瞳
さてこれからさきは、天女のはなし。
銀波には、かならず日暮れ間際に思い出す言葉があった。
三十年以上も昔のことだ。銀波はある苦行者の妨害を終え、天上世界への帰りを急いでいた。だが森の中から飛び立とうとする矢先、視界の端にちいさな人影が過ぎった。
少年だ。まだ十くらいに見える。黒い髪は艶々と柔らかで、厚みのない身体が頼りなくあどけない。
森の泉のほとりで、ひとり佇んでいた。身動ぎもせず、いまにもこぼれ落ちそうなほど、瞳を潤ませて。
銀波は背後から少年にそっと声をかけた。
「どうなさったのですか、王子様」
振り向いた少年は、そこに見えた姿に目を円くした。驚き、慌てて目元をこする。
「あなたは誰? ううん、分かるよ。もしかして――天女というやつでしょう?」
「ご名答です、王子様」
銀波が答えると、少年は子どもらしい無邪気な笑顔を見せた。
その少年が、この地を治める王家に生を受けた王子であることを、銀波は知っていた。
先日、王妃である母を失ったのだ。
強力な呪力を持つ宮廷祭官が国王と敵対し、その挙句、王妃が呪い殺されたのだという噂は、すでに天上世界にも伝わっていた。
「お母様が、恋しいのですか?」
その問いに、王子は瞳を翳らせた。
「僕がいつか力をつけたら、あいつを縊り殺してやる」
「まあ、なんと恐ろしいことを」
銀波は王子の隣に腰を下ろした。
「復讐など考えずに、ご自分が幸せになることをお望みなさい」
「幸せになんてなれないよ。父は僕のことなど何とも思っていない。寄ってくるのは見返りを期待して、子どもの僕に媚びへつらうような奴ばかりだ」
銀波は言葉を失った。
年端もいかぬ子どもがこんなふうに言うなんて、一体どれほど――
「いまはそうでも、いつか優しい方も現れましょう。心からあなたを愛し、あなたもその方を愛さずにはいられないような」
すると王子は静かに頭を振った。
「母だけだ。母だけだったんだ」
その頑なな態度に困って立ち去れずにいると、王子はじっと目の前の天女の顔を見つめた。
「――あなたは少し、僕の母に似ているね。もちろんあなたの方がずっと綺麗だけれど」
「もうご立派にお世辞も言えるのですね」
「お世辞なんかじゃないよ」
真剣なまなざしで、王子は銀波に言った。
「代わりにあなたが僕のそばにいてくれない? それならきっと幸せになれる」
泉から涼やかな風が吹き、王子の柔らかな髪がふわりと舞った。
「王子様――わたくしは、天女なのですよ」
「知っているよ。天女だと、なぜいけないの」
その澄んだ瞳が、なぜだか天女の胸を高鳴らせた。相手はほんの子どもだ、それなのに。
「天女は――天のしもべに過ぎないのです。わたくしたちは上の命令に従うだけ。ずっと王子様のおそばにはいられないのですよ」
銀波はようやくそれだけ答えた。すると王子は瞳に暗い覚悟を灯し、
「それじゃあ僕は、力をつけるしかない」
と言った。
その数年後のことだ。王子として約束された輝かしい未来のすべてを擲ち、森に篭って苦行をはじめたのは。
年若い王子が見るもおぞましい苦行に身を投じるさまを、銀波は母親代わりのように、ずっと遠くから見守っていた。その壮絶な苦しみを思うたび、胸が張り裂けんばかりに痛み、知らぬ間に涙が頬を伝った。
あの子はきっと、母を殺した相手に復讐をするつもりなのだろう――銀波はそう思った。苦行の力をもってすれば、強い呪力を持つ祭官であろうと容易に縊り殺すことができよう。
ふたりが出会った日から、三十年以上の歳月が流れた。
血を吐くような執念により、男の内側に蓄積されたその熱は、ついに〈力〉へ形を変えようとしていた。
彼の妨害に行かせてほしいと願い出たのは、銀波自身の意志からだった。復讐などという愚かな行いは、どうにかして止めねばならないと思った。
「お前は、ずいぶんとあの王子にご執心のようじゃないか」
天帝は揶揄うように銀波に言った。その声色に銀波は悟る。
知っておられたのだ。この三十年、ずっとわたくしがあの王子を遠くから見守ってきたことを。
天帝は銀波が王子のもとへ行くことを許可した。女の胸の内など、とうの昔にお見通しだったのかもしれない。
銀波は天上世界を離れ、ひらりと地上へ降りていった。眼下に果てしなく広がる、深い森。そこに近づくあいだ、銀波は自分の心をたしかめた。
――そうだ。わたくしはずっとあの子を愛していた。
泉のほとりで、そばにいてくれと懇願されたあの日からずっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます