サクラのホッペ 赤いカサ

雨京 寿美

第1章 夢のはじまり

1話  ホテル違い 1

プロローグ


 それは、それは、長い夢のはじまりだった。


 風に揺れる牡丹雪ぼたんゆきにまじり、赤いカサが空を舞う。


 カサは旋回せんかいを繰り返し、真上に来たところで一気に加速をしてくる。 

 カサはつかみ損ねたが、腕の中に落ちて来たのは女の子だった。


 目が合うと、イタズラをたくらむような顔をして、ニッと笑う。

 頬は桜色に染まり、『もう、大丈夫』の声は懐かしい響きだった。


 少しばかりの不幸を、この世の終わりに感じていたころ、柔らかい物にも、中でうごめくトゲが見えた。


 信じなければ、裏切られることはない。

 夢を見なければ、絶望とは無縁だ。


 ただ、ただ、明日を迎えるために、無駄な呼吸を繰り返す。

 その記憶を、一瞬で打ち消す満開の桜が見える。


 少女は『赤いカサ』をくるくるまわし、手をふる仕草しぐさで手招く。花が舞うのは白銀の世界、色鮮やかな冬の桜が、いつも夢のはじまりだった。




       ――――  ◇  ――――




「さっぽろ~ さっぽろ~ ご乗車、まことにありがとうございま~す」


 子供の口まねを聞いて、北澤一真きたざわかずまは目を開けた。

 新千歳ちとせ空港を出て三十分、ほんの一瞬だが、深い眠りは久しぶりだった。


 頭をささえていた左手の感覚が戻ってこない。荷物を持ち、立ち上がろうとしたとき、手のこうを濡らした物で、泣いていたことに気がついた。


 街は、札幌雪祭りが終わったばかりだ。


 今年も二百万人の観光客が訪れ、緻密ちみつに作り上げた雪像が見る者を魅了する。


 人々の目を楽しませた雪像も、一夜明けると雪の塊となり、それは春を待つ芝に重く横たわっていた。


 平静さを取り戻した札幌駅構内を、一真はうつむきながら歩く。

 小ぶりのボストンバッグを持ち、前髪からのぞく顔は青い。


 『ようこそ、さっぽろ』の看板を見送り、正面の南出口を見て足を止めた。



 まるで、日暮れだ――


 一真が時計を確認すると、午後二時をまわったばかりだった。 


 ホームに降りたとき、上から降っていた雪が真横に走り、駅前広場をおおいつくす。一真は一つ息を吐き、真冬が手招く扉を開けた。




「いらっしゃ~い。まいど、おおきに~」


 タクシー運転手の声に、雪を払う手が止まる。金歯を光らせ、愛想あいそ笑いの顔に、一真は不機嫌な視線を返した。


「ここは、札幌ですよね?」

「冗談ですよ~ それで、どちらまで?」


「ホテルサンピアーザ札幌」


「あいよ。『札幌ホテル』ね。

 この雪じゃ、歩くのは大変だ」


 くぼみにハンドルを取られ、経験のない揺れに一真はたえていた。


 乗り物には強い一真は、初めて気分が悪くなる。その原因はポンピングブレーキで、信号で止まると、かならず三回お辞儀をした。



「着いたぜ、だんな」


 一真は一刻も早い下車を望み、ツリを取らずに車を降りる。少しでも向きを変えれば、車道と歩道の区別がつかぬほど、ホワイトアウトの世界だ。顔に叩きつける雪にたえ、一真は薄目を開けて見上げると、吹きだまりの中に茶色い建物が見えた。




「北澤一真さんね~ どうりで、予約にないわけだ」


 風間かざまのネームバッチをつけた男が、予約台帳と黒のペンで書かれたノートをめくる。


 一真は、去年の十月にオープンしたばかりの、リゾートホテルと叔父から聞いている。しかし、ホテルは五階建てで駐車場はなく、自動ドアは体一人分開いたところで一度止まる。


 ロビーは薄暗く、エレベーター横の壁に『面接会場は五階、うぐいすの間』と、書かれた張り紙があった。


「いやね、よく、間違えた客が来るんですよ」


 風間が差し出したのは、『ホテルサンピアーザ札幌』のパンフレットで、ホテル違いの客のために数枚預かっていると言う。


「ここは飯が上手くて、創業四十年の老舗しにせホテル」


 笑顔で繰り返し、雪まつり終了後の貴重な宿泊客を簡単に手放さない。しかし、一真は無表情で、正面に飾られた湖のパネルを見ているだけだった。


「いまタクシーを呼びますから、ちょっと待って下さいよ」

「タクシーは、けっこうです」

「じゃあ、お泊まりですか?」

「いいえ、歩きますから」


円山まるやままで? お客さん、外は吹雪ですよ」


 真冬の北海道を旅するには、一真の服装は軽装だった。

 薄手のジャケット一枚に、シャツは第二ボタンまで外れている。

 夏用の革靴をカツカツ鳴らして自動ドアを通り抜けていく。


「むちゃですよ! あんた死ぬ気か? 

 ちょっと、お客さ――ん」


 風間の声は北一条通りに出ると、地吹雪にかき消され聞こえなくなった。


 風に背中を押され、一真はどこを歩いているのか、方向感覚を失う。一度だけクラクションの音を聞き取ったが、車のライトさえ見えない。


 雪が入り込んだ革靴は重く、よろけた体は雪の塊に沈んでいく。風間からもらった『ホテルサンピアーザ札幌』のパンフレットが、風にまわされ空に消えていった。



         ◇




 道内は、昨年からリゾートホテルの、新規開業ラッシュだった。


 その中でも円山に立つ『ホテルサンピアーザ札幌』は、昨年十月にオープンを迎え、道内屈指どうないくっしの五ツ星ホテルの称号を手にする。


 チェックインで込み合うロビーは人であふれ、多国籍の言葉が飛びかう。


 吹き抜けの天井にはシャンデリアが輝き、その下にヤシの木が生い茂り、アトリウムラウンジが広がっていた。


 フロントには、六人のスタッフが対応に追われ、一番端に立つ男は、次に出迎えた高校生の話を聞いて、銀縁ぎんぶちメガネを一度直した。


花村はなむら様と、おっしゃいましたね?」


「はい。花村優はなむらゆう様です」

「――本日、当ホテルで面接のお約束はございません」

「はぁ……」

「何かの、お間違いではありませんか?」

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