クラシカル×ガーディアン

甘凪まつり

第1話 古の守護騎士(クラシカル×ガーディアン)

 桜が舞う晴れやかな今日、高校への入寮式を控えた愛宮えのみやあんりは全力で走っていた。


 上品な紅色のワンピースと、それに合わせたケープに白い襟が映える。スカートがあんりの歩みに合わせて元気にはためいていた。柵を飛び越え段差を飛び越え、あんりはひたすら走る。


「大変たいへ〜ん!遅刻しちゃう~‼」


 あんりが着ている制服の胸元には『聖エクセルシオール学園』の校章が光っている。学園はここから遠く離れた所にあるが、あんりはなぜか学園とは逆方向に走っていた。


 敷き詰められた石畳を踏むたびにあんりのローファーが軽快な音を奏でる。

 西洋を模したような町並みが美しいこの町の名前は『千代目ちよめ町』。あんりがこれから通うことになる高校『聖エクセルシオール学園』は、千代目ちよめ町から大きく外れた場所にあった。


「よいしょ、よいしょ……」

「おっとっと!おばあちゃん、良かったら私が荷物を持つよ!」

「あら、いいのかい?」


 あんりはキキーッ!と音が鳴りそうな勢いで止まる。


 遠慮する老婆の代わりに大きな荷物を家まで届け、また踵を返して再び走り出す。ちらりと腕時計を見ると入寮式までもうあと僅かというところだった。


(大丈夫!今から全力で走ればギリギリ間に合う!)


「え~ん、お母さんどこぉ……?」


 気合を入れてスタートダッシュを決めたあんりはしかし、不安げに泣く子供の声を聞いて素早く方向転換をした。


「どうしたの?迷子になっちゃったかな?お姉ちゃんが一緒に探したげる!」


 子供の前にしゃがみこんで頭を優しく撫でる。

 泣き止んだ子供の手を引いて交番に連れて行き、無事に母親と引き合わせたあんりは、やり切ったとばかりに額の汗を拭いた。


「そろそろ学校に行かなくちゃ!今何時だろ?」


 そんなに時間は経っていないだろうと思い自信満々に腕時計を覗く。

 しかし腕時計の針はあんりの予想より大幅に遅れた時間を示していた。つまり、入寮式の時間は大幅に過ぎているわけで。


 遥か遠く、学園の時計塔が重く大きく鳴り響いていた。



 ◇



「これにて聖エクセルシオール学園、入寮式を終了致します。新入生は集合写真を撮影しますので、その場でお待ち下さい。在校生は順番に教室へ──」

「遅れてごめんなさーい‼」


 聖エクセルシオール学園の大広間に続く重厚な扉を開け放つ。


 今しがた入寮式を行っていたであろう大広間には仰々しい飾り付けがなされており、ひしめきあっている生徒はあんりの登場にしんと静まりかえった。


「あ、えへへ……初めまして……愛宮えのみやあんりです……」

「自己紹介ありがとうございます、愛宮えのみやさん。集合写真を撮影したあと、ここに残って下さい」

「はあい……」


 壇上に立っている黒髪の女子生徒がマイクを通して冷静沈着に告げる。あんりはくすくすと笑う生徒の列にそっと並び、照れながら髪を指で弄った。


 愛宮えのみやあんり、高校一年生。

 クセの付いた栗色のセミロングをハーフツインにした、愛嬌のある少女である。


 運動神経と体力、そして早起きにも自信があるあんりだったが、入寮式のバスには間に合わなかった。

 それはひとえに『困っている人を助けすぎた』せいなのだが、遅刻は遅刻、入園当日から大目玉である。


 集合写真を撮り終えたあんりは壇上にいた黒髪の女子生徒に呼び止められる。


「初めまして。私は生徒会長の玉響久遠たまゆらくおんです。それで、何か言い訳はありますか?」

「えーっと、重い荷物を持ったおばあちゃんを助けて、迷子になった子を交番に送って、そのあと──」

「待ちなさい。私にそんな話が通用するとでも?どうせつくならもっとマシな嘘をつきなさい」

「でも、みんな困ってたので!困ってる人を助けるのは当然ですしっ!」

「それが本当だとしても、あなたは入寮式に遅刻しました。それは変わりようのない事実です。生徒会長として見過ごすわけにはいきません」

「はい……すみません……」

「あなたの処罰は寮長から指示があります。この学園の生徒として自覚を持つように。恥ずべき行動は慎むようにお願いします」


 そうぴしゃりと言い放つと、久遠くおんは踵を返して大広間を出ていく。あんりは一人、だだっぴろい大広間に取り残されてしまった。


(怒られちゃったなぁ……。でもいっぱい人助け出来たからプラマイゼロだよね!)


