小説「ヴォツェック」

かおるこ

「小説 ヴォツェック」

 「小説 ヴォツェック」


 オペラを小説風にした作品です。

 今回は、アルバン・ベルク作「ヴォツェック」を題材にして書きました。

「ヴォツェック」は怖くて不気味なオペラです。貧しい兵士が人体実験により精神状態に異常をきたし、愛人を殺害して自分も死ぬという内容です。しかも、音楽は不協和音の鳴り響く無調音楽です。とはいえ、百年ほど前の作品なのでロマン派の流れをくむ無調音楽といえます。歌唱方法は歌うというより、叫びに近い絶叫調です。アリアはありません。演出によっては歌手が白塗りだったり、生首が出てきたりと、ほとんどホラー映画の世界になります。

 初演は1925年、歌詞はドイツで書かれています。



 この小説では元のオペラの歌詞はできるだけ原作に忠実に訳しましたが、短い歌詞には意味が通じるように補足した部分があります。

 

 オペラのそれぞれの幕は **(wozzeck 1)** と表記しました。

 ◆印は場を表します。

『』(にじゅうかっこ)内の歌詞、台詞は原作のドイツ語を翻訳したものです。

 例

『呪われているんだ・・・あの光が見えるか。毒キノコが光ってる。夜になるとあそこに首が転がっている。ある男がそれを拾って三日後に棺桶に入れられた』

『(前略)科学に革命を起こしてみせる。蛋白質、脂肪、炭水化物。つまりはオキシアルデヒドアンヒドリーデだ』



 登場人物

 私 宮野隼人

 ルル 

 クラウス ルルの祖父

  ・・・・・

 ヴォツェック   兵士

 大尉       

 医者        

 鼓笛隊長     軍楽隊の隊長

 アンドレアス   ヴォツェックの仲間

 マリー      ヴォツェックの内縁の妻

 マリーの子供



「小説 ヴォツェック」


 アルテハイムの町(1)


 バスの乗客は私を含めて四人だけだった。一人はサングラスをかけた年配の男性で、大きなトランクを二つ持っていた。他には子供連れの母親がいた。母親は見慣れぬ外国人が乗り合わせた不安からか子供をしっかり抱きかかえていた。

 私が訊ねようとしているのは南ドイツの町である。

 フランクフルトから特急列車で出発し、ローカル鉄道に乗り換えてナーゴルトという町に着いた。ここは「黒い森」にも近い町だ。私はナーゴルトに宿をとってあった。ホテルで訊ねると目的の場所、アルテハイムにはバスで二時間ほどかかるということだった。しかも、朝夕の二本だけしかなく、チェックインした午後三時にはすでに夕方のバスが出ていた。そこで、翌朝のバスで行くことにした。

 バスは二十人がやっと乗れる程度の大きさで、後ろの一列は座席を取り外して荷物が置かれていた。ナーゴルトから食料品や衣服などを積んで近隣の町に届けるのだろう。ナーゴルトを出てしばらくは舗装された道路だったが、それが石畳の道に変わり、すぐに砂利道になった。ときどき思い出したように家が一軒、また一軒と見えた。家の周囲には果樹園が広がっていた。朝九時に乗ったから、まだ昼前だというのに空は灰色の雲が重くのしかかって夕暮れのようだった。

 道が二方向に分れるところでバスが停まった。運転手にはあらかじめアルテハイムで降りたいと伝えてあったので親切に教えてくれたのだ。だが、そこは標識も何もなく、バス停とは思えなかった。運転手はバスの後方から荷物の木箱を五つ下ろし地面に置いた。私が、アルテハイムかと訊くと黙って左の道を指差した。

 バスは右方向へ走り去り、私と木箱が取り残された。左の道の先には低い山と森が広がっている。町どころか一軒の家も見当たらない。早朝のバスが正解だったと思った。午後に出発するバスに乗っていたら、私は街灯もない真っ暗な街道にポツンと立っていなければならなかっただろう。

 私はスマートフォンのカメラでバス停周辺の景色を撮った。それから、リュックサックからパンを取り出した。レバーゲーゼという挽き肉を挟んだ、ハンバーガーのようなものである。ナーゴルトの町のパン屋でパンとミネラルウォーターなどを買っておいた。これで昼食と夕食は間に合うだろう。

 相変わらず空はどんよりと重苦しい。雨が降りそうだ。ここで降られたら最悪だと思いながら、木箱に座ってレバーゲーゼパンを齧った。

 木箱はどうするんだろうと考えた。ここに置いていったということは誰かが取りに来るはずだ。その誰かがアルテハイムの住人であることを期待した。

 私がドイツの田舎の道に放り出されることになったのは一枚の写真がきっかけだった。

 祖父はドイツ人だった。大学で日本語を研究するために来日し日本人の女性と結婚した。従って私は四分の一ドイツの血が流れていることになる。とはいえ、西欧の血が混じっているような顔立ちではなく、まして、ドイツ語は挨拶程度しか喋れない。

 祖父はカルロスという名前だった。ドイツ人にしては珍しいが、スペインかイタリア系の名を付けられたのだろう。その祖父はすでに亡くなっていたが、昨年、2017年の冬、今度は父が他界した。まだ六十歳になったばかりだった。

 父の遺品の中に写真のアルバムがあった。小型の冊子で写真はわずか五枚しか貼ってなかった。五枚うちの三枚の写真には、城壁と町の広場、それに小川か池のような水面が写っていた。他の二枚は住宅を撮った写真だった。その一枚は平屋の棟続きの家が並んでいる写真だった。五枚目に写っていたのは建築中の建物で、まだ家の土台だけしかできていない。いずれも古びたモノクロ写真であり、印面は小さく、粒子が荒くて鮮明とはいえないものだった。

 写真の裏にドイツ語でアルテハイムと書かれていた。これが手掛かりになると思い、調べてみるとドイツ南部の地名だということが分った。これらの写真は、父のというよりは祖父に関係するものだろうと推測した。

 ドイツのシュツットガルト出身だと聞かされていたが、祖父はアルテハイム生まれだったのだろうか。アルテハイムはシュツットガルトの西、およそ100キロほどの距離にある。地図で見る限りではかなり田舎の町のようだった。遺品にあった写真でも寒々とした片田舎だと想像できた。生まれ故郷か、それとも単に旅行で訪れただけかもしれないが、私はアルテハイムに行ってみたいと思った。

 ドイツ行きは、仕事の目途をつけた2018年の五月、連休の終わった後になった。

 城壁や建築中の家などの写真を建築事務所に勤める友人に見せた。友人はドイツといえば真っ先に浮かぶのが三角屋根のハーフティンバー住宅で、次にバウハウスだと言った。バウハウスとは、1900年代の初頭に起こった、建築、工芸などの芸術運動、並びに教育機関を指す。主導者は建築家のグロピウスだった。バウハウス建築は、シンプルな外観のビルが特徴だ。ナチスによって取り締まられたが、近代的なデザインの先駆けであり、現在の新しいビルにはほとんどバウハウスの影響がある。

 その友人によれば、写真に写った城壁は数百年以上前に建てられたもので、平屋の建物もかなり年代物だそうだ。彼は音楽にも精通していて、グロピウスは作曲家マーラーの元妻アルマ・マーラーと再婚したという話もしてくれた。二人の間にはマノンという娘がいたが、子供の頃に早世した。

 ということで、私は父の遺品にあった写真の場所、アルテハイムを目指してやってきたのである。

 パンを食べ、歩き出そうとしたところへ、左の道、アルテハイムの方角から車が走ってきた。木箱の荷物を回収に来たのだろうか。小型トラックが止まった。運転していたのは若い女性だった。私と同じくらいか少し上のように見える。栗色の髪で、きりりとした顔立ちである。オレンジ色のシャツを着て、ヤンキースの帽子を被っていた。ドイツ語で何か言うのだが、早すぎてまったく聞き取れない。すると、車から降りてきて木箱の側へ行き、個数を数えだした。やはりこれを取りに来たのだ。女性が木箱を抱え上げたが重そうにしている。私は荷台に積み込むのを手伝った。

「アルテハイムはこの先ですか」

 とっさにドイツ語が出てこないので日本語で訊ねた。それでも、アルテハイムという言葉は通じたようで、彼女は腰に手を当てて「ヤー」と頷いた。英語にすれば「イエス」だ。それから助手席を指差した。親切にも乗れというのだ。どうやらアルテハイムまで送ってくれるらしい。

 私がドイツ語で「ダンケ」と言って次の言葉に迷っていると彼女は、

「英語でもいいわ」

 流暢な英語で言った。英語が通じるのは助かった。

「車に乗せてくれてありがとう」

「荷物を持ってくれたお礼よ。あんなところで何をしていたの」

「ナーゴルトからバスに乗ってアルテハイムに行く途中なんです。バスを降りて歩くつもりでした」

「歩いたら日暮れまでには着ける。ただし道に迷わなかったらね」

 彼女の車に拾われて良かった。

「ルルよ」

「宮野隼人です。日本から来ました」

「日本人。ここでは珍しい」

 自己紹介もそこそこにトラックが走り出した。道の両側はブドウ畑が続いている。遮る物がなく見通しはいい。

「アルテハイムに用があるの? ハヤト・・・ハヤトー」

 ルルはハヤトと言った後で語尾を引き延ばした。面白そうにメロディーに載せている。日本人の名前が気に入ってくれたようで少し嬉しくなる。私はリュックからアルテハイムの写った写真を出して見せようとしたが、トラックがガタガタ揺れるので手が震えた。舗装されていない農道のうえにルルの運転が荒っぽかった。ルルがトラックを停めたので、ようやく写真を取り出すことができた。その写真は原本から複製したコピーなのでさらに解像度が落ちている。

「この写真見てください」

 私は父の遺品にあった写真を見せながら、ここへ来ることになった経緯を話した。

「アルテハイムにこの写真に写った場所はありますか」

「城壁は似ている。広場もたぶんアルテハイムの中心部だと思う」

 ルルは順に見ていたが、小川の写真には首を傾げた。

「川かな、それとも池みたいだけど、何か暗くて怖い、気味が悪い場所」

「この建築中の家はどうですか」

「さあ、工事中だもの。これじゃ、どこの家だか分からない。あと、こっちの写真の低い家はドイツならどこにでもありそう」

 土台だけの建築中の建物に見覚えがないのは当然だろう、ルルが生まれるずっと前の話である。城壁は変わらないとしても、古い家は取り壊されて新しいマンションにでもなっているのかもしれない。二十一世紀の現在でも写真のような古い家が残っているとすれば、それこそアルテハイムは時代に取り残された集落だ。

「これはかなり古い写真です。今から五十年、もっと前かな」

「だったら、お爺ちゃんに聞いてみれば、何か知ってるかも」

 ルルのお爺さんは九十歳を過ぎて、耳は遠いし目も悪いが、一日の大半を酒場で過ごしているそうだ。そこで話は途切れた。

 十五分ほど走ると城壁が見えた。写真にあった城壁だろうか。いよいよアルテハイムに着いたのかと思うと、胸の奥から何やらこみ上げてくるものがあった。アルテハイムにやってきたことで、私は一つの役目を果たしたような気がしたのだ。

 日本を発つ前は、祖父が旅行で訪れたのかもしれないと想像していたのだが、実際に来てみるとここは観光目的で来る場所ではなかった。アルテハイムは祖父の生まれ故郷だという感を強く抱いた。

 城壁は意外に低かった。高い部分でさえ二階建ての家の屋根くらいしかしない。これで外敵から守るに役に立ったのだろうかと思った。

 車は城壁のアーチ状の入り口の手前を右折した。壁に沿って進むと、石積みの壁の途切れたところがあって、その平坦な道から町の中へ入っていった。高い城壁は町の入り口のところだけで、人の背丈ほどの壁が町を囲んでいるようだ。

 ルルは車を停めた。通りに面して木組みの家が数軒並んでいる。看板が出ているので商店のようだ。

「荷物はそこの店宛てのものよ。洋服、靴、薬、石鹸、それに鍋やらフライパンとか、まあ何でもいろいろ売ってる店ね」

「コンビニとかスーパーマーケットみたいなものですか」

「そう、アルテハイムにはこの店と、他にもう一軒しかない」

 田舎暮らしはイヤだという表情をしてみせた。

 三角屋根のスーパーマーケットから男が出てきた。髭の生えた五十代くらいのいかつい男だった。ルルと二言三言かわし、トラックに積まれた荷物を下ろし始めた。私が手伝おうとすると、男は早口で何か怒鳴るような口調でまくし立てた。大事な商品には触るなということと解釈した。

「ハヤトが私に気があるんじゃないかって怒ってる。ハヤトー」

 両手を大げさに広げてルルが笑う。恋人にしてはその男性はルルと年が離れていた。私が外国人だから警戒しているのだろう。

 荷物を運び終えるとルルは男性と一緒に店内に入った。荷物が間違いないか確認しているのだろう。

 店の前の広場で子供たちが遊んでいた。木の棒の先端に馬の頭部が付いている遊具に男の子が跨って走っている。いわゆる「竹馬」だ。日本では竹に足掛かりを付けたのを竹馬というが、これは西洋スタイルだ。十歳くらいの女の子が男の子の手を引いている。お姉さんが弟の面倒をみているといった感じだ。男の子が私に向かって手を振った。歓迎されているようなので手を振って答えた。

 すぐにルルが戻ってきた。今度は、お爺さんが酒を飲んでいるという酒場を目指す。中心部の通りにしては商店らしき三角屋根の建物は数軒だけだった。商店街の外れに黄色い壁の良く目立つ店があった。角笛の看板が出ていて、POSTと書いてある。郵便局だ。ルルが立ち止まった。

「私のお父さん、郵便局の局長なのよ」

 ポストも黄色く塗られていた。

 郵便局は手紙や荷物の取り扱いだけでなく、銀行でもあるし、日用品も売っているとのことだ。そうすると、ルルが遠くのバス停まで荷物を回収に行ったのも、郵便局の仕事の一環だったのだろう。宅配業者のようなものだ。郵便局長ともなると土地の名士に数えられるのではないか。ルルは名家のお嬢さんだった。

 そこで家並みは途切れ、柵で囲われた農園、畑地になった。その先に灰色の大きな建物が見えてきた。かつては兵舎だったが今は使われていないそうだ。

 しばらくすると、緩やかにカーブした道路の片側に石造りの家が連なって建っているところに出た。向かい側はただの草地だ。ここが酒場だというのだが、看板らしいものはなく、入り口も目立たない。

 私はルルの後に続いて店内に入った。カウンターと他に長いテーブルがあるだけの小さな酒場だった。レンガの壁で、床は黒ずんだ板張りである。テーブルに老人が突っ伏している。客は一人しかいない。彼がルルのお爺さんだ。

「あーあ、また寝ちゃってる、いつもこうなんだ」

 ルルが身体を揺すっても老人は眠ったままだ。時刻は午後二時を回ったばかりである。明るいうちから酒場で酔いつぶれていたのでは話を聞けそうにない。

 私は例の写真を取りだし、ルルに渡して酒場の主人に見せてくれないかと頼んだ。初老の主人は写真を見ていたが、その顔つきから、良い答えは期待できそうになかった。ルルはこちらを向いて首を振った。ここでも手掛かりは見つからなかった。

 それからルルのお爺さんを起こして家に帰ることにした。酒場の支払いがすんでいないというので私が立て替えた。

「気前がいいのね、ハヤトは」

「アルテハイムの話を聞かせてもらうのでお礼の前払いです」

「それじゃ、明日はもっと出費を覚悟して」

 ルルは壁際に私を連れて行った。カウンターの脇の壁に絵が掛かっていた。椅子に座った女性が荒々しいタッチで描かれている。「私よ」とルルが言った。ナーゴルトに若い絵描きがいてモデルになったそうだ。目の前のルルは明るい栗色の髪だが、画中の彼女の髪は真っ赤だ。こちらを見つめるその眼差しは男を誘うような、奔放な雰囲気さえ漂わせていた。

「この町でモデルなんて私一人よ」

「いいね、とてもきれいだ」

 当たり障りのない感想を口にした。ルルには申し訳ないが、素人目にもあまりうまいとは思えなかった。少しデッサンが狂っているようにも見えた。趣味で描いている日曜画家なのだろう。

 それから、お爺さんをしっかり抱きかかえ店の外に出た。すっかり酔っぱらって足元がおぼつかない。年齢の割には身体がガッチリしているので抱えて歩くのは重労働だった。ルルはお爺さんのことは私に任せて少し前を歩いている。ルルが振り返った。

「あたし、シュツットガルトのビアホールで働いてたの。お客の中に新聞社の編集長がいて、あの絵を描いたのはその息子。絵描きとしてはモノにならなかったみたい。編集長のパパとは違って、ただのダメ男だった」

 単なる画家とモデルの関係ではなかったような口ぶりだ。それに、編集長とは違ってダメ男だったというのも何だか気になる。編集長と息子の両方とも付き合っていたのだろうかと勘ぐってしまう。

「ハヤトはどうするの、今夜のホテル。ねえ、ハヤトー」

「ナーゴルトにとってあります。帰りのバスには間に合うでしょう」

「今ならナーゴルトに戻るバスに間に合うわ・・・でも、ごめんね、バス停まで歩いて行って。私の車じゃないんで、このトラック勝手に使えないのよ」

「歩いている間に日が暮れそうですね。ここに宿はありますか、寝られるならどこでも構いません」

 ホテルがあるかどうか訊いてみた。ナーゴルトに戻って出直すのでは時間が掛る。アルテハイムに泊った方が得策だ。

「普通の家の空き部屋を民宿にしてるのがあるわ、そこでもいいかな・・・うっ」

 ルルが私に抱きついてきた。見ると、道の先に蛇が這っていた。しかし、私は身動きが取れない。右腕でお爺さんを支え、左側にはルルがしがみついている。その姿勢で数秒固まっていると蛇は草むらに消えていった。蛇がいなくなってもルルはすぐには離れようとしなかった。


 蛇がいなくなったのでまた歩きだした。お花畑の向こうに家が見えてきた。ルルのお爺さんの家だ。その家は、周辺の家とはまったく異なっていた。四角い直方体が幾つか組み合わさった、バウハウス様式だったのだ。

「バウハウスですか、この建物は」

「そう、バウハウスよ。日本人のハヤトが知ってるなんて思わなかった。あたしは詳しいことは知らないけど、何だか変わっててお爺さんの自慢の家なの」

 アルテハイムにバウハウス様式の家が建っているとは驚きだった。お爺さんの自慢だというのだから相当な年月が経過しているはずだ。

「でも、部屋の中を見たらがっかりするかも、台所と暖炉があって、ベッドがあって、おまけに散らかってる」

 この家でルルは両親とお爺さんとで住んでいるそうだ。室内に入り、お爺さんをソファに寝かせた。物音を聞き付けて奥から年配の女性が出てきた。ルルが母親だと紹介した。この二人が親子だと言われても俄かには信じ難い。母親は化粧っ気がなく丸々太っている。二人は何か会話をしていたが、母親が部屋の隅の電話を取り上げた。

「今夜の宿を探してる・・・プライベイトツインマー、住宅の空き部屋ね。シャワーとトイレは共用。夕食と明日の朝食を付けてくれと頼んでる。それでどう?」

 私は頷いた。母親が受話器を置いた。

「ペトラの家だって。ときどき農場の労働者が泊まるのよ」

 交渉がまとまったので、さっそくペトラの家に向かった。

「お母さんの友達なの、ペトラは。ソーセージはニュルンベルクで修業したから一級品よ。畑も持ってるんで野菜は新鮮だし」

「それは楽しみです」

「ホテルじゃないからベッドは固いけど」

 それに続けてルルが何か言ったが聞き取れなかった。ベッドが固い他にまだ何か隠していることでもあるのだろうか。たとえ、シャワーが水しか出なくても、ベッドが固くても、一晩だけだから辛抱できる。

