岩座守転変編
第8話 いさりがみ・ばっくぼーん
◆
唐突だがここで
これは、自分がまだ魔術師だとか怪異だとかを正確に理解できていなかった頃の話で、師匠と出会うきっかけとなった話で――そして、復讐の原点の話でもある。
◆
「いいかい、鷹彦。お前の瞳は他の人は違うんだ」
「どうして?」
「鷹彦の目はね、本当はないものを見てしまう。でも、そのことを決して口外しちゃいけないんだ」
「でも、区別ができないよ?」
「知らんぷりだ。友達が喋る内容に合わせて、友達には何が見えていないのか、それを判断するんだよ」
「そんなの、できないよ」
「大丈夫、もう少しで慣れるよ。みんな、そうだった」
「父さんも?」
「ああ、父さんもそうだからね」
「そっか! ならおれも頑張ってみる!」
それは真実と虚構の狭間、通常では認識不能な領域さえも視てしまう、超常の瞳。魔術師という連中はそれを魔眼といい、それは「境界の魔眼」と呼ばれているらしい。
自分はでも、魔術師でもないし、そういうオカルトが好きじゃない。
だからずっと、これはただの病気で、つまりはどうかしてる自分の脳が見せる幻覚の一種なのだろうと思っていた。
子供の頃、よく聞かされていた父の言葉は、それを上手く誤魔化したもので、俺が学校でハブられるのを回避するための嘘なんだろうなと、自分なりに考えていた。
思春期の頃はよく、病院に行くべきではないかと思ったものだ。
けど、その考えは自分が高校生の頃に覆ることとなる。
それは兄である
兄は生まれつきの幻覚持ちではなかった。正確には、ごく稀に幻覚を見る程度で、生活に支障をきたすレベルでじゃなかった。それがある年から突然悪化した。
今までは順風満帆で線路の上を歩いてきたようにまっすぐだった人生。そんな人生は面白くないものだと声高に言う者もいるけれど、兄の生き方は人間の生活のあるべき姿、といった風に健康的で、弟の俺も、胸を張って自慢できるような兄貴だった。
けれど、一瞬で崩壊した。
まるでカラスに置き石をされたように、兄はレールから脱輪し、イレギュラーが全てを呑み込んでいく。
大学生だった兄がじわじわと体の不調を訴え始めたのがきっかけだった。
最初は、疲労が原因で少し休めば回復するだろうと誰もが思った。だって、そうしていれば普通は治る。病気というのはそういうものだろって、勝手に思い込んでいた。
風邪にせよ、うつ病にせよ、安静にしていれば問題はないと。
実際は違った。
何も解決しなかった。
体がだるい。
熱がある。
最近風邪気味で、腹も痛い。
市販薬でも治らない。
病院で処方されても治らない。
かかりつけ医はただ様子見を続ける。
入院ほどじゃないけれど状態は悪いね。そんな状態がしばらく続いて、最終的に兄はおかしなことを言い始めた。
「鷹彦、お前の背中にある、そのウジみたいなの、なんだよ……やめろよ気持ち悪い」
「ウジ?」
「そうだよ。そのぶよっとした白い虫みたいな」
当然、そんなものを身につけた覚えはない。兄の指さす所を手で払ってみせたけど、解決することはなかった。
このとき始めて、幻覚の症状が顕著になっていると理解した。
「
幻覚だよと、はっきりと伝えた。
俺みたいに生まれた時から幻覚と付き合っていなかった兄は、悪化していく幻覚に耐えきることができなかった。
だから、心療内科を頼ることにした。それまで優等生だった兄が、ぴしゃりと大学に顔を出さなくなる。それを大学側が憂いてくれたのか、心理カウンセラーの先生を紹介され、さらにその先生の紹介で病院へ行くこととなった。
けれど、どんな薬を使っても、幻覚という症状だけは決して治ることがない。数ヶ月、半年と通院したがそれは同じだった。
だから兄を担当した医師はやりすぎだと言っても過言ではない処方箋を出した。
幻覚を抑えることがどの薬を利用しても不可能なのであれば、患者本人の意識そのものを混濁させてしまえばいい。今までよりももっと強力な薬を処方すれば、根本的な問題は解決せずとも、本人は楽になれる。
実際、兄は薬が強力になってからは幾分も心が楽そうであった。それまでは頻繁にあった、真夜中に突然叫び始める、なんてこともなくなったし、笑っていられる日が増えた。
でも、強力な薬っていうのは相応の副作用が発生する。
これまでキビキビと学校に行き、規則正しい生活をしていた兄は、そのバランスを崩壊させてしまい、ついには大学を退学にまで追い込まれた。
睡眠障害、ナルコレプシー、極度の頭痛に脱水症状と高血圧。まぁ色々な副作用が兄の身体をズタズタにしていったからだ。
それでも兄は薬の服用をやめなかった。やめれば地獄のような幻覚が延々と続く。それに耐えきれるキャパもない。
服用している薬をやめるという選択肢もなかった。離脱症状というものにしばらく苦しめられることになるからだ。
悪循環とは正にこのこと。