 うんうんと頷くあんりは大きく伸びをする。


「うーん、今日も良いことしたー!」



 ◇



 入寮式のあと、あんりが寮長に怒られたのは言うまでもない。

 久遠くおんの言う通りあんりの言い分が嘘か本当かは別として、入寮式に遅刻したのは事実であり、罪には罰が与えられる。

 あんりは寮に届いた荷物を片付けたのち、時計塔前を掃除するように言いつけられてしまった。

 だが、あんりの顔は怒られているとは思えないほど晴れやかだった。


 だってよく考えてもみて欲しい。

 入寮してすぐに頼みごとをされるなんて、ツイてるとしか言いようがない!


 時計塔前の掃除が終わったら玄関を掃除して、下駄箱をひとつひとつ綺麗にするのも手かもしれない。

 そうすればきっと、みんな嬉しい気持ちになってくれるだろう。

 考えるだけで胸が弾んで仕方がない。


 長い説教を終えたあんりはスキップしながら廊下を抜け、階段を上がり──寮の自室に辿り着いた。


 聖エクセルシオール学園は古くに設立された由緒正しき学園だ。

 この学園に通う全校生徒が紳士淑女になるために知識やマナー、そして専門的な技術を徹底的に叩きこまれる。

 我が国でも屈指の名門校と呼ばれる学園だ。


 聖エクセルシオール学園は全寮制で、生徒は入学すると四つに分けられた寮に所属することになる。

 あんりはその中の一つ、『アリビオ寮』に所属することになっていた。

 四つの寮はそれぞれ唯一無二の特色があり、寮によって学べる専門分野も違う。学業やスポーツ、芸術など、自身の能力によって入る寮は変わってくる。


 ではアリビオ寮は何に秀でているのかと言うと……実はこれといって無い。

 レベルの高い一般入試を突破した生徒が入れる、いわゆる一般枠、というわけだ。その他の寮はその分野で実力のある人が入るのだが、アリビオ寮は特段そういう条件もない。


「確か私の部屋は……ここだっけ?」


 そして、件のアリビオ寮に到着する。

 深紅で統一された寮の内装を見渡し、あんりは自分の部屋を探して辺りを見渡した。


 学園の校舎は中世ヨーロッパのような風情を思わせるレトロな作りで、校舎の敷地内には大きな時計塔が鎮座している。

 そんな校舎の敷地から少し外れた所に学生寮はあった。


 校舎に負けず劣らず、寮の内装も映画のセットのように凝っている。

 調度品はきめ細やかな装飾で彩られていて時代を感じさせるものだったが、その状態は決して悪いものではなく、管理が行き届いているのだと分かる。

 これから三年間、自分の家になる場所として相応しい落ち着きのある雰囲気だった。


 自分の部屋を見つけ、浮足立った気持ちのまま扉を開ける。

 すると──部屋の中に、一人の生徒が佇んでいた。


「……誰、あんた?」


 あいさつしようとした言葉が喉を通る前に鋭い声が飛んでくる。思わず出そうとした声を飲み込んでしまった。


 部屋にいた生徒は少年に見えるほど線が細くて体の凹凸が少なく、そのスタイルに似合うスラックスタイプの制服を着ていた。

 昨今のジェンダーレス論にあやかってか、この学園ではスカートとスラックスを自由に選ぶことが出来る。だが、ここまで似合う女子生徒もそういないだろう。

 ここが女子寮でなければ男子生徒と見紛うほど、端正たんせいな顔立ちをしていた。


 薄い白金はっきんの髪が窓から入り込む光に煌めく。彼女はあんりを射るように薄浅葱うすあさぎ色の瞳でこちらを睨んでいた。


「もしかして、この部屋の人ですか⁉」

「そうだけど……」

「やっぱり!私、愛宮えのみやあんりっていうの!ルームメイトとしてよろしくね!」


 あんりがずいと詰め寄ると、その生徒は口を引きらせて後ずさった。


「あなたの名前は何て言うの?」

「……早乙女さおとめカイだけど……」

「カイちゃんね、これからよろしくねっ!」

「ちゃんはやめろ」


 手を取ってぶんぶんと振ると、その手を振り払って強く言い返された。


「ちゃんが嫌ならくんとかどうかな?カイくん……うんうん、良い感じ!カイくんかっこいいもんね~」


 カイはつらつらと話すあんりに相槌を打つこともなく、挨拶もそこそこに傍を通り抜けていく。

 部屋を出て行こうとするカイの制服の袖を思わず掴んでしまった。


「待って!私、あとで寮とか学園を見てみようかなーって思ってるんだけど、カイくんも一緒にどう?せっかく同じ部屋になれたんだし」

「断る」


 取り付く島もなく、ぴしゃりと閉じられてしまった部屋の扉とカイの心。

 部屋に取り残されてしまったあんりはしばらくぽかんとしていたが、何か用事があったのだろうと気を取りなおして部屋を出た。


(また誘ってみようっと!これから三年間一緒に過ごすんだから、絶対に友達にならなくっちゃね!)