 話しているうちにペトラの家に着いた。白い壁に三角屋根の平屋の一軒家だった。

 宿の女主人ペトラが笑顔で迎えてくれた。ルルの母親と同じくらい太っている。私は二階の部屋に案内された。部屋は二段ベッドが二つとクローゼットがある四人部屋だった。さっき、ルルが何か言ったのは相部屋だということだったのかもしれない。もっとも今夜はこの部屋を私一人で占領できそうだ。シャワーとトイレの使い方を教えてもらうときにはルルが通訳してくれた。宿泊代、10ユーロを払った。日本円で1500円くらいだろうか。

 ルルが二段ベッドの下段に寝そべった。二人きりの部屋で彼女はベッドに寝ている。誘っているのだろうかなどと、あれこれ想像してしまった。

「明日は九時に迎えに来る・・・お母さんを迎えに寄こそうか」

「どこかへ出かけるんですか、ルルは」

「朝は苦手なのよ」

 朝は苦手・・・だけど、夜は・・・何を余計ことを考えているのか。

 結局、私の思い過ごしだったようで、ルルはすぐに起き上がって帰っていった。誘われているのではなかった。

 夕食までには時間あるので、私は荷物を置いてアルテハイムの町を歩いてみた。祖父の写真に写っている建物や小川の場所を探そうと思ったのだ。

 宿を出て周囲を見回す。辺りには民家がポツポツとあるが店らしきものはない。宿の近くにコンビニがあれば便利だが、ここではそれは望めそうになかった。その代わりに遠くに深い森が見えた。

 まずは町の入り口である城壁まで行くことにした。途中にある、元は兵舎だったという二階建ての建物を見て回った。使われていないのでどことなく寒々としている。石造りの外階段は今にも崩れ落ちそうだ。兵舎の裏手にも城壁があった。壁にはひび割れが幾つもあって、隙間に草が生えている。スマートフォンを出して城壁の写真を写した。城壁に沿って行くとトンネル構造になっていて通り抜けができた。トンネルの中は昼間でも暗く寒かった。

 町の入り口に出た。先ほどは気が付かなかったが、商店のあるところは円形の広場になっていた。写真を出して見比べると確かに似ている。だが、町の中心にしては人通りは皆無だ。私は広場の写真も撮った。

 今度は宿から見えた森の方へと歩いた。森に入れば、写真にあった小川があるのではないかと思った。歩き出して分ったが、目指す森まではかなり距離がありそうだった。段々と木が茂ってきた。木の間から弱々しい陽が射しこんでいる。小川はなさそうだと諦めかけたとき、右手の方向にキラリと光るものがあった。水面に陽が反射しているようだ。川かもしれないと急いで行ってみるとそこは池だった。小川の写った写真を取り出した。ここが同じ場所だったとしても、写真が撮られたときよりも遥かに木々が生長しているようだ。五十年以上は経過しているのだから無理もないことだ。

 スマートフォンで周辺の写真を撮っていると急に陽が陰り、さらに霧が出てきた。

 池を畔に細い道があった。遊歩道だろうが、下草やツタが茂って靴に絡まりそうだ。古そうなベンチがあった。座席の板が腐って朽ちかけている。遊歩道もベンチも荒れ放題であまり整備されていない。ベンチの脇に何か落ちていた。女性物のストールのようだが、随分前に捨てられたとみえて泥だらけで地面にへばりついていた。

「・・・」

 人声が聞こえたような気がして立ち止まった。

 誰かいる。

 周囲を見回したが人影はなかった。空耳だったかもしれない。

 そのとき、池の水面が波立った。風もないのに波が立っている。それだけでなく、水面が盛り上がってくるようにも思えた。私は不安になってゆっくり後ろへ下がった。

 太い木に寄りかかって息を整えた。初めての土地でいささかナーバスになっているのだ。考えてみれば、池の水が溢れるなどということはありえない話だ。

 探索はそこまでにして宿へ帰った。散歩中、町の人を見かけたのは三人だけで、みな老人だった。若い人の姿はなかった。たぶん、若者はナーゴルトやシュツットガルトに働きに出ているのだろう。ルルのような若い女性がいるのが奇跡的だ。

 夕食のとき女主人のペトラにも写真を見せた。ペトラは宿を経営しているだけあって片言の英語は理解できる。彼女は写真をしげしげと見ていたが、何も思い当たるものはなさそうだった。

 その夜、ベッドに入るとルルの匂いがした。


 翌日、ルルの家を訪ねた。バウハウス様式の室内は建てられてからかなり年月が経過していた。白かったと思われる壁は灰色にくすみ、天上には黒い染みがある。床は板張りで、壁の一部は腰の高さまでタイルが貼られていた。窓は大きく開放的で部屋の中は明るい。

 私は居間兼食堂といった部屋に通された。一枚板のテーブルは存在感があり、食器棚も使い込んで黒光りしていた。

 ルルは花柄のワンピースを着ている。髪をポニーテールに結い上げ、うっすらと化粧してる。朝は苦手と言いながら、昨日にも増してきれいだった。

「昨日は良く寝られた?」

「ベッドも柔らかったので、朝までぐっすりでした」

「二人で横になるには狭かったものね」

 私はひやひやする思いだった。英語だからいいようなものの、ルルは母親の前で際どい話をした。

 お爺さんはクラウスという名前だった。

 さっそく本題に入る。私は五枚の写真をテーブルに広げた。城壁、広場、低い棟続きの家の写真、それに建築中の家と小川の写真である。クラウスお爺さんは顔を近づけて一枚づつ丹念に見ていた。ルルが城壁と広場の写真を示して訊くと、お爺さんは大きく頷いた。

「この二枚、城壁と広場はアルテハイムで間違いない、そう言ってる」

「やっぱり。そうすると、私の祖父はアルテハイムで生まれ育ったのかもしれません。あるいは、旅で訪れたという可能性もあります」

 これで祖父がアルテハイムと関係があることが確実になった。ただ、生まれ故郷なのかどうかは分からない。

「工事中の家はどうですか」

 クラウスお爺さんは建築中の家の写真を食い入るように見ていたが、突然、何かを思い出したかのように室内を指差した。

「えっ、なに・・・本当!」

 ルルも興奮気味だ。

「この写真、土台だけしか写ってないけど、この家よ、この家なんだって」

 私は家の中を見渡した。私が持ってきた写真に写っていたのは、この家、ルルのお爺さんの家だったのだ。できれば外へ飛び出して建物の外観を確認したいくらいだ。

 お爺さんが早口で喋るのをルルが英語に通訳した。

 それによると、この家を建てたのは、バウハウスを主催したグロピウスの弟子にあたる人物だった。工事は1939年に始まり、翌年に完成した。およそ八十年前のことである。お爺さんが七、八歳ごろだった。家が建てられるのを毎日眺めていたから間違いないとのことだ。

 偶然とはいえ、私は感激していた。

 そうなると、この写真を撮った人物が誰だったのかが気になる。

「この写真を写した人には心当たりはありませんか。誰だったか分かれば、祖父が写真を持っていた手掛かりになると思うんです」

 私が訊ねるとお爺さんは腕を組んで考えている。

「お爺さんは分からないって」

 通訳したルルも残念そうだ。古いことだから記憶が薄れてしまったのは致し方ない。それに、撮影者は誰もいないときに写したのではないか。家の前に工事の人に姿が見えないのがそれを物語っている。私の祖父が撮った可能性もあるが、祖父のカルロスは1928年生まれだから当時はまだ子供だった。旧式の二眼レフカメラを使いこなせる年齢ではない。

 私はその写真のコピーをお爺さんにプレゼントした。

 小川の写真はどうだろうか。お爺さんは私から写真を受け取って見ていたが、急にその手が震え出した。

 ルルが心配そうにのぞき込む。

「どうしたの、お爺さん」

 お爺さんはソファーに深々と座った。というよりは倒れ込んだ。

「この場所は・・・呪われている!」

 通訳しているルルの声が裏返った。お爺さんは手の震えはますます激しくなる。

 ルルが顔を私に向けた。

「この池で二人死んだんですって。お爺さんがそう言うの。二人・・・」

 私は昨日、この池だと思われる辺りに行った。

 カメラを構えている最中に暗くなり霧が出た。泥まみれのストールが落ちていたり、人声らしきものも聞いたのだった。そして、池の水が逆流してくるような気配がして、急いで立ち去った。あの池で二人が死んだというのだ。深みに嵌って溺れたのだろうか。まさかとは思うが、死者が私を池に引きずり込もうとしたのではないだろうか。

 お爺さんの震えが止まらないのでルルがビールを持ってきた。薬よりは黒ビールの方が効き目がある。お爺さんは黒ビールを半分ほど飲み、それから、この池で起きた悲劇的な事件を話し始めた。

 それは、貧しい兵士が愛人を殺し、自らも溺れて死んだというものだった。

 ルルが通訳となって私にも分かるように聞かせてくれた。


「これからお話しすることは、わしが生まれる前の出来事だ。二年か、三年ぐらい前のことだろう。なにしろ、ずっと以前に人から聞いた話だから、細かい部分となると記憶が確かではない」

 お爺さんはそう前置きして本題に入った。

「この町にヴォツェックという兵士がいた。あの頃はみな貧しい暮らしだったが、ヴォツェックもご多分に漏れず貧乏していた。毎朝、上官の髭を剃っていたそうだ・・・」


 **(wozzeck 1)**


 ◆

 夜が明けても霧に包まれていた。白くて冷たい霧。人々を暗い気持ちにさせ、頭から押さえつけるような霧だった。この季節、ここではこうして一日中、陰鬱な空気に閉じ込められる。

 兵舎の一室で、大尉が朝の身支度を整えていた。うすら寒い部屋。大尉は髪の薄い赤ら顔で、せり出した太鼓腹を抱え、大仰そうに椅子に凭れている。

 兵士のヴォツェックは大尉の髭を剃っていた。ヴォツェックは毎日のように大尉の髭を剃っているのだ。大尉の顔に白く泡立てた石鹸を塗りたくり、髭剃りに取り掛かろうとした。だが、ヴォツェックは剃刀を研いだり、タオルを取りに行ったりとせわしなく動き回る。

 それを大尉が見咎めた。

『落ち着け、ヴォツェック。一つのことがすんでから次に掛かれ。お前が十分早く終えたところで、吾輩は残った時間に何をすればいいんだ。お前は、あと三十年は生きるんだぞ。つまり、360ヶ月だ。何日、何時間、余った時間で何をする。人生は時間配分が大事だ』

