わるまで私に尽くし、私が死ねと言うまで死ぬことを許しません」
「………、」
「お前の首はこの修羅家京蜜(しゅらや きょうみつ)が貰い受けました。お前の全ては私のもの」
「、あ」
お蜜は突然…感情の見えない甘い声でそう言って、真っ白なもちもちのおっぱいの間から金色の短剣を取り出した。
その短剣には蛇が巻き付いていて、お蜜の手には随分重そうに見えるのだ。
コモンくんはそれが振り下ろされる時、「あ」と家を出た瞬間忘れ物に気付いたみたいなあどけない声を出した。
体が固まって動けなかった。
「ッゴ」
ドッ!と短剣が胸に刺さる。
骨なんてないみたいに抵抗はなく、寒天に突き刺したみたいに簡単にそれは刺さった。
痛みはない。ただ胸の真ん中がゾッとするほど冷たくなって、短剣が刺さった衝撃だけを感じた。
「っあ、?め、」
彼女はそれを素早く引き抜くと、またもう一度短剣を刺す。コモン・デスアダーは思わず手を伸ばしたが、体がうまく動かなかった。
とにかく振り下ろされる瞬間、頭皮が氷の手で掴まれているみたいな恐怖に襲われ、穿たれれば背中がそるほどの衝撃に目の前が何度も白くなった。
「ゴボッ。ぅぶっ、カ」
金色の三つ編みがソファーから垂れ落ち、血も飛び散った。そんな血が飛び散る瞬間なんて見たことがないから、もう助からないことはなんとなく分かる。
抵抗ができなかった。
手から変な風に力が抜けて震えていて、腕を持ち上げても何もできないのだ。
「あっ、ア"」
最期。
ドンッ!と頭蓋骨に剣が穿たれた。
脳に剣がズルンと入り込んでくる感触がして、彼はピク、と人差し指を動かしてから。
ろくに思考できないまま、目を開いたまま死んだ。
歌舞伎町滅多刺し殺人事件の全容である。
この日、早川 小紋(はやかわ こもん)は死んだ。
「は。は、…はぁ、」
お蜜は短剣を手に、汗とかかった血をそのままにふうふう息をして暫く彼を見下ろしていた。
そして眉をヘニャ、と下ろし。
「これ、疲れるから大嫌い…」
と、スーパーの袋を下ろした瞬間の主婦みたいな声で言ったのであった。
■
二時間後に目覚めたコモン・デスアダーは、自分の体が変わってしまったことを自覚した。
バリ風ラブホテルの鏡の前、自分の瞳が爬虫類みたいに真っ黄色になっていて瞳孔が縦に割れていること、体に黒い鱗のようなものがところどころに浮いていること。
舌が細長くなり、二股に分かれていること。
物凄く長い蛇の牙が生えていて、そこから毒が出ること。
感覚が全く変わっていて、数秒に一回舌をニョロ、と出してしまうこと。
出そうと思えば、スーッという威嚇音が出ること。
「チンコ2つある!!」
性器が縦に二本付いていること。
しかも返しのようなトゲが付いているのである。
「………」
コモンくんは何度も変わってしまった自分の姿を見て、さすがに全てを信じざるを得ず。
落ち着くために鏡の前の椅子に座って一本煙草を吸ってから。
「お蜜ちゃん」
「…お…?」
彼を作り替えて疲れ果て、ベッドにぐったり寝転がっていた彼女の顔の横に手をついた。
そして。
「噛ませて」
「お?」
「オレ蛇になったんでしょ?噛ませて」
「…え、ダ…いけません。牙で噛んだらね、痛いのよ。やめてね。かじらないで」
「噛むよん」
「あ、やめてね。やめ、」
「がぶ」
「あう!」
コモンくんはガッ、と牙を引っ掛けるようにして彼女の首を噛んだ。針のような牙は肌を突き破り、少しだけ血が垂れた。
手加減をしたが、普通に噛んだ時の感覚とは全く変わっている。本当に人間とは一線を画したのだと痛感した。
牙は口を閉じれば折りたためる。
その辺も蛇と全く同じだった。
流石に毒は出さなかったが、お蜜はもちもち暴れてから、牙を離されればクタッと目をバッテンにして動かなくなる。
全てを諦めた小ネズミのようだった。
「…マジかよ、これ…」
ハハ、とコモンくんは全く顔で笑わずに音だけで笑った。
彼が本気の異世界転生を覚悟したのはこの時だった。
彼女の血で下唇が赤くキラキラ光り、ネックレスと小さなピアス、親指と中指につけた指輪が鈍く輝いている。
それがやけに現実感を煽るのであった。
転生者の条件は「いじめられた経験がある/現在進行形でいじめられていること」「容姿が人並み以下であること」「年収が平均以下であること」「友人が三人以下であること」だ。
コモンくんはいじめられた経験どころかいじめた経験しかないし(しかも悪気も自覚もなし)、リンチした経験も後輩を財布扱いした経験もある。
容姿は手を前にかざすだけで女が軍団単位で寄って来る有様、年収は将来に希望を持てる程度には稼いでいる。
いつもクラスの後ろの隅っこの方を友人たちと広々使って座っていて、授業中は携帯をいじっていた。
文化祭で何かを決める時は爪を見て過ごし、自分の気に食わない出し物が決定しそうになると「え、オレそれやりたくない」と初めて口を開く。
修学旅行のバスは一番後ろに座り、地元の怖い先輩には可愛がられ、後輩からは怖がられ、友達は数え切れないほどいた。
元カノは5人。
経験人数は3桁、部活は陸上部。
最終学歴は青山学院大学。
スポーツは大好きで体も鍛えている。
基本的に家には寝に帰るだけで毎日何処かに顔を出している。
そんな何一つ該当しない人材が選ばれてしまった。
現代社会ですでに無双にしている人間が異世界転生するだなんて聞いたことがない。
いや、知らないだけですでに実例はあるのかもしれないが…。
「え、待って?異世界転生?いつから?オレシフト出しちゃったよ」
どうすんだ。
何持っていけばいいの?
海外旅行みたいなもんだと思えばいい?
チンコ2本あったらこれからセックスできなくね?
つーか期間はどのくらい?異世界って携帯使える?
煙草買える?コンビニある?
駅まで徒歩何分の物件に住める?
着替えどんくらい必要?メシって何があんの?
携帯の充電できる?娯楽って何?
異世界の水って軟水?硬水?
え、サバイバルなんだったら行く前にディスカバリーチャンネルめっちゃ見た方がいい?
ガチで何必要?何ができて何ができないの?
無双とか興味ねぇしスマホ使えないなら行きたくねえ。
でもお蜜ちゃんとは付き合いたい!
「…………」
コモンくんはここまで一気に考えて、ダラン、と腕を下げ。ジッと俯いてから。
「……役に立ちそうなやつ全員連れてこ。」
と、それだけを決意した。
お蜜はもそもそ起き上がってきて、「めんね」(ごめんね)とちいちゃな声で言う。
コモンくんは黙ってそんな彼女の頬に自分の頬をくっつけ、「…いいよーん」と強がって見せるのだった。
だってどんなに足掻いても、どうせ決定事項だろうから。
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