 あんりはうんうんと頷いて前向きに考える。

 そして言いつけられた仕事のために箒を借り、時計塔に向かうことにした。


「それにしても、おっきな学校だなぁ~」


 敷き詰められた廊下のタイルは歩くたびに足音が木霊する。

 映画の中のセットのような学園内を歩いていると自分までその一部になったようで、危うく現実を忘れてしまいそうだった。


 ──そして、そう。

 ついでに来た道も忘れてしまった。


「……あれ、ここどこだっけ?」


 色んな階に行っては道を曲がり、階段を登り、道を戻ったり……と繰り返していると、完全に道に迷ってしまった。


 でも時計塔は窓のどこからでも見えている。

 要はそこに行けばいいのだから、最終的には出口を探さずとも窓から脱出すれば良い。一階ならば窓から飛び降りるくらいなんてことはないだろう。

 だが遅刻で怒られた経緯がある以上、これ以上罪を重ねない方がいいことも理解していた。


「あの、すみませ~ん……。道に迷っちゃったんですけど、どこに行ったら学園から出られますか?」


 あんりは目についた男子生徒に声をかけてみた。

 どこか儚げな空気をかもし出している少年は、あんりの声に色素の薄い茶髪を揺らして簡単に振り返ってくれた。


「あれ、迷子になったのかい?」

「探検してたら迷っちゃって……えへへ……」

「珍しいものが多いよね。僕もつい歩き回っちゃったよ」

「ってことは、もしかしてあなたも新入生?」

「うん。まだ授業はないから学園を見て回ろうと思って」

「私も!まぁ、それで迷子になっちゃったんだけど……」


 あんりは指で髪をくるくると弄り照れ隠しをする。

 少年は「仕方ないよ」と言って出口までの案内を買って出てくれた。


「あなた、お名前はなんていうの?」

「僕は雅樂川瞬月うたかわしづき。君と同じ一年生だよ」

「私は愛宮えのみやあんり、よろしくね瞬月しづきくん!」


 あんりと瞬月しづきはにっこり笑って握手をする。

 二人が他愛のない会話をしていると、ほどなくして玄関に辿り着いた。


「もう着いちゃった!瞬月しづきくん、道覚えてたの?」

「覚えていたというか、さっき来た道だからね。役に立てて良かったよ」

「これからお掃除しなきゃいけなかったから、出られて良かったよ~!」

「あ、だから箒持ってたんだね……」


 ずっと気になっていたであろう瞬月しづきが得心いったように呟いた。

 そしてあんりが瞬月しづきにお礼を言おうと振り返ると、入る時は特に気にならなかった絵画が目に飛び込んでくる。


 学園の入口、壁一面にその絵画はあった。


 それに描かれているのはあんりと同じくらいの少女で、ウェーブのかかった金髪を豊かに靡かせ、何かに祈っているようだった。

 少女はリボンやフリルがあしらわれた豪華なドレスに身を包んでいる。

 少女の表情には聖女のような優しさと、子供のようなあどけなさが共存しているように感じられた。


「わあ……綺麗……」

「この絵画、素敵だよね。ここの初代学園長がモデルになったんだって」


 絵画に見とれていると瞬月しづきが絵画の説明をしてくれた。


「数百年前、この世界が滅びかけたって話は知ってる?」

「それって有名な絵本の話じゃなかったっけ?確か、世界の時間を司る時計が逆回りを始めて昔に戻っちゃうっていう……。お姫様が世界を救うんだよね」

