第6話 心を灼く茜のそら

「今日も今日とてやることナシ。あーヒマだった」


 岩座守鷹彦オレはわざとらしく背を伸ばし、そんなことを漏らす。視線の先には一人、悶々とした顔で考え込む花鳥琥珀の姿があった。

 反応がないので、今度は少しばかり大きな声で、もう一度。


「あー、あー。今日もヒマだったナー!」


 ソファにどっしりと座ったまま、それでも琥珀は動かない。俺はこれまたわざとらしく肩を落とし、見かねた師匠が一声こう言った。


「今日は解散だ。花鳥。お前はもう帰りなさい。晩ご飯の時間、だろ?」


 琥珀ちゃんは一瞬師匠の方を見て、少し考えた後、立ち上がって玄関の方へ向かった。


「おつかれさまです……」


 少し元気がなさそうに、そう告げて。

 扉が閉まった音を確認すると男二人してため息をつく。


「女の子の気持ちってよくわからないッス」


「ああ、まったくだ」


「師匠は鈍感というか……いや、それ以上に大切なモノが抜け落ちている気がするけど」


「あのな……いや、まったく、そのとおりなんだが。よく妻にもそんなことを言われるよ」


 片腕はほとんど動かないというのに、師匠は慣れた手つきで煙草を取り出し、火をつける。


「『巴くんは、もっと私の気持ちを考えてよ!』とかね。よくあった。娘ができてからそれはそれは減ったけど」


「高校時代からの縁なんスよね? だったら、喧嘩なんて少ないんじゃないスか?」


「高校時代からの仲だから円満な夫婦――にはならんぞ、鷹彦」


「ふーんそうなんスか。今はすげー円満に見えますけど」


「今は、な。二十代の頃は酷かったぜ? 喧嘩喧嘩喧嘩。何回別れたかなんて片手じゃあ数えられない」


「なんか意外。蒼さ――奥さんが怒るイメージとかあんまりないッスよ?」


「いや、よく怒るよ? 大体は向こうが怒ってこっちが反論して仲が悪くなるんだよ」


「高校時代からの仲なのに? その辺配慮とかできないんスか、師匠」


「なぁ、全面的に俺が悪いと思ってるのか鷹彦くん」


「え? 違うんスか?」


「………………まぁ、うん」


 言い訳するのも面倒くさいなと思ったんでしょう。師匠はそれで話を切った。


「はいはい。俺たちも帰るぞ。鷹彦、ついでに娘の送迎頼む」


「うッス。いつもの駅前の塾ッスね」


 俺は師匠のデスクの引き出しから車のキーを取り出すと、そのまま車庫へ向かう。師匠も早めに煙草を吸い終えて、灰皿で先端をすり潰すと、身支度をしようと立ち上がった。

 そんなとき、師匠は一言ぽつりと呟いた。


「今日はイヤな風だ」


 ◆


 私はバカだ。自覚はある。

 勉強もできないし、目立った才能もない。

 できることがあるとすれば、それは、周囲を笑わせることとか、そういっただれでもできる簡単なコミュニケーション。

 ただ、それにつかれている自分もいた。


 みんなと楽しく学校生活を送りたいだけなのに。

 だれかのためにやさしくできる人間になりたいだけのに。


 なぜだか、後ろ指をさされている気がしていた。

 なんだかすごく息苦しくて、頭に空気がまわっていない。私はアスリートじゃないのに、なんだか胸が苦しくて痛い。

 毎日が同じことのくり返しで、楽しいとか、そういうことをあんまり感じることは少なくなったのかなと思う。

 中学校に入学する前までは少なくともちがった。

 これからは新しい生活が始まるんだってドキドキして、次の日が楽しみだった。ブレザーに袖を通すだけでもうれしくって、かがみを見てくるりとまわったりもした。

 でも、どうしてだろう。

 どうしてこんなにも苦しくなってしまったのだろう。

 自分でもわからない。

 解決方法もわからない。

 誰も答えなんて教えてくれない。

 みんながどんどん遠くなる。

 離れていく。

 廊下に貼り出されるテストの順位。それは、こんな時代なのに、まだデジタルじゃなくってアナログで、白黒のただひたすらに事実だけが書かれた大きな紙が一番目立つ場所に貼られている。


「私勉強してきてない」

「俺、ノーベン‼」

「部活が昨日県大会でさー、ほんとヨユウないわー」


 なんて言っている人たちが、それが当然だと言うように名前を連ねている白い紙。

 私は、本当にバカなのかな。

 あれだけ勉強したのに、人一倍がんばったはずなのに。

 ずっと、自己コウテイ感が低くなるばかり。

 ああ、早く大人になれたら。

 きっと、

 きっと。

 自由になれるはずだよね?


「つ、付き合ってください!」


 なんて言われたのは、ちょっと意味のわからない事件の主犯として私がよくわからない事務所に連行されてからそう時間の経過していないある日。

 自分を取りまく環境とか、両親が私に対してどんな目で見るようになったかとか、そういったものがガラリと変化して、その変化を受け入れるに手いっぱいだったとき、そんな甘美な言葉を、同じクラスの男子から言われた。

 名前は知っている。

 顔もよく知っている。

 彼はクラスじゃあ人気も人気で、成績こそ平均的ではあるけれど、それ以外はほとんど非の付け所がないひとだった。

 別に、自分は彼を好きだったわけじゃない。

 そういうのには、興味があんまりなかったから。

 けど、いざ告白されてみれば、まるでスイッチをかちんと押し込まれたように、一種の洗脳のように、その瞬間から彼のことを考えるようになった。


 回答にこまって、それでもなにか言わなくちゃと思って、私は思わず、「はい」と言った。


 それからのことは、あんまりおぼえていない。

 ただ、これからわたしたちはカップルなんだ、ということを、ぼうっと考え続けていたと思う。


 ◆


 かぁ、かぁ。とカラスが泣いている。

 居場所をなくした鳥が、たった一羽で泣いている。

 茜色に染まった空を見上げても、空にはなんにもなかった。

 雲一つない快晴だった。

 私は、そんな空が嫌いだ。

 かぁ、かぁ。とカラスが嘆いている。

 頭にずっと、その音がこだまする。鼓膜から、脳から、振動でどうにかなりそう。

 唐突に湧いてきた吐き気をおさえて、ちゃんと前を見ようとするけれど、身体は言うことを聞かない。

 最近疲れていたのかな。

 低血圧とか貧血とか、そんな類いのものだろう。

 大丈夫、きっとその辺りの人が助けてくれるはずだから。


 目の前に黒いものがぐしゃりとおちた。


蛇蝎だかつとなりて、おのが心を解き放て」


 なんのことだろう。

 まぁ、いっか。

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