『はい、大尉殿』

 ヴォツェックはポツリと返事をしてタオルで手を拭いた。

『永遠ということを考えると、吾輩はこの世が恐ろしくなる。永遠は永遠だからな。それぐらいは分かるだろう、ヴォツェック。だがな、永遠はまた一瞬でもあるんだ。地球が一日で一回転していることを思うと不安でしかたない。だから、吾輩は水車を見ていられんのさ、憂鬱になるからな』  

『はい、大尉殿』

 ヴォツェックは上の空で繰り返した。

『ヴォツェック、お前はいつも慌ただしい。善良な人間は、心がやましくない人間は、何事もゆっくりするものだ』

 大尉は外を見て『今日の天気はどうだ』と訊いた。

『とても悪い天気です。風が出てきたようです』

『うむ、部屋の中でも風が吹いてるのが分かる。この風はネズミが駆け回っているような音がするな・・・風は<南北>から吹いているようだな』

『大尉殿のおっしゃる通りです』

『バカか、お前は。<南北>から吹いてくる風があるものか』

 大尉はけたたましく笑った。ヴォツェックが髭剃り刀を顔に当てたので、今度は態度を変えて優しい声になった。

『ヴォツェック、お前はいい奴だ。だが、道徳心がない。道徳心があるとは、道徳的な人間のことだ。分かるか、いい言葉だろう、道徳とは。ところで、お前の子供は教会の祝福を得ていないんだったな』

『はい・・・』

 ヴォツェックには正式に結婚していないマリーとの間に子供がいる。そのことをたびたび非難されているのだった。

『これは吾輩が言うんじゃない、うちの部隊の牧師が言っていた、教会の祝福を得ていない子供だと』

『あの哀れな子が生まれる前に祈りが捧げられなくても、おそらく神は気にも留めないでしょう。聖書には<子供が私のところへ来るのを妨げてはならない>と説いています』

『コイツ、奇妙なことを言いおって、こっちの頭が混乱するじゃないか。「コイツ」とは、つまり、お前のことさ』

 髭剃りをすませたヴォツェックは低い声でボソボソと語る。

『大尉殿。自分たちは貧乏人なんです。金がないんです。道徳的な方法で子供を産むことも叶いません。金があれば紳士らしく帽子を被り、眼鏡をかけて、懐中時計でもぶら下げられるでしょう。だけど、貧乏人には先立つものがないんです。品行方正でいられる人が羨ましいですよ。自分たちみたいな貧乏人はこの世でも、あの世でも貧乏しなくっちゃならんのです。あの世に行ったら、雷様を起こす係にでもされるのがオチです』

 ヴォツェックに恨みつらみを吐露されて、大尉はいい加減嫌気がさしてきた。

『分った、ヴォツェック、もういい。お前はいいヤツだ。だがな、いろいろ考えすぎると身体を壊すぞ。お前はいつも慌てているから話していると疲れるんだ。下がってよい、ただし走るな。道の真ん中を行けよ、ゆっくりとな』

 ◆

 ヴォツェックは同僚のアンドレアスと川べりで葦を刈り取っていた。大尉の命令で杖にする枝を探しているのだ。だが、実態は杖というよりは教練に使う鞭だった。

『おい、この場所は・・・呪われているぞ』

 ヴォツェックは葦を刈る手を止めた。アンドレアスはそれには取り合わず、刈り取った葦の束を積み重ねながら陽気に歌を口ずさむ。

『~狩りは楽しい、鉄砲が打てる。おいらは狩人になりたい~』

『呪われているんだ・・・あの光が見えるか。毒キノコが光ってる。夜になるとあそこに首が転がっている。ある男がそれを拾って三日後に棺桶に入れられた』

 アンドレアスの目には光は見えていない。ヴォツェックだけに幻覚が見えているのだ。

『暗くなってきたな。ヴォツェック、怖くなったんじゃないのか。~目の前にやってきたウサギが訊いたんだ。あんたは狩人かって。そりゃ、昔は鉄砲を担いでいたけど、今は撃てなくなった~おい、一緒に歌えよ』

『フリーメーソンだ、フリーメーソンの仕事だったんだ。黙ってくれ』

 ヴォツェックは鎌を投げ捨て地面に座り込んだ。

『空虚だ、何もかも虚ろだ。おい、足の下で何かが動いたぞ、気付かなかったか。ここは呪われている。息が詰まりそうだ、逃げよう』

 逃げようと言いながらも、ヴォツェックは地面を見つめてしゃがんだままだ。その様子が変なのでアンドレアスは薄気味悪くなってきた。

『変なことばかり言って、気は確かか、ヴォツェック』

『蒸し暑くて息が詰まりそうだ・・・火だ、地面の下から天に向かって炎が立ち上っていくぞ。ラッパが鳴り響いてる。蒸し暑い、息が詰まりそうだ・・・』

 彼には、そこには存在しない炎が燃え盛っているのが見えている。幻覚だ。ヴォツェックは指先を暗くなった空に向けた。

『静かだ・・・何もかもが死んでしまったようだ』

 アンドレアスはそれを無視して刈り取った葦の束を肩に担いだ。ヴォツェックも束を抱え兵舎へと向かった。

 ◆

 ヴォツェックにはマリーという愛人がいた。二人は正式に結婚はしていなかった。三歳になる男の子が一人いるのだが、めったに家に帰らない父親には懐かなかった。

 マリーは低い棟続きの長屋に住んでいた。部屋の中はベッドが一つ、それにカマドとテーブルがあるきりだ。壁にはどす黒い汚れがこびり付き、部屋の中にいても土の匂いがしていた。部屋も人の心も凍り付いていた。

 遠くから軍楽隊のラッパと太鼓の音が聴こえてきた。マリーは子供を抱きかかえて窓際に寄った。

『チンブン、ほら坊や来たわよ』

 軍楽隊が目の前に来た。先頭の鼓笛隊長は金モールの制服に身を包み、堂々とした体躯をしている。

 隣の家のマルグレートが鼓笛隊長を見て『何と立派な体』と言った。マリーも『ライオンのように逞しい』と叫ぶ。

『あら、マリーったら、さっそく色目を使って』

『関係ないでしょ』

『何よ、このあばずれ』

 マルグレートがさんざんに悪口を言った。

『言わせておけばいいわ。お前はかわいそうな子供だけど、その恥さらしな顔を見て私は幸せなのさ』

 マリーは子供を強く抱いた。寝かしつけようとして呟くように歌を歌う。

『子供がいても夫はいない。どうすりゃいいんだろう。誰も助けちゃくれない』

 窓を叩く音がして振り向くとヴォツェックが立っていた。

『フランツ? 帰って来たの、入って』

『ダメだ、すぐに兵舎に戻らないと、ああ、マリー』

『フランツ、様子がおかしいわ』

 普段から陰気な夫だが、このところますます暗くなった。マリーはそんな夫の顔を見るだけでも気が滅入った。

『静かにしろ、分ったんだ。空に何かの像が浮かんで炎に包まれた』

『ちょっと、あんた』

『それで今はすべてが暗闇だ。何かが追いかけてくる、どうなっているんだっ』

 興奮が収まらないのでマリーは子供を見せて落ち着かせようとした。

『あなたの息子よ、フランツ』

『おいらの子か・・・』

 ヴォツェックは子供を押しのけて兵舎の方へ歩いて行った。

『あの人、自分の子供なのに目もくれなかった。気が変になったんだわ』

 子供を抱きしめた。不安になって大きなため息をついた。夕方になって部屋の中は陽も差さなくなった。暗い部屋。煤けた壁、軋む床、すきま風が舞い込む窓。出るのはため息ばかりだ。こんな暮らしにはもう耐えられない。

 ◆

 兵舎に隣接して病院棟が建っていた。その地下に軍医の研究室が設けられていた。勤務している医者は体格が良く、眼鏡をかけて顎髭を生やしていた。頭髪は真ん中からピタッと分けている。研究室の中は聴診器や顕微鏡などの道具が置かれ、隅には診察台と人間の骨格模型があった。

 マリーの家を後にしたヴォツェックは医者のもとを訪ねた。一日に一回は顔を出せと言われていたのだ。ヴォツェックが研究室に頻繁にくるのには別の理由があった。実験の材料にされているのだ。

 医者は椅子に座ったままヴォツェックを𠮟る。

『ヴォツェック、約束を忘れたのか』

『何のことですか、先生』

『見たんだぞ、お前は道の脇で立ち小便しただろう。毎日、銅貨をあげているというのに、何たることだ』

『でも、先生、自然にしたくなったら・・・』

 ヴォツェックが言い訳しようとするのを医者が遮った。

『何と言ったんだ。<自然に>だと? そんなものは迷信だ。膀胱は意志でコントロールできると教えてやっただろう。私の研究がそれを証明している。人間は自由だ、個性が人を高める。それを立ち小便するなんて』

 医者が椅子から立って尿瓶を渡した。ヴォツェックは衝立の後ろに入ってズボンを下ろした。しばらくしてヴォツェックが尿瓶に用をたして医者に差し出した。医者はそれを受け取って満足そうに頷いた。

『今日は豆を食べたか』

 ヴォツェックは気を付けの姿勢をとって『はい』と返事をした。

『よろしい、お前が食べていいのは豆だけだぞ・・・そうだ、来週からは羊の肉でも試してみるかな。科学に革命を起こしてみせる。蛋白質、脂肪、炭水化物。つまりはオキシアルデヒドアンヒドリーデだ』

 医者は研究成果を並べて誇示してみせた。ヴォツェックに豆だけを食べさせ、人体に与える影響を調べていたのだ。研究に名を借りた人体実験である。

『だが、立ち小便はしてはいかん・・・待てよ、怒りは健康に悪い』

 怒りが爆発しそうになるのを堪えて冷静さを取り戻した。ヴォツェックの胸に聴診器をあて、次に脈拍を調べようとしたが自分の脈拍を計った。

『脈拍は60・・・私はいたって正常である。人に対して怒ってはならん、だがな、小便をするとは』

『先生、性格とか体格の差はあるでしょうが、自然は別物ですよ』

『また屁理屈を言い出しおって』

『もし、自然がなくなって、世の中が真っ暗になって、蜘蛛の巣みたいに消えたらどうすりゃいいんですか。何かがあるような、何もないような・・・真っ暗だ。マリー』

 ヴォツェックの様子がおかしい。医者がおこなっている人体実験が効果を現してきた証拠である。

『太陽が輝く昼間、恐ろしい声がしたんです。先生』

『お前、精神が錯乱したのか・・・』

『キノコだ。地面にキノコが丸くなって生えていたんだ。あの丸い形を確かめられればいいんだが』

『ヴォツェック、お前は精神病院行きだ。その固定概念、第二種部分的錯乱だ。立派に発症している。そうだ、手当てを増やしてやろうではないか。言われたとおりにやっているだろうな。大尉の髭を剃っているか、豆を食っているか』

『先生のおっしゃる通りやっていますとも。給料は妻に渡しています』

 実験が成功しつつあるので、医者は普段より一枚よけいに銅貨をヴォツェックの手のひらに載せた。

『頑張れよ、ヴォツェック。お前の務めは何だ。言ってみろ』

『マリー』

『お前の務めだ』

『マリー』

 何を訊かれてもヴォツェックはマリーと繰り返す。

『豆を食べろ、次は羊肉を食べるんだ。大尉の髭を剃れ、立ち小便はするな。そして、固定概念を持ち続けるんだ。我が学説、我が業績。おお、不滅の名誉を手にできるぞ。不滅の名誉、不滅の名声だ・・・よし、ヴォツェック、診察してやる、舌を見せろ』

 ◆

 そのころ、マリーはというと・・・

 マリーの家を訪れた鼓笛隊長に抱きすくめられた。『お前はいい女だ』と言いながら胸をまさぐる。マリーはその手を軽く噛みついた。

『ふん、気の強い女だな』

 今度はもっと強い力で抱きしめられた。

『もう・・・好きにして』

 マリーは鼓笛隊長の手を取って部屋の中へと入った。

 ◆


 **(wozzeck 2)**


 ◆

 男の子がマリーのイヤリングを珍しそうに指で揺らした。軍楽隊の鼓笛隊長からもらったものだ。マリーはひび割れた鏡をかざしてみた。

『なんて光る石、彼は何と言っていたっけ・・・さあ、坊や、横になりなさい。寝ないとどこかへ連れていかれるわよ』

 子供を寝かせようとして額を撫でた。

『私たちの持ち物っていったら、この辛気臭い部屋と割れた鏡くらいしかない。私の唇は紅い、貴婦人よりも紅い。でも、私は貧しい女』

 寝たと思った子供がうっすらと目を開けた。なかなか子供が寝ないので、マリーはまた鏡を手にしてイヤリングを見てうっとりした。見惚れていて、ヴォツェックが部屋に入ってきたことも気が付かなかった。

『それは何だ、光っているのは何だ』

『フランツ・・・イヤリングよ、拾ったの』

 とっさに嘘をついた。鼓笛隊長からプレゼントされたとは口が裂けても言えない。

『一度に二個もか、そんなもの拾ったことはないぞ』

『悪いことだったかしら』

『いや、いいんだ』

 イヤリングを拾ったという言い訳に明らかに不信感を表した。ヴォツェックは子供の傍らに立った。

『よく寝る子供だ。額に汗をかいているな。昼間は太陽の下で働き、夜は汗をかいて眠る。これが貧乏人の掟だな』

 ポケットをさぐって銅貨を取り出しマリーに差し出す。

『給料だ、大尉と、それから医者にもらった分もある』

『ありがとう』

『もう行かないと・・・』

 マリーはイヤリングを道で拾ったと言うのだが、ヴォツェックはその言葉は信じられなかった。誰かにもらったに違いない。しかし、妻にイヤリングをくれるような、そんな男がいるのだろうか。

 それを知らないのはヴォツェックだけだった。お喋り好きの隣人たちによって、鼓笛隊長とマリーの噂はすでに広まっていた。

 ヴォツェックは銅貨をマリーの手に押し付けて立ち去った。

『ああ、どうせ私は悪い女よ。自分を刺し殺したくなっちゃう・・・なにさ、イヤリングがどうだって言うの。男も、女も、子供も、みんな地獄に堕ちればいいんだわ』

 子供が起き上がって不安そうにマリーを見た。

 ◆

 今では城壁はところどころ崩れているが、その当時は立派な塔があって壁の上の回廊を歩くこともできた。もっとも、立ち入りを許されていたのは軍の関係者だけであったが。

 霧が立ち込める城砦の回廊を軍医がせかせかと足早に過ぎる。それを太った大尉が呼び止めた。軍医はヴォツェックに人体実験を施している医者であり、大尉は髭を剃らせている上官である。

『やぶ医者先生、いえ、軍医殿、そんなに急いでどちらへ』

『鬼教官殿、いや、大尉殿、のんびりどこへ行かれるのですかな』

『そんな走りなさるな、棺桶の釘、いえ、軍医殿。善人は急がないものだ。それでは死に急いでいるようなものですぞ』

『忙しいので、急いでおるんです』

『やぶ医者先生、足がすり減りますよ』

 大尉は医者に追い付いた。太っているので早足になると息が上がった。城壁に手を付いてゼイゼイと息をする。医者はそれが面白くて、大尉の相手をする気になった。

『大尉殿、こんな話は如何ですかな。四週間で死んだ女がいましてね、子宮ガンでした。四週間でね。こんな患者を二十人も診てきました。興味深い標本ができますぞ』

『おどかさないでくださいよ、ショック死ってこともあるんですから』

 大尉がはち切れそうに膨らんだお腹を摩った。さらに医者が追い打ちを掛ける。

『あなたはむくんでいて体も首も太い。大尉殿は脳卒中にかかりやすい体だ。脳卒中。そうだ、半身不随になる恐れがある、運が良ければ下半身だけですむかもしれない』

『おお、なんということを』

『四週間後にそうなるとして・・・舌でも残ったら、歴史に残る偉大な研究ができるというのものだ』

 脳卒中になってはかなわない。大尉は医者の言葉に動揺して腕に取りすがった。

『先生、やぶ医者殿、その言い方は、まるで死神に友人がいるみたいですな。四週間ですって。おどかさんでくれ、ゴホッ』

 大尉が激しく咳込む。すっかり脅しが効いたようだ。

『ああ、すでに目に浮かんでくる。ハンカチで目を覆った連中が言う言葉が。あの人はいい人だったと・・・いい人だった』

 大尉には、自分の葬儀に集まった人たちの会話が聞こえてくるような気がした。

 そこへヴォツェックが通りかかった。医者は矛先を変えてヴォツェックに声をかけた。

『そんなに急ぐな、ヴォツェック』

 ヴォツェックは立ち止まって軽く会釈をしたが、大尉の姿をみとめて敬礼した。先ほどまでは医者にやり込められていた大尉は俄然勢いを取り戻した。

『その歩き方、お前はまるでナイフのように尖っているな。触ると手が切れそうだ。世の中の大学教員の髭をすべて剃らねば、死刑になるとでも思っているのか。髭、髭といえば』

『長い顎鬚ですな』

『そういうことです。おい、ヴォツェック、家の中で髭を見なかったか、長い髭を。我が隊の兵士か士官か、それとも、軍楽隊の鼓笛隊長だったかもしれんぞ』

 大尉がそれとなくヴォツェックの妻と鼓笛隊長の仲をほのめかす。医者も面白がってそれに応じた。

『お前は貞淑な妻を持っとるよなあ』

 二人は顔を見合わせて笑おうとしたがグッと堪える。ヴォツェックはどうしていいか分からずますます緊張した。

『何が言いたいんです、軍医殿、大尉殿』

『ヴォツェック、急げば間に合うぞ、証拠が見つかるもしれない。吾輩も昔は女に恋をしたことがあったなあ』

『大尉殿、私は貧乏で、妻以外に何もないんです。冗談にも・・・』

 妻の不貞? 

 イヤリングはやはり誰かにもらったものだった。拾ったというのは嘘だった。もちろん、貧乏人には買えるはずもない。不安がじわじわとこみ上げる。妻の傍らに立っているのはヴォツェックではない誰かだった。

『お前、顔が青ざめとるぞ。冗談とは失敬なことを言うにも程がある』

『貧乏人にとって、この世は灼熱地獄みたいなもんなんです、冷たい灼熱地獄です』

 動揺したのか、ヴォツェックが意味不明なことを言い出した。医者は職業柄、脈をとろうとして彼の腕を掴んだ。

『うむ、不整脈だ。頬の筋肉が強張っている、目も虚ろだ』

 妻の浮気をほのめかされ、ヴォツェックは後退りして城壁の壁に背中をぶつけた。ただでさえ、医者の実験台にされ精神のバランスが崩れかけているというのに、さらにマリーの裏切りがヴォツェックを追い詰めていく。

 両手で頭を抱え、体をくねらせて声を絞り出した。まるで、そこに誰もいないかのように大声を出す。

『ああ、首を括りたい気分だ。そうすりゃあ、こっちの気持ちを分ってくれるだろう』

 ヴォツェックが頭を押さえたまま駆け出した。

『面白い男ですな、ヴォツェックは』

 自らの人体実験のせいにもかかわらず、医者はヴォツェックが変調をきたしているのを他人事のように面白がった。

『あいつといると眩暈がしてくる。善良な人間は神に対して感謝するものだ。妙な勇気を持ってはならん。勇気を持つのは卑しい人間の成せる業だ。卑しい人間の・・・』

 大尉は自分に納得させるかのように言って、医者とともに歩き出した。

 ◆

 マリーは戸口に立ってぼんやりしていた。家の前の道ははぬかるんでいる。ここは周囲より一段低い土地なので水はけが悪い。だから部屋の中もジメジメしている。

 そこへ遠くからヴォツェックが歩いてくるのが見えた。いつものようにせかせかと歩いている。猫背気味で歩幅は狭く、腕をだらりと下げていた。鼓笛隊長の姿勢の良い歩き方とは雲泥の差だ。

