3話 壷事件 2 辞 表
「あなたが素振りをやるから、いけないのです!」
渡部が立ち上がったおかげで、一真と優の視線が離れた。
「高価な壺の前ですよ。
普通、素振りなどなさいません!」
「事故ですよ。事故」
「事故と言うべきは一真様。原因はあなたですよ!」
「後ろを向けたら、ばれないって~
同じ柄で、よかった、よかった」
「あの壺は、当ホテルの顔と言うべき
先ほどの対応を見て、大人になられたと感心したばかり。
わたしが
「『逸品』って、なぁに?」
優が笑顔で首をかしげると、『やめろ』の視線を一真は送るが、今度は届かない。その後も続くとぼけた返しで、鬼の支配人を魔王に変えた。
「弁償していただきます!」
渡部の声は回転扉前で、うつむいていた文也の肩を震えさせた。
野球部員が並ぶ一番端で、背負う荷物の重みに涙を流す。顧問の松原は優を思っての涙と疑わず「お前は優しいな~」と頭を撫でると、文也は首をふった。
「先生、違う……僕なの。壺をわったの、僕……」
蚊の鳴くような声を聞き取った松原は、笑顔を戻せないまま気を失う。
「え――――!」
と騒ぐ球児たちを残し、文也は走り出した。
「しゅはいにん。すみませんでちた。
へんぱいは、わるくありまてん」
魔王を困った顔にするには、じゅうぶんな涙だった。
五分刈りに汗がにじみ、落とした涙でじゅうたんの色が変わる。
かがめすぎた背中から荷物がずり落ち、文也の代わりに詫びていた。
「そう言うことですか……」
渡部は、メガネをハンカチで拭きながら言った。優の顔を眺めてから視線は一真に移る。一つ息を吐くとメガネをかけた。
「文也様、どうぞお顔を上げて下さい。
あなたを驚かせてしまい、大変失礼をいたしました。
何もご心配することはありません。あの壺はダミーでございます」
「ダミー?」
「あなたの先輩が出入りするようになってから、本物は撤去いたしました」
「弁償は……」
「ダミーと言っても、それなりの物ですが保険がございます。
お気になさらずに……」
「僕、破産しなくてもいいの?」
「もちろんです。あなたの勇気は素晴らしい。
どこかの先輩も、見習っていただきたい」
渡部の顔を見て、文也はフラフラと床に腰を下ろす。
走り寄ってきた部員達に頭を撫でられ、声を出して泣いていた。
その日、野球部をエントランスから見送ったのは数人のスタッフで、渡部はフロントから一礼をする。改めて一真が詫びを入れると笑いながら首をふった。
「『素直さ』の財産は、一真様もお持ちでございました。
もっと上手にお使い下さい。きっと、よいことがありますよ」
渡部は一礼をして控え室に消えていく。壺を囲んで立ち入り禁止のテープが張られると、照らしていたダウンライトが消され、輪郭だけがぼんやり浮かんでいた。
◇
翌日、ホテルはあわただしい空気に包まれていた。客室係は忙しなく走り、フロントマンが客のクレームに頭を下げる。かみ合わない流れが次のミスを誘い、連絡一つもスタッフ間で共有できない。
一真が顔を出したのは昼を過ぎたあたりで、優の来訪を受けてロビーに降りてくる。フロントマンの耳打ちに、「辞表?」と聞き返したあとで一真は言葉を失った。
「壺で?」
菓子折り持参の優も、呆然と立ちつくしていた。
「どうして……なんであんな壺で首なの?」
「首ではなく、支配人の意志でして……
わたし共も、今朝、知りました」
若いフロントマンは、すまなそうな顔で言った。
「世話になっているんでしょう?
みんなでなんとかしなさいよ」
「それが、社長と連絡が取れません。
辞表を受理したのか本社に確認中です」
「受理したらどうなるの?」
「それは……」
と言いかけフロントマンは言葉を濁した。
「新しい支配人が来るだけですよ」
その声は一真の背後から聞こえてきた。
ロビーをゆっくり歩き、カウンターを目指す。その姿にスタッフがほっとした顔をすると、「持ち場へ戻りなさい」と
「渡部さん、早まったことをしないでよ」
「わたくしごとの用事で出社が遅くなり、大変失礼をいたしました」
「用事って、何さ?」
「誘いを受けたホテルを見てまいりました。
優秀な人材は、職に困りませんね」
「渡部さん」
「誰がひびを入れたのか、そんな次元ではありません。
二、三日中に後任の方が来るでしょう。
『北澤リゾート』には優秀な社員がおりますから、ご心配をなさらずに」
渡部に一礼されても、一真は次の言葉が出てこない。
控え室まであとを追うが、私物を片付ける背中を見ているだけだった。
すると、勢いよく控え室のドアが開く音で渡部の手元が狂い、床に転がった時計のベルが、チンと泣いた。
「なまら、はんかくさいべさ」
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