二六章 鬼の国の少女たち

 アーデルハイドたちは鬼界きかいとうに上陸した途端、急いで岩陰に隠れなければならなかった。

 鬼部おにべの軍勢が海岸を警戒していた……というわけではまったくない。そこにいたのはある意味、鬼部おにべなどよりよほど恐ろしい存在だった。

 それはワニ。

 全長一五メートルを超えようかという巨大なワニが、くいが生えているかのような牙だらけの巨大な口と、巨人族用のヤスリを全身に張りつけているかのような巨大な体を見せつけて、海岸の砂浜の上をノシノシと歩きまわっていたのだ。

 その大きさたるやアーデルハイドたちの知る最大のワニの実に三倍以上。その存在を一目見た瞬間、自分がこびとになってしまったような感覚を覚えたのも無理はない。そして、恐ろしいことに――。

 その巨大ワニを襲う巨大な走鳥そうちょう

 長くまっすぐに伸びた首の上についた頭。その頭頂部に至るまでの高さ、およそ一〇メートル。二階建ての家の屋根すら優に超えてしまう高さにある頭を振りおろし、ハンマーのようなくちばしで巨大ワニの背中に食らいつく。

 ワニももちろん黙って食われたりはしない。その巨体からは考えられないほどの素早さで走り抜け、走鳥そうちょうの足に食らいつこうとする。

 人の世の常識では考えられないほどに巨大なワニと走鳥そうちょうの死闘。

 食うか食われるかの争い。

 そんな争いに巻き込まれてしまえばちっぽけでひ弱な人間など、紙切れのように引き裂かれてしまうだろう。

 ――自分たちは異界へとやってきたのだ。

 これほど、その事実を思い知らされる光景もまたとなかった。

 「な、なんなんですか、あの連中は!」

 岩陰に隠れてワニと走鳥そうちょうの死闘を見ながらチャップが小さく叫んだ。

 「なんで、あんな化け物どもがいるんですか⁉」

 「なんでと言われても困るけど」

 と、アーデルハイドは冷静に答えた。

 「うさぎからの報告にも記されているわ。鬼界きかいとうには、わたしたちの常識では考えられないほど巨大で危険な生き物たちがひしめいているって。勇者ガヴァンとその一行が戦果がないままに引き返す気になったのも、大地を闊歩かっぽする巨大生物を見たためらしいし」

 「巨大生物って……デカすぎでしょ⁉ あんなの、ただの化け物ですよ!」

 チャップがそう叫ぶのも無理はない。

 鬼界きかいとうに上陸していきなり目撃した生き物たちは、人の身からすれば理不尽までにデカくて危険な存在だった。そんなチャップにカンナが苛立った声を向けた。

 「なんで、あんたがそんなに驚くのよ。あんたは熊猛ゆうもう紅蓮ぐれんたいの一員としてこの島に乗り込んだんでしょ」

 だったら、この島の生き物だって見ているはずじゃない。

 カンナの言い分はもっともなものだったが、チャップはあわてて口にした。

 「それが……前にこの島にきたときにはあんな化け物たちは見なかったんだ」

 「見なかった?」

 と、カンナは胡散うさんくさそうな視線をチャップに向ける。

 いまだにチャップが男の振りをしていることに騙されたことを根にもっているカンナであった。

 「あのときは鬼部おにべの軍勢にまんまと誘導されていたから……あんな化け物たちのいない道を通らされていたんだと思う」

 「鬼部おにべにとって人間は食かて

 と、アーデルハイドは冷静に指摘した。

 「他の生き物に食べられてはたまらない。そういうことでしょうね」

 「……多分」

 と、チャップは小さくうなずいた。

 もし、あのとき、鬼部おにべの軍勢に誘導されることなくあんな化け物たちと遭遇していたら……。

 それはそれで考えたくもない悪夢だった。

 「それで、アーデルハイドさま。これからどうするんです?」

 カンナが尋ねた。

 アーデルハイドは島の内陸へと目を向けた。

 海岸の砂浜ではいまもなお巨大ワニと巨大走鳥そうちょうの死闘が繰り広げられており、もうもうと舞う砂塵さじん轟音ごうおん、ビリビリと震える振動が伝わってきていた。

 「うさぎからの報告では、ここからしばらく内陸に向かったところに町らしい場所があるそうよ」

 「町? 鬼部おにべが町なんて作るんですか?」

 カンナの問いに、アーデルハイドは静かに首を横に振った。

 「あくまでも『町らしい場所』よ。それ以上のことは報告されていなかったわ。うさぎの役目は鬼界きかいとうの地理と植生の調査だし、うかつに近寄って捕まるわけにもいかないから近くには寄らなかったのね。ただ、馬蹄ばていじょうに掘られた堀のなかに人家のような建物が密集しているのが見えたとあるわ。堀に囲まれた集落のように見えたそうよ」