「そう。そしてそのお姫様は、この絵画の姿を借りて絵本に登場させたんだって」


 これは誰もが知っている絵本のお話。

 「せかいの時計がまわるころ」という有名な絵本のお話です。


 むかしむかし、あるところに世界の時間を統べる時計がありました。

 その時計は世界の時間を決めているのではなく、時間の流れそのものを司っており、人々が前に進むことが出来るのはこの時計のおかげでした。


 しかしある日突然、悪者が時計を反対に回し始め、世界は過去へと逆戻りを始めたのです。

 ですがお姫様のような騎士がそれを食い止め、逆戻りを初めた時計を封印して世界は平和に戻ったのでした。

 めでたしめでたし。


「あの絵本の悪者は作中で糾弾されていたけど、僕はそこまで悪者を責められないって思うんだ」


 おとぎ話や絵本にはモデルになった人や背景がある。

 つまり初代学園長がモデルになった絵画が絵本のキャラクターになった、という話なのだけれど、モデルといっても実話ではない。

 時間が巻き戻ったなんて大事件は歴史の教科書に載っていない。だからこの絵本だって創作に過ぎない。


 だが、真実か否かを断言することはできない。

 誰も過去に戻ることは出来ないのだから。


「悪者がやったのはいけないことだけど、昔に戻りたいなんて誰もが考えてることじゃない?それは悪いことじゃないし、悪者の気持ちがなかったことにされるのは悲しいよ」


 瞬月しづきはなんでもないことのように続ける。


「悪者もお姫様もどっちも、自分のわがままを通しただけ。物語なんて誰かのわがままが叶う話でしかないんだよ」


 過去に戻りたいという気持ちはいつもそばにある。

 昨日の美味しい晩御飯の時間、友達と遊んだあの日、それよりもずっとずっと前の記憶を遡る。


 進学して寮に来る前、両親と姉と過ごしていた家を思い出す。あんりが出た家にはまだ三人が仲良く暮らしているはずだった。

 それはもう、仲良く。

 だがあんりはその記憶を思い出す前に、扉のずっと奥の方にしまい込んだ。


「なんて、こんな話つまらなかったかな」

「ううん全然。瞬月しづきくんはそんなことも考えられてすごいねぇ。私も子供の頃、よくその絵本読んでたけど……そんなこと考えたことなかったなぁ」

「まぁ、あの絵本は過去ばかり振り返っていないで前に進もうって教訓なんだろうけどね」


 瞬月しづきは「そういえば……」と続ける。


愛宮えのみやさん、掃除……するんじゃなかったっけ?」

「すっかり忘れてたよ~‼ありがとう瞬月しづきくん、またね!」


 あっと気付き、あんりは大声を出す。

 それに耳を押さえる瞬月しづきに手を振り、箒を片手に時計塔へと向かった。


 まずい、随分と道草を食ってしまった。

 罰として掃除をするはずなのに、その掃除でまた罰を与えられてしまう。


 あんりはスピードを緩めず学園から飛び出し、一目散に時計塔を目指したのだった。



 ◇



 時計塔の外壁は白を基調としたレンガ作りで、その古めかしい姿からは重ねてきた歴史を感じられた。

 息を切らして到着したあんりは時計塔を見上げ、しばらく眺めたあと──首を傾げた。


(なんだか……他の場所とは違う空気が流れてるみたい。まるで別の世界に来たような……)