『こんにちは、フランツ』

 マリーが挨拶するとヴォツェックは頭に手をやって首を振り、それから睨み付けた。

『何も見えない、見えないんだ。見えないと手で掴むことができない』

『どうかしたの』

『お前はマリーか、確かにマリーか。恐ろしいほどの罪だ。天に届くほど臭う。天使を燻せるくらいだ。ああ、お前の唇は紅いな・・・水疱はできていないか』

 以前から夫の様子がおかしかったと感じていたが、それがさらに進行してきたのだ。顔が青ざめ、目が座っている。狂気の目だ。

『大丈夫? フランツ』

『美しいなあ、お前は。大罪のように美しい・・・だから、ああ、あう』

 マリーをきれいだと褒めいたが、ヴォツェックが突如叫びだした。

『ここに、この戸の前に、男が立っていたんだな』

『人が道に立っていたって、追い出すことはできないわ』

『ここにいたんだ』

『一日は長いし、いろんな人が通りかかる。そこに立った人もいるでしょうよ』

『見たんだ』

『太陽が照って、明るいなら、何だって見えるじゃない』

『お前はあの男と一緒だった』

 ヴォツェックは身体を硬直させ、腕をバタバタさせた。はぐらかされて、とうとう自制できなくなったのだ。気の強いマリーも負けていない。

『だから何だって言うの』

 マリーの反抗に遭ったヴォツェックは彼女に詰め寄った。右の拳を振り上げた。

『触らないで。私を叩こうっていうの、父親にもぶたれたことはないのよ。いっそのことナイフの方がましってものだわ』

『ナイフか・・・』

 ヴォツェックはとたんに大人しくなった。

『この世は地獄だ。眩暈がする、眩暈が』

 力なく下を俯くヴォツェック。その手には目に見えないナイフを握っていた。

 ◆

 兵舎のはす向かいに古い酒場があった。

 今夜も兵士や職人たちで賑わっている。薄暗い店内はブランデーの匂いと煙草の煙が充満していた。兵士や職人ばかりでなく、下級士官が町の女を伴って訪れることもある。

 ヴァイオリンとアコーディオンだけの楽団がワルツや民謡を奏で、フロワーでは若い男女が頬を寄せて踊っていた。踊りの輪の中には、鼓笛隊長とマリーの姿もあった。二人は抱き合って踊っている。鼓笛隊長の立派な体躯はどこにいても一際目立っていた。マリーは彼の胸に顔を埋め、男を放すまいと背中に回した腕に力を入れた。

 一人の靴職人が酒瓶を片手に歌い出した。酔っているのですっかり調子が外れている。

『~このシャツは俺の物じゃない。俺の魂はブランデー臭い。何だか分からんが、悲しくってしかたない、銭も腐るぞ~』

 パン屋の見習いがそれに絡んだ。

『おい、兄弟。俺たちの鼻が酒瓶だったら、勢いよく喉に流し込めるってもんだ。そしたらこの世はバラ色だ』

 二人して『酒だ、女だ、悲しくなる』と慰め合い、長椅子にへたり込んだ。

 ヴォツェックが酒場に入ってきた。目を凝らすと踊りに興じる人々の中に鼓笛隊長とマリーが抱き合っているのを見つけた。

 やっぱり、あいつだ。あの男だ。イヤリングをくれたのはあいつだ。自分が汗まみれで働いているスキにあいつはマリーの部屋に行ったのだ。

 このまま黙って見逃すわけことはできない。しかし、人数が多いうえに、クルクル回りながら踊っているのでは近寄ることができなかった。ヴォツェックは酔っ払いが寝込んでいる長椅子の陰に身を潜めた。騒がしい酒場の店内にあって、そこは照明の当たらない闇同然の場所だった。

 闇に潜むヴォツェックに見せ付けるかのように、鼓笛隊長とマリーは体を密着させて踊り続ける。ヴォツェックのところにまで、『楽しい』と、マリーの声が聞こえた。

『楽しいだと? せいぜい踊っているがいい。淫らに絡み合った男と女、人と野獣だ。マリーが熱くなっているな。あいつがマリーを抱きしめた、マリーは喜んでいる・・・畜生、覚えてろ』

 長椅子の背後から飛び出そうとしたとたん、音楽が止んで踊りの輪が解けた。勢いが付いていたヴォツェックは足がもつれて床に尻もちをついた。マリーは鼓笛隊長にエスコートされて奥の席へと移動した。

 若い兵士や職人たちが『ハリ、ハロ、ハリ、ハロ』と、大声でがなり立てるとアンドレアスがギターで伴奏を付けた。

『何時だ、アンドレアス』

 ヴォツェックがアンドレアスに時間を訊ねた。

『11時』

『もっと遅いかと思った。楽しいことをしている奴らを見ると、時計の経つのがやけにゆっくりだ』

『立てよ、ヴォツェック。そんなところで何をしているんだ』

『放っておいてくれ、追い出されるまではここにいたっていいだろう。冷たい墓場に寝ているみたいさ』

『酔っているのか』

『全然酔えないんだ』

 吐き捨てるように言った。

 酔っ払いが酒ビンを片手に椅子の上に乗ろうとしてバランスを崩してよろめいた。それをアンドレアスが背中を押して椅子に上らせた。酔っ払いは聴衆を見下ろし、意気揚々と演説を始める。

『お集まりの方々。時の流れに掉さした、さすらいの職人が、<どうして人はこうなのか>と訊ねました。だが、みなさん、これでいいんです。神が人を造らなかったなら、農夫も樽職人も、それに医者までも仕事がなかったじゃありませんか。神が人の心に羞恥心を与えなかったら、仕立屋は生計が立てられなかった。ですから、みなさん、ご安心ください。この世は虚しい、金はなくなるし、吾輩の魂はブランデーに満たされた・・・』

 やんやの喝采と、怒号が飛び交うなか、演説していた男は引きずり下ろされた。演説が終わって静かになると楽団が演奏し始める。あちこちに踊りの輪ができた。マリーと鼓笛隊長も踊っている。

 そこへジャガイモを転がしながら男がやってきた。この男、常に言動が一風変わっていることで知られている。男はヴォツェックに話しかける。

『たのしいな、たのしいな・・・おや、なにかにおうぞ』

『何か用か』

『ちのにおいだ』

『ち・・・血か。血だな、目の前が真っ赤だ・・・血だ』

 ヴォツェックは両手の指を曲げ、力を込めて震え出した。首を曲げてマリーと鼓笛隊長を睨み付けた。

『踊っているな、みんな。あいつもだ』

 調子の外れたヴァイオリンがギギーッと悲鳴を奏でた。

 ◆

 その夜のことだった。

 兵舎の宿舎では二段ベッドに兵士たちが泥のように眠っていた。ヴォツェックとアンドレアスは隣り合ったベッドの下段に寝ていた。誰もがぐっすり眠り込んでいる中で、ヴォツェックだけは目が煌々と冴えていた。

 むっくりと起き上がった。

『眠れないよ、アンドレアス・・・目を閉じるとあいつらの姿が目に浮かぶ。ヴァイオリンも鳴ってる、壁から声が聞こえる。お前には聞こえないのか』

『いいから、踊らせておけ』

『ナイフだ、幅の広いナイフが光った』

『寝ろって、ヴォツェック』

 宿舎の入り口が騒がしくなった。酔った鼓笛隊長が、宿直の兵士が止めるのも構わず入ってきた。ドアにぶつかったのもかまわず喚き散らしている。

『こら、よく聞けよ。俺は立派な男だ。いい女を手に入れた、いい女だぞ。あの胸、あの腰つき、最高の女だ』

 どこの女ですか、誰かが訊ねた。

『あいつに訊いてみろ、ヴォツェックに訊いてみろよ』

 鼓笛隊長がヴォツェックを見つけ、襟首を掴んだ。酒瓶を振りかぶってヴォツェックの頭にブランデーをかけた。ヴォツェックが払いのけると鼓笛隊長は瓶を放り投げた。たちまち二人は取っ組み合いを始めた。酔っていても鼓笛隊長のほうが遥かに力は強い。太い腕でヴォツェックをなぎ倒し、投げ飛ばしておいて足で踏み付けた。

 兵士は係わり合いになりたくないので毛布をすっぽり被って寝たフリをしている。鼓笛隊長が千鳥足で立ち去った。アンドレアスが心配してヴォツェックを覗き込んだ。

『血が出ている』

 ヴォツェックは床に倒れて呻いた。肘を付いて体を横向きにし、鼓笛隊長が出ていったドアを睨みつける。

『一人ずつ・・・やってやる』

 ◆


 **(wozzeck 3)**


 ◆

 夫のヴォツェックは給料を欠かさず渡してくれていた。陰気で面白みのない夫だが、家にはきちんと金を入れていた。大尉の髭を剃ったり、医者からも得体の知れぬ金銭を受け取っていたようだ。それなのに・・・軍楽隊の鼓笛隊長に身を任せてしまった。

 マリーはロウソクの明りで聖書を開いた。

『<・・・その中に虚偽はなかった。パリサイ人は姦通した女を連れてきた。だが、イエスは言った。お前を罰することはしない。行きなさい、二度と罪を犯さないように>』

 傍らにいる子供がおもちゃの人形を振り回した。

『この子の視線が私の胸に突き刺さる。あっちへ行きなさい。ううん、側にいるのよ、いい子だから・・・<昔、昔、一人の孤児がいました。身よりがなく、お腹を空かせて泣いていました、昼も夜も。身よりがなく、泣いていました>』

 ロウソクの火が消えそうになった。すきま風が吹き込んでくる。思い付いて聖書の頁をめくった。

『昨日も一昨日もフランツは来なかった。どうしたのかしら・・・マグダラのマリアについて、何て書いてあったっけ。<女はイエスの足元に近寄り、その足を涙で濡らし、キスをして香油を塗った> ああ、私にも憐れみを』

 聖書を閉じるとロウソクが消えた。

 ◆

 町の広場で十人ほどの子供が遊んでいた。男の子は木の棒に馬の頭部を付けた竹馬に跨って走り回り、女の子は木陰でお店屋さんごっこをしていた。

 十歳になるゲーテは一番下の弟カールを毛布でくるんで抱いていた。カールはまだ一歳になったばかりだった。父親が学校の先生なので、ゲーテは親に習って近所の子供をよく見ていた。ゲーテはマリーの子供にもそれとなく注意を払っていた。マリーの子供、三歳になる男の子は竹馬に乗った子を追い回していた。昼過ぎ、母親のマリーが子供を預けにきた。今日は父親が珍しく顔を出したので出かけると言っていた。