 「鬼部おにべが集落を作るなんて信じられないけど……」と、カンナ。

 人間を襲い、食らう、鬼部おにべの野蛮さを思えば集落を作るという『文明』をもっているなととは信じられない。アーデルハイドは答えた。

 「行ってみればわかることよ。もしかしたら、鬼部おにべと言ってもいろいろな種類がいるのかも知れないし」

 人間にだって都市生活者もいれば、遊牧民だっている。森のなかで狩猟採集生活をする人たちもいるのだから。

 アーデルハイドはそう指摘した。

 「い、行くんですか⁉」

 と、チャップ。声が裏返っている。長年、男の振りをして暮らしてきて、声も作ってきたので、興奮すると本来の女の声と男の声とが混じりあっておかしなことになるらしい。

 「当たり前でしょう。わたしたちはそのためにきたのだから。うさぎは調査のために現地での接触は避けてきたけど、わたしたちはその接触こそが目的。行くわよ」

 アーデルハイドはそう言うとさっさと歩きだした。

 カンナとチャップもあわてて後を追う。

 その頃には海岸での死闘にも決着がついていた。やはり、高い位置から襲える方が有利なのだろう。凱歌がいか走鳥そうちょうの側にあがっていた。

 ハンマーのようなくちばしを振りおろして巨大なヤスリのようなワニの背中を食い破り、中身の肉をむしり取る。血に染まったくちばしを持ちあげ、天を仰いで肉の塊を丸ごと飲みくだす。

 その光景を尻目にアーデルハイドたちは内陸に向かった。

 まだ見ぬ謎の集落を目指して。


 「ハ、ハアハア……。な、なんてとこよ、ここ」

 カンナとチャップは両手をひざにつけて息を切らしていた。ふたりとも、疲労ひろう困憊こんぱいしている。平然としていたのはアーデルハイドだけである。

 集落までの道筋はうさぎから送られてきた地図に詳細しょうさいに描かれてあったので迷う心配はなかった。問題はそこに至るまでに出会った生き物たちのヤバさ。

 いったい、全長何十メートルあるのかわからない巨大な爬虫類。

 空をく四翼の怪物。

 おとなひとりが胴体のなかを立って歩くことが出来そうなほど巨大なヘビ……。

 とにかく、出会う生き物すべてがデカい。デカすぎる。

 そして、ヤバすぎる。

 それこそ、伝説のドラゴンででもあるかのように。

 そんな怪物たちを見かけるたびに大急ぎで逃げて、隠れなければならず、疲労度は通常の旅の比ではなかった。とくに、交代で斥候せっこうに出るカンナとチャップの疲労は激しいものだったのだ。

 「もしかしたら、この島の生き物たちがドラゴンとして伝えられたのかも知れないわね大昔から何度も接触があったようだし。興味深いわ。学者も連れてくればよかった」

 と、ただひとり、平然としているアーデルハイドが言った。

 「アーデルハイドさま……。さすがに、そんなことを言っている場合じゃ……」

 「こんな化け物どもがいるならやっぱり、剣の一本ぐらいはもってくるべきだったんじゃ……」

 カンナとチャップが口々に言う。

 アーデルハイドは平然として答えた。

 「どうせ、あんな化け物たち相手に人間用の武器が効くわけないでしょう。リスが針をもって人間と戦おうとするようなものよ。それより、行くわよ。集落までもう少しのはずだから」

 「ま、まってください、アーデルハイドさま!」

 さっさと歩きだしたアーデルハイドのあとを必死に追うカンナとチャップであった。


 さらに内陸に向かって進んでいくと、急にあたりの雰囲気がかわった。

 そこは、ほぼ一定の間隔で木の並ぶ草原だった。木はどれもたわわに果実を実らせており、足元を見れば真っ赤な実をつけたイチゴの苗がそこかしこに生えている。

 なにより、そこには例の化け物のような巨大生物の姿は影も形もなかった。

 「な、なんだか、急に雰囲気がかわりましたね」と、カンナ。

 「そうね」

 と、アーデルハイドもうなずいた。身を屈め、あたりの様子を確かめる。

 「木々の間隔があまりに規則的すぎるし、生えている草も特定のものばかりが多すぎる。自然の草原とは思えない。人の手で管理された庭園という感じね。なにより、ここには巨大生物の入り込んだ跡がない」

 これだけ豊かに草木の茂る場所だ。巨大生物たちにとっても格好の餌場のはず。それなのに、あたりには食い荒らされた様子はなく、足跡ひとつ見えない。

 あまりにも不自然だった。何者かがあの巨大な化け物たちが侵入することを防いでいる。そうとしか思えない光景だった。

 「あんな連中の侵入を防げるって……」

 「鬼部おにべ……でしょうね」

 アーデルハイドはそう言った。それ以外には考えられない。

 そのときだ。

 「大変です、アーデルハイドさま!」

 カンナと交代で斥候せっこうに出ていたチャップがが泡を食った様子で駆け戻ってきた。

 「人間です! 人間がいました!」

 「人間?」

 「それも……」

 チャップは信じられないものを見た人間特有の声で叫んだ。

 「若い女の子たちです!」

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