 あんりの身に言い知れない感覚が纏わりつく。

 それが何なのかと問われてもはっきりとは答えられない。これまで経験した何とも比較できない違和感だった。


 時計塔の周りには桜が散っている。これを片付けることがあんりに課された仕事だ。


 箒を使って散らばった花を集め、それが終わったら改めて学園を探検しようか。

 そう思って箒を握るけれど、あんりはその手を全く動かせなかった。


「……」


 どうしてかは分からない。

 何故そんなことをしようとしたのか、この時の気持ちを上手く説明できない。


 箒を地面に置き、そびえ立つ時計塔の扉を開ける。

 『立ち入り禁止』の看板が地面に落ちていたが、あんりはそれに気付かずに時計塔の中に入って行った。


 小さな窓から入る光だけが時計塔の中をわずかに照らしている。あんりは螺旋階段を登って頂上を目指した。


 カン、カン、とあんりの足音だけが塔の中に響いている。いけないことをしているようでやけに鼓動がはやった。

 登りきると機械室の巨大な文字盤があんりを圧倒した。がちん、がちんと針が動く音が低く、そして深く刻まれるように響く。


 そして、そこには何故か──カイが佇んでいた。


「あれ、カイくん、こんなところでどうしたの?」

「別に。関係ないだろ」


 文字盤を裏を見ていたカイが振り返る。

 しかしあんりとは目も合わせてくれなかった。


「確かにそうだね!あのね、私は本当は時計塔の周りをお掃除するように言われてたんだけど、ここに入ってみたくなっちゃって。時計の裏側なんて普段見ないから新鮮だねぇ」

「聞いてないけど」

「カイくんって時計に興味があったの?真っ先にここを見に来るなんて、さては……相当時計が好きなんだね?」

「はぁ……もうそれでいいよ……」


 隣に立つとカイは心底嫌そうな顔をする。

 カイの態度と声色から察するに、彼女は人と話すのがあまり好きではないのだろう。でも三年間一緒にいるのだから、少しでも仲良くなった方が楽しいに決まっている。

 だからあんりはカイに話しかけることをやめられなかった。


「ねぇ、カイくんはさ──」


 きらり。

 視界の隅で何かが光る。


 あんりは言いかけた言葉を飲み込み、目に映った光を追いかける。時計の文字盤の裏側、その中心に何かがはめ込まれていた。

 それはよく見ると、古めかしい懐中時計だった。


「……懐中時計?どうしてあんなところにあるんだろうね?」

「さぁ」


 カイも同じものを見ていたようだが、特に関心はないようだった。

 金色の装飾が施された懐中時計は煌びやかで、この世に存在しているのが不思議なくらい美しくて。


 ──そして、とてもボロボロだった。



 ◇



 外でカラスが鳴いている。

 文字盤の裏にある古ぼけた懐中時計を見ていると、心がざわざわと波打つような感覚に襲われた。

 素敵な建物の中にいるというのに、どうしてか嫌な予感がして仕方がない。


「何だ、これ……」


 それはカイも同じようだった。

 しかし周囲を見渡しても何もないし誰もいない。あんりはほっと一息つく。


 ──だが、急に目の前の時計が動き出した。


 時計が時間を刻むことは当たり前のことだ。太陽が東から登って西に沈んでいくように、それは至極当たり前のこと。

 だがこの時計は明らかにおかしい。異様だと言わざるをえなかった。

 文字盤を反対側から見ているあんり達でさえ、その不可解な出来事にはすぐに気付いた。


 なぜなら、この時計は『』に回り始めていたからだ。


「なに、これ……壊れちゃったの……?」

「知るか。俺の知ったことじゃない……」


 がちん、がちん、と乱暴に針が動く。


 口ではそう言うカイだったが、その顔には戸惑いが滲み出ていた。

 時計の針は次第に速度を上げ、普通ではあり得ないスピードで回転する。その異常な光景にあんりとカイは何もできず茫然と立ち尽くすしかなかった。


 時計の針はしばらく滅茶苦茶に回ったかと思うと、零時を指して動きを止めた。

 そして低く、重い音が鳴り響く。時計塔の中にいる二人はその大きな音に思わず耳を塞いだ。

 学園にきてから何回も聞いた音なのに、不安感を煽られるような不快な音だった。


 十二回鳴っても止まらない時計の音に、この時計は壊れているのだとようやく気付いた。

 学園に知らせようと踵を返す。すると、背後でかしゃんと何かが落ちた音がした。