 何度同じ道を行き来するのだろう。マリーはいいかげん帰りたくなった。だが、ヴォツェックが指先に力を込めて放そうとしない。ヴォツェックはあきらかに異常だった。額に殴られたような傷跡があった。目はあらぬ方向を見て、視線を合わせようとしない。猫背がひどく、緊張して固く体に鉄の棒が入っているかのようだ。

 林の中へ入った。ブナやマツ、それにトウヒの木が生い茂り、昼間でも薄暗い。誰かが言っていた、この林のトウヒはクリスマスツリーにするには大きくなり過ぎていると。しかし、今はそれどころではなかった。

 細い道が池の周囲を巡るように続いていた。歩くと枯葉の音がカサカサとした。陽が傾いて霧が出てきた。子供のことが心配になった。近所の子供と遊んでいるうちはいいのだが、迎えに行くのが遅くなるとあの子が心細く思うことだろう。

『町は左よ、早く帰りましょう』

『マリー、ここへ座れ』

 朽ちたベンチを指した。

『もう、歩かなくていいんだ、ここにいろ。静かな場所だ・・・暗いな』

 ヴォツェックが手のひらで頬を撫でる。ゾクッとして震えがきた。肩に掛けたストールを胸元にしっかり合わせた。

『知り合ってどのくらいになる?』

『精霊降誕祭で三年』

『いつまで続くんだろうな』

『私、行かないと』

『怖いのか、マリー。お前は善良で貞節だよな。紅い唇だ。お前の唇にキスできるのなら天国の祝福もいらない。でも、それはできない・・・震えているのか』

 そう言ってヴォツェックは地面の一点を見つめ黙ってしまった。

『夜の霧が・・・』

『霧が降りても冷たい人間には寒くないだろう』

『何を言ってるの、いったい』

 どこかで枝の折れる音がした。それだけでマリーはドキリとした。ヴォツェックの気を逸らそうと空を指差した。

『月が真っ赤だわ』

『ああ、血だらけのナイフのような月だ』

 ヴォツェックはナイフを取り出した。

 貧乏をしたくないから、そう思って、大尉の髭を剃った。医者の実験に付き合って豆ばかり食わされた。給料は全部渡した。それなのに、マリーは鼓笛隊長と深い仲になった。

 全てを解決できるのはナイフだけだ・・・

『何を震えているの、どうしたの』

『何もしないよ、俺も、他の誰かも、もう何もできない』

 ヴォツェックはマリーの喉元にナイフをあてがった。

『助けて』

 マリーがベンチの後ろに倒れ込んだ。

『・・・死んだ』

 ◆

 ヴォツェックはその足で酒場に駆け込んだ。

 いつものように酒場は客でいっぱいだった。ヴァイオリンとアコーディオンに、それに鍵盤楽器が加わった楽団がテンポの速い音楽を演奏し続けている。

『踊れ、踊れ、悪魔が来ても踊っていろ・・・』

 ヴォツェックはマルグレートの姿を見つけた。

『ここへ来い、マルグレート。お前は炎のように熱い女だ。それも、もうじき冷たくなるだろうよ。どうだ、歌ってくれ』

 鍵盤楽器が隣り合った鍵盤を鳴らした。その不気味な不協和音に合わせてマルグレートが声を張り上げた。

『~長いドレスはいらない、ドレスもヒール靴も、召使いには似合わない~』

『靴なんかいらん、地獄へは裸足でもいけるんだ。今夜は暴れてもいいか』

 マルグレートが異変に気付いた。ヴォツェックの右手が赤く汚れている。

『その手は・・・真っ赤じゃない、血だわ』

『血、血、ああ、右手を切ったんだ』

『肘にも血が付いている』

 二人、三人と集まってきた。ヴォツェックが手を動かして血を拭く動作をした。

『拭いた、こうして拭いた』

『右手で右腕を?』

『人の血よ、何をしたのヴォツェック』

『お前たちには関係ない。人殺しとでも言うのか』

 酒場の客に責めたてられヴォツェックは転がるように外へ飛び出した。

 ◆

 月明りを頼りにかろうじて池の畔にたどり着いた。

 ナイフだ、ナイフはどこへいった。

 ヴォツェックは這いつくばってナイフを探した。

『ナイフはどこだ、どこへ置き忘れたんだ。もっと近くか。何かが動いている、いや、みんな死んだ。あいつらが叫んでる。<人殺し、人殺し>。違った、自分の声だ』

 マリーはどこにいったのだろう。

『ストールは、マリーの首に巻いたはずだった。イヤリングと同じように罪を犯して手に入れたのか。マリー、髪が乱れてるじゃないか』

 赤い月に照らされて何かが光った。その辺りの池の水面が揺れている。

『あった、ナイフだ・・・早くしないと、水に沈んでしまう。月が俺の罪を暴くかもしれない。血のような真っ赤な月が見ている』

 ヴォツェックは片足を池の中へ踏み込んだ。ズルリと滑って両足が埋まった。

『水辺に近すぎるな、ここでは誰かに見つかってしまう。ナイフ・・・血を洗わないと。ダメだ、どこもかしこも血だらけだ。血の池だ』

 池の水は真っ赤だった。霧が出てきた。池の水面が波立ち、盛り上がってくるような気がした。このままでは水に飲みこまれる。

 ヴォツェックはまた一歩、また一歩、池の中へと足を踏み出した。腰まで水に浸かった。そこで深みに足を突っ込んだ。水中に前のめりに倒れ込む。濁った水底に見えるのは落としたナイフか、それとも、マリーの瞳か・・・

 ◆

 大尉と医者の二人は下級士官の家から帰る途中、林の中を歩いていた。ここは兵舎に戻るには近道である。霧が出てきた、ときおり鳥の鳴き声も聞こえている。

 医者が立ち止まった。大尉もつられて足を止めた。

 鳥の鳴き声ではない何かの音がした。

『待って』

『聞こえますか、あの辺りだ』

 医者がステッキで音がした方向を指した。池に棲む魚が撥ねたような音だ。続いてボコボコと沈んでいく音もした。

『音がしました。池の水です。水が誘うんです、このところ溺死者がいませんからな。やぶ医者殿』

『誰かが溺れているんじゃないですか、大尉殿。呻き声がします』

『赤い月に鬱陶しい霧。不気味だ。まだ聞こえますか』

『いや、大尉殿、声がしなくなった』

『先を急ぎましょう』

 不安に駆られた二人はそそくさとその場を立ち去った。

 ◆

 一夜明けて、町の広場では今日も子供たちが遊んでいた。いつもと変わらぬ光景だが、一つだけ異なっていたことがある。昨夜、マリーは男の子の迎えに来なかった。心配したゲーテは家に連れて帰った。母親が食事を与えて自分の子供と一緒に寝かせた。ゲーテは朝になってマリーの家に行ってみたが、まだ帰ってはいなかった。

 何も知らない子供たちは竹馬に跨ったり、追いかけっこで遊んでいた。

『回る、回るバラの花、回る、回るバラの花・・・』

 そこへ一人の子が駆け込んできた。

『ゲーテ、マリーが』

 やはり何かあったのだろうか、誰もが顔を見合わせて足を止めた。その子がマリーの子供に近づいた。

『知らないの? みんな見に行ってるよ。お前のママは死んだんだって』

 マリーの子供は右手に掴んだ竹馬を放そうとしない。

『どこにいるの?』

 ゲーテが訊いた。

『池の側だってさ』

 みんなが一斉に駆け出した。ゲーテはカールを抱いているので走れない。おっかなびっくり振り返った。

『ホップ、ホップ、ホップ』

 マリーの子供は竹馬に跨ってぐるぐる回り続けていた。

『ホップ、ホップ、ホップ、ホップ・・・』

 ◆


 *****


 アルテハイムの町(2)


 語り終えたクラウスお爺さんはビールを飲み干すとソファに背中をあずけた。話し疲れた様子だった。すでに時計は午後の一時を指していた。お爺さんの話は休憩を挟んで三時間にも及んだ。お爺さんの話を、私に分るように英語に訳してくれたルルもさすがに疲れた表情をしていた。

「子供がいたんだ、マリーの子が」

 ルルがお爺さんの言葉を通訳した。

「わしよりも五つくらい年上だった。町の人たちは両親が死んで心配していたんだが、その子は親に似ずしっかり者で、大工の親方になった」

「それは良かったですね」

 両親が亡くなったあと、広場で無邪気に遊んでいた子供のことだ。貧困、精神の病い、そして妻殺し。暗い悲しい話だったが、残された子供が成長して腕のいい大工になったと聞いて救われる思いがした。

「マリーの子供が大工の修業に出たとき、カールも後を追うようにしてシュツットガルトに行った」

 カールとは広場の遊び仲間で、その当時は小さくてお姉さんのゲーテの腕に抱かれていた子供のことだ。

「父親のエーリッヒが学校の先生をしていたこともあって、カールは良く勉強ができた。町一番の優等生と評判だった。だが、その当時はナチスが台頭してきた時期だった。そこで、迫害から逃れるために、父親はカールの名前をスペイン系の呼び方、カルロスに変えた。その後、カルロスはシュツットガルトの大学に進んだそうだ」

 私は心臓が飛び出しそうになった。私の祖父の名はカルロスである。

「祖父の名前もカルロスでした」

「カルロスは、その後どうなったの?」

 ルルも驚きを隠せない。

「エーリッヒの一家は戦時中に町を離れてしまった。どうなったかは聞いていない。わしが知っているのはそこまでだ。」

 アルテハイム出身のカルロスという名前の子供がいた。そして、祖父のカルロスはアルテハイムを写した数枚の写真、建築中のバウハウスの家や、兵士が溺れた池の写真まで持っていた。これは単なる偶然の一致だろうか。私には偶然とは思えなかった。