両親もどうすれば解決できるのか、その答えを持っていなかったからか、兄のことは穏やかに見守るしかなかった。
この件から俺は、薬物療法による治療は絶対に不可能だと悟り、幻覚と上手く付き合っていく道を選ぶしかなかった。
兄は本当に大学に行かなくなった。これまでの二十年弱の人生をまるできっぱりと捨て去ったように自堕落に時間の浪費を続け、性格さえも悪い方向へ変化してしまった。
「
「うるさい! お前の俺のなにがわかる! 俺の眼は、頭は、もうダメなんだよ! このままじゃ、このままでは!」
そう言って、兄は自分の頭をひたすらに叩いた。
ずっと寝てばかり日々。起きてきたとしてもぼうっとしてばかり。
昔っから中の兄弟だとさんざん言われてきたけれど、今はもう、弟の言葉を聞きもしない。
兄はこのままゆるやかに死んでいくのだろうか。そんな風に考え込んでしまうことすらあった。
そんなとき、状況を打開しようと動いてくれたのが心理カウンセラーの人で、兄もカウンセラーの人に対しては機嫌よく現状や体調について相談していたみたい。
おかげで、こっちも肩の荷が下りるような気分だったし、いつの間にか兄のことはそのカウンセラーの人に任せっきりになっていたのは事実だと思う。自分だって、もうじき高校卒業で、その先には大学進学がある。兄のようになってはいけないと自分に鞭を打って、必死に勉強していた時期だったから。
両親は兄がこんなに苦しんでいるというのに、ずっと放置気味だった。それは共働きである――ということもあったけど、それ以前に、「こうなってしまっては、もう回復の見込みはない」という考えが両親の頭の中にはあったのだと思う。
岩座守家には、親戚までもが同様の幻覚に苦しんでいるという話があり、それを寛解させることなく親から子へとバトンを繋いできた。
だから、岩座守家の人間は生きるうえで極端な二択を迫られる。
幻覚を受け入れて、みなと同じように生きるか。
心を閉ざしてひきこもるか。その、二択。
常に他者より枷をつけられているという感覚はあるが、受け入れなければ前に進めない。真っ当な人間として生を終えるなら、その痛みに対し、鈍感になるしかない。耐えられない者が最後に辿る結末は――――言いたくはないし、言うまでもないだろう。
兄はその二択で、心を閉ざした。
両親はそれで、「もうダメなんだな」と思ったのかもしれない。
いつからか兄はカウンセラーに対し依存するようになった。
なにかあればカウンセラー。困ったらカウンセラー。親や弟の話は聞かず、カウンセラーの話だけを鵜吞みにして行動する。
母は心労で倒れて、入院することになった。
父は母の分も稼ごうと休日も帰ってくることがなくなった。いや、本当は家に帰りたくなかっただけだろう。自分の息子がおかしくなった様を直視したくなかっただけなのだろう。
かく言う自分も、家に帰る頻度は減った。なにかと理由をつけて、母が退院した後も友人の家に泊まり込んだりして、少しでも家にいる時間を減らす努力をしていた。
そんなある日、自分の家のすぐそばに赤色灯を光らせた車が何台も止まっているのを見てしまった。その日はバイトで、そのままカプセルホテルに宿泊する気でいたけれど、それどころじゃなかった。
「ご家族の方ですか」
警官だろうか、敷地内へ入ろうとしたところをがっちりと止められた。
後ろでは、野次馬が好き放題にあれやこれやと下賤な言葉を飛ばしている。
「ひきこもりだったんですって?」
「ニートだよニート。お母さん、可哀そうに」
「昔はいい子だったのに」
奥歯が痛い。血が出そうなほど、食いしばっていた。
胸も苦しい。まともに息ができそうにない。
昔はいい子だった? どのツラでそんな言葉を口にしている。
ニート?
引きこもり? だからなんだって言うんだ。誰だって、一度や二度そういう時期は経験するかもしれないだろうが。
じんじんと、眼球が変形してしまいそうなくらい、圧力がかかっている。心も体もどうかしてしまいそうだったけど、とにかく、家族である俺は全てを知る権利と、責任がある。
「岩座守、鷹彦………鷲介の弟です」
警官の顔は見れなかった。自分は黒く淀んだアスファルトの方をじっと見ていて、表情からどんなことがあっただとか、家族の情報を少しでも摂取しないように努力した。
身分証の確認などもされた気がするけど、当時は、警官が次に何を言うのか、それだけをひたすらに待っていて、頭は真っ白だったと思う。
たった数分でも赤色灯の数はまだ増えていき、黄色い規制テープが次々に展開されていく。野次馬の距離は少しだけ遠のいた。
警官は俺を警察車両の方まで誘導し、その途中、小さな声でこう言った。
「お母さまとお兄さまが亡くなられました」
ただ機械的に、たった一言。
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