「これ、さっきまであそこにあった……懐中時計?」


 文字盤の後ろにはめ込まれていた懐中時計が、そのすぐ下に落ちていた。

 懐中時計は見るも無残で、形を保っているのがやっとという有様だった。拾い上げて見るとそれがよく分かる。

 時計の針はもちろん動いておらず、時計を保護しているガラスも割れて中身が見えてしまっていた。今の落下で完全に壊れなかったのは奇跡だろう。


「と、とにかく、私はこの懐中時計と時計塔のことを先生に言ってくるね。カイくんはどうする?」

「別にどうもしない。勝手にすれば」


 鳴り続けている時計を背に、カイはあんりの横を素通りしていく。

 時計塔に登ってしまった罰は受けるとしても、ひとまずこの異常を伝えなければならない。

 あんりも階段を下りて時計台を後にしようとした。


 ──その時、時計台が激しく揺れ出した。


「ちっ……何だ⁉」

「なにこれ、地震……⁉」


 あんりとカイは階段の手すりにしがみつく。

 地震というには余りにも揺れが激し過ぎる。まるで何かが時計塔の中で暴れ回っているようだった。

 あんりは立つことも出来ずに階段に座り込む。


「おい、揺れが収まったらさっさと出るぞ!」


 身の危険を感じたのか、流石のカイも大きな声を出す。

 揺れは徐々に収まってきたが、もう一度あんな揺れに襲われたらここも倒壊の恐れがある。

 揺れのせいで足が震えてしまっていたけれど、なんとか立ち上がって時計台から脱出する。


 だが、あれだけの揺れだったというのに、外にいる生徒達は何事もなかったかのように過ごしていた。

 避難のために大騒ぎになっていてもおかしくないだろうに。


「あれ……?もしかして、夢だったり、とか……?」

「そんなわけないだろ……」


 振り返ると時計の針は零時で止まっていた。

 時計塔から出るのにしばらく時間がかかったのにも関わらず、だ。


 あの時計塔は壊れてしまったのだ。あんりは自分をそう納得させて学園に戻ろうとした。


 ──だが、その瞬間おぞましい悪寒が走る。


 心の臓まで蝕むような恐怖、不安、絶望という冷たい感覚が体中を支配する。昼間だというのに不気味に暗く染まった空がそれを如実に表わしていた。


 時計塔を振り返ってはいけない。危険だと頭がしきりに訴える。

 しかし心が確かめる必要があると叫んでいた。


「……なに、あれ……」


 振り返ると、時計塔を覆わんとしている『』がいた。


 それは黒い塊と呼称する他なかった。

 ひどく濁った沼が奥底からせり上がってきたようで、人の形になり損なったような不気味な姿をとっていた。

 手足はあれどその長さは不揃いで、人と呼称するのすらはばられる。

 時計台に届くほどの黒い怪物は、頭と呼ぶべき部分に時計が仮面のように張り付いており、体の部分は全てが漆黒に塗り潰されていた。


 その姿は空を飲みこまんばかりに大きくなる。

 山のような暗闇に張り付けられた時計。それを頭とするのなら、胴体と呼ぶべき部分からぐにゃりと細長い腕のようなものが生えている。

 現実には存在しない形容しがたい『何か』を前に、あんりとカイは言葉を失ってしまった。


「あなた達、早く逃げなさい‼」

「せ、生徒会長……⁉」


 後ろから焦りを含んだ怒声が飛んできた。

 振り向くと、そこには膝に手を当てて息を切らしている生徒会長──久遠くおんがいた。


「あんた、あれが何か知ってんのか⁉」

「あれは……いえ、あんなものは私も知りません……‼」


 久遠くおんはその美しい髪を乱し額には汗を浮かべていた。

 彼女の逼迫ひっぱくした声にあんりは現実に引き戻される。久遠くおんはあんりが両手で抱えている懐中時計を見つけると、信じられないものを見るように目を見開いた。


「……あなた、それをどこで……⁉」

「これは……時計台の文字盤の裏から落っこちて来て、上手くキャッチ出来なかったんですけど──」

「そんなこと説明してる場合か‼」


 怪物は巨大化をやめ、その長い腕であんり達を捕えようと手を伸ばしてくる。


 逃げることは不可能だった。

 黒い腕はあんりが持っていた懐中時計を弾き、懐中時計は空中で無残にも砕けてしまった。


「『こころ時計とけい』が……‼」


 頭上から歯車や部品がパラパラと落ち、久遠くおんが悲鳴にも近い声を上げる。

 砕けた懐中時計は二つに割れて一つがあんりの手に収まり、もう一つはカイがキャッチした──その瞬間。