「ハヤトのお爺さんが、今の話に出てきたカールだったのよ、きっと」

「そうだと思う」

 カールという子供が祖父カルロスと同一人物である可能性は限りなく高い。

 1928年生まれの祖父が少年時代を過ごしたのが40年代、その後、シュツットガルトの大学に進学し、日本に留学したとすると時代的には合致している。カール改めカルロスが私の祖父であることは確実だ。アルテハイムを写した写真を撮ったのは、カールではなく、父親のエーリッヒ、すなわち曽祖父ではないだろうか。

 お爺さんのおかげで写真の謎は解決した。

 しかし、ルルのお爺さんからこれ以上聞き出すのは難しかった。昔のことで記憶が薄れているし、兵士が死んだという事件はあまりにも暗い出来事だった。根掘り葉掘り、町の人が触れられたくない過去を聞き出すのは控えた方がいいだろう。

 私は池の畔で遭遇した怖い体験を話そうかどうしようかと迷った。もし、これまでに同じような経験をした人があれば、今でも、池には近づくなと話題になっていてもおかしくはない。となると、池の水面が波立ったことや人声が聞こえたのは、旅人である私だけに降りかかった出来事だったかもしれない。

 昼食を勧められたのでいただくことにした。ケーゼシュベッチェルという、パスタを茹でてチーズで和えた一品とポテトフライだった。

 私はお爺さんにお礼を言い、通訳してくれたルルにも、ありがとうと言った。

「こんなに英語を喋ったのは久し振りよ。初めて聞いたことばっかりだったから英語に直すのが大変だったところもあった」

 ルルはミネラルウォーターを飲んだ。お爺さんは相変わらず黒ビールだ。

「酒場のシーンで鍵盤楽器って言ったでしょう。考えたらピアノでもよかったんだ。ドイツ語ではグラビア、英語ではピアノだから」

「そこまで気が付かなかった」

「グラビアを英語風に発音するとクライバーみたいになる」

 帰りはルルがバス停まで送ってくれることになった。今日はトラックではなく父親のワーゲンだ。トラックのときよりはかなり慎重な運転だった。

 話題はサッカーの話になった。来月にはワールドカップ2018・ロシア大会が開催される。ドイツと日本チームは別のグループに入っているので直接の対戦はない。お互いのチームを応援しようということになった。

 話しているうちにバス停が見えてきた。

「お爺さんに話を聞けてよかった。というか、バスを降りて困っていたときにルルに遇えたことが一番ラッキーだった」

「カールが、カルロスが日本へ行って、日本人と結婚したからハヤトーが生まれた。そうしてハヤトーがアルテハイムに来た。私たちにはそういう繫がりがあったんだね」

 そこで私はふと思った。

 私のお爺さんカルロスと、ルルのお爺さんは一緒に遊んだ仲だった。何十年経って、こうして私とルルが会ったのも生まれる前から定められた運命だったかもしれない。

 ここで別れるのかと思うと寂しくなった。

 私はルルの写真を撮った。

「今度はルルが日本に来て」

「行くわ、きっと、ハヤトー」

 名刺を渡した。裏には住所を英語で書いてある。

「ところで、ルルが私の名前をハヤトーと引き伸ばすのは何か理由があるの」

「ワルキューレの掛け声よ。ワルキューレたちがハヤトー、ハヤトーって叫んでいる」

 ハヤトーは、ワーグナーのワルキューレの騎行から類推したようだ。

「ワルキューレは戦死した死者を天上の世界に連れていって蘇らせるのよ」

 死者を蘇らせる・・・

 池で溺れて死んだ兵士も生き返らせるとしたら・・・

 ルルはワルキューレなのか、私はそう訊いてみたくなった。

 


 「小説 ヴォツェック」終わり




 ・後書き

 「小説 ヴォツェック」をお読みいただきありがとうございました。

 オペラのラストでは、マリーの子供が、両親が死んだことを知らずに遊んでいるところで幕が下ります。私は、このままだと子供の将来も悲観的なものになってしまうのではないかと思いました。そこで、ルルのお爺さんの話として、子供が成人して腕のいい職人になったということにしました。

 「ヴォツェック」は、ただでさえ怖いオペラなのですが、演出によっては気持ち悪い、正視できない舞台もあります。ほとんど狂気の世界です。それに加えて、不協和音が鳴り響くし、歌詞を絶叫します。それでも、この怖くて不気味なオペラ「ヴォツェック」は現代でも繰り返し上演されています。

 オペラ「ヴォツェック」の舞台は動画サイトに何本も掲載されています。また、「wozzeck trailer」で検索すると予告編動画が見られます。

 作曲者アルバン・ベルクには「ルル」というオペラがあります。「ヴォツェック」が貧困、精神の病い、殺人ならば、「ルル」は、「性に奔放な女性」、ということに尽きます。ルル役の女性歌手が下着姿で男を誘惑し、不協和音と悲鳴のような歌がギンギン響くオペラです。現代でも前衛的といわれそうな舞台が、百年間に制作されていたことに驚きます。

 小説のプロローグではルルという女性を登場させ、オペラ「ルル」の雰囲気も出してみました。蛇が登場したり、新聞社の編集長と息子という件は「ルル」を引用しました。

「ヴォツェック」の初演を指揮したのは、エーリッヒ・クライバーで、怖い内容にかかわらず大成功だったそうです。エーリッヒ・クライバーの息子、カルロス・クライバーも指揮者になり、こちらはめったに指揮をしないことで知られていました。元はカールという名前でしたが、ナチス政権の時代、南米に渡った際、カルロスと名乗ったそうです。小説でもこのエピソードを使いました。


【補遺】

 ・オペラは演出が盛んなのに、日本の歌舞伎はほぼ演出が不可能である。このことは以前から考えていた。拙作「番外編・くわしい探偵社」(ナクソス島のアリアドネ)と「小説 ラインの黄金」では私なりに演出を施してみた。今回の「小説 ヴォツェック」では原作に近いと思われる設定にしてある。それは、第一に、オペラを回想という形で挿入したためである。第二に、ヴォツェックを演出して近未来の話にしたりすると、このオペラを観たことがない人にとってはまったく理解不能になると思ったからである。

 演出について言うと、歌舞伎には「型」があるが、オペラには「型」に相当するものがない。従って、演出が可能なのである。


 ・地方の都市に、そこに伝わる「伝統歌舞伎」がある。もっと言えば、「農村歌舞伎」である。東京の、もしくは江戸の歌舞伎を、そのままそっくりに田舎で演じるものだ。また、日本では全国を巡回する小芝居の劇団がある。地方の公民館やあるいは温泉施設などで、人情物の時代劇や歌謡ショーを演じる。それでは、ドイツやイタリアには日本と同様の農村オペラといったもの、あるいは巡回型の小オペラがあるのだろうか。この件についてドイツを例に調べたところ、ドイツはかつては連邦国家であり、その州都ごとに劇場が建てられので、一極集中ではなく、地方の方が劇場が多いということが分かった。

 ドイツは国内に多数の劇場があるので、必然的に、独自色を出そうとする傾向がある。そこで他とは異なる演出が盛んにおこなわれるようだ。


 ・次に、ドイツではオペラは「創造」の場であるということだ。原作と同じ、他の劇場と同じでは創造にはならない。それは問題提起型の演出であり、現代社会に通じる演出である。観客はオペラを観て社会の問題や、自分の感じたことを語り合ったりする。受け身の姿勢ではなくなるのである。

 これに対し、歌舞伎は「鑑賞」するものであるといえよう。そもそも、歌舞伎は演劇としてではなく役者を見るものなのである。

 日本ではオーケストラのコンサートであれ、オペラであれ、鑑賞することに重点が置かれていると思われる。言ってみれば、西洋の文化を有難く拝聴するということだ。カラヤンが来日したときの雰囲気はその顕著な例だったと聞いている。

 このことは、美術についても当てはまるのではないだろうか。日本では昭和の中頃まで「泰西名画展覧会」と銘打った美術展が開かれていて、西洋の絵画は有難く鑑賞するものだったのである。


 ・オペレッタについてもみてみよう。オペレッタとは軽妙で娯楽性の高いオペラのことを指す。

 1860年代のイギリスに、ギルバート&サリバンの作による「戦艦ピナフォア」「ペンザンスの海賊」「ペイシェンス」などのオペレッタがある。たいてい若い男性が主役で、相手役の女性ヒロインがいて、二人を邪魔する脇役、あるいは仲を取り持つ役がいる。さらにヒロインの仲間の若い女性が十人ほど出てくるのが特徴だ。音楽も少人数のオーケストラである。イベントで上演されたり、学生が演じたりすることがあるようだ。ギルバート&サリバンのオペレッタはクラッシック音楽のカテゴリーには入らないとされているようだ。同じオペレッタでも、「こうもり」や「メリー・ウィドウ」「地獄のオルフェウス」はクラッシックの範疇である。


 ・オペラ「ヴォツェック」は1925年の作品で、日本での初演は1963年である。

 前作「小説 ラインの黄金」で取り上げたワーグナーの「ニーベルングの指環」の初演はもっと遅い。四部作は順番に、「ラインの黄金」の日本初演は1969年、「ワルキューレ」が1967年、「ジークフリート」が1983年、「神々の黄昏」は1987年である。初めの三作は単独上演だが、「神々の黄昏」は単独ではなく84~87年にかけて四部作を通して上演された中に含まれる。1987年といえば昭和62年、すなわち年号が平成に変わる二年前である。その時期まで、日本で上演されなかったことに驚きを禁じ得ない。「ニーベルングの指環」の完成は1874年だから、日本で初演されるまでにおよそ百年を要したことになる。

 これをミュージカルと比較してみるとなおさら驚く。「マイ・フェア・レディ」はブロードウェイ初演が1956年で日本初演が1963年。「ウェストサイドストーリー」はブロードウェイが57年で日本初演が64年である。

 * 「ヴォツェック」の部分的初演は1937年という見方もある。

 * 「ニーベルングの指環」の全体初演は1987年、ベルリン・ドイツ・オペラによるとする意見もある。


 今後、この辺りをもう少し調べてみたい。




 参考文献

 小学館 魅惑のオペラ29巻「ヴォツェック」他 

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小説「ヴォツェック」 かおるこ @kaoruko88

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