一七章 アンドレアの成長

 「個別会談、ご苦労さまでした。ハリエットさま」

 アーデルハイドがティーカップを手にハリエットの労をねぎらった。

 レオンハルトの王宮、いまではアンドレアのものとなったその城のなか、アンドレアが自室として使うことになった部屋でのことである。

 アンドレア。

 アーデルハイド。

 ハリエット。

 世が世なら国王きょうだいの妻として義姉妹になっていた三人。

 その三人がいま、アンドレアの自室に集まり、ささやかなお茶会を開いていた。

 根っからの騎士たるアンドレアらしく、殺風景と言うより無骨な部屋。装飾品のひとつもないことはもちろんとして、ハリエットの部屋にある花瓶ひとつここにはない。そのかわり、部屋の片隅にわら人形にんぎょうと幾つもの武器が置いてある。思い立ったときにいつでも稽古できるように、と、置いてあるのだろう。それだけでなんとも暑苦しく、汗臭い匂いが立ちこめてきそうな光景である。

 すでに夜は更けている。月明かりが煌々と夜空を照らし出し、フクロウすらも鳴き声を立てない時刻。好きこのんでこんな時間に集まったわけではない。この時刻になるまでハリエットの身が空かなかったのだ。

 ちなみに、アートはとうに乳母の手によって部屋に連れて行かれ、ベッドのなかで眠っている。大陸最年少の国王陛下もようやく公務から解放され、幼児らしく本能に身を委ねることが出来るようになったわけだ。

 列強諸国の王が一堂に会しての会議が終わったからと言って、それでなにもかもが終わるわけではまったくない。むしろ、本番はそれからだと言っていい。たい鬼部おにべで結束しているからと言って、一枚岩になれるわけもない。

 利害の衝突。

 体制のちがい。

 国民性に対する好き嫌い……。

 問題はいくらでもある。

 まして、鬼部おにべの侵攻がはじまるまでは人間の国同士、互いに争いあってきたのだ。

 多くの血が流れ、殺し、殺されてきた。その時代に生まれた無数の恨み、憎しみ、怒り……。

 それらは、鬼部おにべの侵攻がはじまったからと言って消え去るわけではもちろんなく、いまも地下の溶岩のように人々の感情の底を流れている。いつ、噴火して地上を呑み込んでもおかしくないほどに。

 それらの利害をどう調整し、感情のもつれをときほぐし、結束を維持するか。

 それが、諸国連合盟主としてのハリエットの役割。そのために、会議のあと、それぞれの王たちと個別に会談し、調整を重ねていたのだ。そのなかには『鬼部おにべとの戦いに勝利したあと、どの国が、どのような立場に立つか』と言った戦後処理の話も含まれていた。

 『まだ逆襲もはじまっていないと言うのに、いまから勝ったあとのことなど話してなんになる。そんなことより、戦いに集中すべきだ!』

 そう言う意見もあるだろう。しかし、それは戦いだけが役割の軍人の言うこと。政治にたずさわるものはそうはいかない。

 事前に戦後処理についての取り決めをきちんと決めておかなかったばかりに、戦争に勝ったはいいがその後、揉めにもめて対立し、互いに争いあう……などという展開は大陸の歴史に幾つもある。だからこそ、いまのうちからきちんと戦後のことを決めておくことが大切なのだ。

 「……でも、たしかに、楽ではありませんね」

 ハリエットが思わずそう苦笑した。

 確かに、会談は一筋縄ではいかなかった。どの国も『戦後の取り分』をより多く手に入れたい、と、望むのは当然のこと。『うまくまとめるためにこの点はゆずろう』などというお人好しの王などいるはずがないし、そんな王では自国民に対する責任を果たしていないと言える。

 国王の責任。

 それはひとえに『国民により良い暮らしを提供する』という一事にある。他国を侵略することで国民によりよい暮らしを提供できるというなら侵略する。劫掠ごうりゃくもする。それが、王にとっての正義。王の正義と市井しせいの正義はちがう。それだけに、交渉事も一筋縄ではいかない。

 これが、レオナルドであれば話は簡単だった。

 「人類界の覇権はレオンハルトが握る。有象うぞう無象むぞうは我らに従っておればよい」

 そう決めつけ、すべてを独占し、そのなかから各国の取り分をレオナルドの気分ひとつで『くれてや』ればいい。かつてのレオンハルト――熊猛ゆうもう将軍しょうぐんウォルターと勇者ガヴァンがいた頃――には確かに、それができるだけの武力があったし、レオナルドにもその横暴を押し通すだけの凄みと迫力があった。当然、各国は不満だらけになるわけだが、それでも、とにかく、話はまとまるし、国同士の争いも押さえ込める。独裁者の横暴も時と場合によっては役に立つ。

 しかし、ハリエットにはそんな武力はない。相手を無理やり黙らせるだけの凄みも迫力もない。そもそも、そんな在り方はハリエットの望むものではない。ハリエットが望む世界。それは、誰かが支配する世界ではなく、人々の協調によって動かされる世界なのだから。

 だからこそ、ハリエットは安易に力に頼るのではなく、粘り強い交渉を重ね、利害を調整し、誰もが納得できるだけの落としどころを見つけ出さなくてはならない。楽でないのが当然だった。

 「でも、それを言ったらアーデルハイドさまこそ大変だったでしょう。大陸中の食糧の生産者と商人とをまとめあげ、食糧の供給を安定させる。とてもではありませんけど、わたしにはできる気がしません」

 ハリエットがそう言ったのは謙遜けんそんではない。心からそう思う。それぐらい、アーデルハイドのやってのけたことは大変なことだった。

 しかし、アーデルハイドは首を横に振った。

 「そうでもありません。商人はあくまでも損得で動きますから。金銭できっちり話がつきます。その点で面倒はありません」

 そう言ってから、アンドレアに視線を向けた。

 「それより、アンドレアさまこそ大変だったでしょう。子育てしながらのレオンハルト制圧とは。子育ての苦労を知っているわけではありませんがそれでも、話には聞いています。アンドレアさまの労苦は想像にがたくありません」

 「ああ、大変だった」

 胸を張ってそう認めるあたりがアンドレアである。

 「なにしろ、赤ん坊というやつは理解も、交渉も出来ないからな。もちろん、『剣でぶった斬る』などというわけにはいかん。おしめをかえようが、おっぱいをやろうが、抱っこしようが、辺りかまわずギャンギャン泣きまくる。朝も夜もお構いなしだ。そんな意味不明の生物を相手にする心身の痛手は計り知れん。おまけに、子供を抱えていては仕事も出来ん。あの頃はそれこそ、皿洗いでも、下水掃除でも、少しでも金になることならなんでもやった」

 「皿洗い? 下水掃除? アンドレアさまがそのような仕事をされたのですか?」

 ハリエットが目を丸くして驚いた。

 アンドレアと言えば、レオンハルトでも有数の格をもつ伯爵家の令嬢。普通であれば一生、仕事などせず、使用人にかしずかれ、社交界を泳ぎまわり、恋愛遊戯とパーティーに明け暮れて暮らす身だ。そのアンドレアがそのような『下賤げせんな』仕事をするなど想像もつかない。

 しかし、アンドレアは驚くハリエットに向かい、手厳しい笑みを向けた。

 「『そのような』はいけないな、ハリエット。皿洗いも、下水掃除も、世の中にはなくてはならない職業だ。皿を洗うものがいなくなれば料理店は成り立たん。外食など出来なくなるし、家庭の台所は汚れ物でいっぱいになる。下水に潜るものがいなければ、下水機能は維持できん。風呂もかわやも使えなくなるのだぞ」

 「そ、そうでした……」

 ハリエットはハッとなったほおを赤らめ、両拳を握りしめた。そこには、見た目以上の強い思いが込められていた。

 アンドレアはつづけた。

 「しかし、いまにして思えば、あれはたしかに良い経験だった。おかげで『他人に助けてもらう』ことができるようになった。他人の力を借りることが出来るようになった。以前のわたしは、なんでも自分ひとりでやり遂げなくてはならない、他人の力を借りるなど騎士の恥。そう思い込んでいたからな。あの頃のまま王になっていたらレオナルドと同じ、すべてを自分で決め、他人の意見などなにひとつ聞かない鼻持ちならない独裁者となっていただろう。いや、わたしはまつりごとはさっぱりだから、レオナルドよりずっとひどい王にしかなれなかったな」

 そう言って、豪快に笑うアンドレアである。

 その笑いをおさめると、打って変わって真剣な面持ちになった。

 「なによりも、大切なことを知ることが出来た。世の中にとって必要なことをしている人間ほどさげすまれ、得られるものの少ない人生を強いられているという現実をな。ハリエット。お前こそ、そのような現実を知るからこそ『地道に自分の役割を果たす人間が報われる国を作る』ことにしたのだろう?」

 「……はい」

 「いまなら、わたしにもわかる。騎士として、騎士の世界だけで生きていては決して知ることの出来なかった残酷な現実。あの境遇を体験しなければわたしは、そのような人々が存在しているということにすら気付かず、知らぬ間に踏み台にして一生を送っていたことだろう。そのことに気付かせてくれたアートには感謝している。

 ハリエット。これからはわたしも、このレオンハルトを預かる身として、『地道に自分の役割を果たす人々』が報われる国を作っていくつもりだ。お互いに励もうではないか」

 「……はい」

 「ハリエットさま。アンドレアさま」

 ふたりの話が一段落したとみて、アーデルハイドが話しかけた。

 「わたしは一度、鬼界きかいとうに渡ろうと思います」

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