 壊れているはずの懐中時計が眩い光で輝き出した。


「何、この光……⁉」

「なんだこれ……!」


 壊れていた時計は光に包まれ、その中から全く別の時計が二つ現れた。

 懐中時計はハート形へと姿を変える。一つは赤い宝石があしらわれ、もう一つは青い宝石が煌めいていた。

 それぞれの時計は長針と短針しか付いておらず、一つでは完全な時計とは言えなかった。


 その光におびえたのか、黒い何かはひるんで動きを止める。


「それは『こころ時計とけい』です!二つに割れたのに起動するなんて……!」


 久遠くおんは信じられないと首を振って戸惑っている。

 しかし意を決したようにあんり達に向かって叫んだ。


「それに認められたということは、貴方達は悪を討つ『守護騎士ガーディアン』の証です!貴方達は今、途方もない力を解放することができるのです!」


 久遠くおんが言っていることは殆ど分からなかった。

 でも、輝く光はあんりにしか出来ないと訴えているように感じる。


 壊れた時計で何ができるはずもない。

 でも、胸の奥から熱く煮えたぎるような波が押し寄せてくる。


 どうしてそう感じたのかは分からない。

 分からないことばかりなのに、伝わる熱はあんりの心の奥底を震わせていた。

 姿を変えた時計を握り締め、カイの手を握る。


「カイくん!」

「はぁ?俺はそんなの知らな──」


 呼応するように懐中時計の宝石が光り輝きだし、カイも思わず言葉を詰まらせる。

 目が潰れそうなほどの光に圧倒される。あんりとカイはそれに負けないように手を握り締めた。


 あんりの右手の時計とカイの左手の時計を合わせる。

 すると、自身の意思と関係なく言葉が口をついて出た。


『我ら守護騎士ガーディアンの名の元に、de la Liberté(解放せよ)!』


 合わせた時計が光り輝き、施されていた宝石からレトロな鍵が現れた。時計の上にある鍵穴にそれを差し込み、回す。

 そしてあんりとカイは目の前が真っ白になるほどの光に包まれ、体中に纏った光は服をかたどっては弾けて消えてゆき、古めかしく気品のあるドレスに身に纏う。

 鍵を差しこんだ懐中時計にはリボンがあしらわれ、二人の胸元に装着された。


 全ての光が霧散した場所には先ほどとは打って変わった二人の姿があった。


「これが守護騎士ガーディアン……」


 久遠くおんは息をのんでその瞬間を見つめていた。


 あんりの髪はボリュームのあるツインテールになり、可愛らしいリボンで結わえられている。

 そして制服はリボンやレース、フリルがふんだんにあしらわれたお姫様のようなドレスに変化していた。

 カイは雑多に伸ばしていた髪が後ろで束ねられ、マントのように広がる服を着る様はまるで騎士、いや王子のようであった。


「めんどくさいことに巻き込みやがって……」

「すっごい、変身しちゃった!でもなんだか力がみなぎってくる気がするよ!」


 温度差のある二人など露知らず、怪物はその体から数十本の腕を飛び出させる。

 その数本はぐんと伸びてあんりとカイに狙いを定めていた。


「危ない、避けて!」


 警告する久遠くおんの声であんりは足に力を込める。

 すると、あんりはおよそ人間ではあり得ないほどの跳躍力で怪物の元へ駆けて行った。


「学校を壊しちゃだめなんだから~~っ‼」


 伸びてきた腕をジャンプで避け、時計塔を足場にして黒い怪物に向かいロケットのごとく飛んで行く。

 実態が無いように見える怪物だが、その体に拳がめり込み呻き声のようなものが漏れる。

 黒い怪物はそのまま地面に倒れ、着地したあんりは自分の拳を驚いて見つめていた。


「すっごい力!私じゃないみたい!」


 爆発的な力に目をぱちくりとさせたあんりの前には、再び動き出そうとする怪物の姿があった。

 怪物は臨戦態勢を取るあんりではなく、優雅に頭を掻いているカイめがけて巨大な腕を振り下ろした。


「俺はここに暇つぶしに来ただけだ。お前に邪魔される筋合いはないんだよ」


 カイを押し潰したかに見えた怪物の腕はしかし、彼女の片手で制止させられていた。

 そのまま怪物の腕を掴み、ハンマー投げの要領で回転して怪物を投げ飛ばす。


「すごいねカイくん!私達、テレビのヒーローになったみたいだよ!これならあの怪物もやっつけられるね!」

「こっちに向かってきたから懲らしめてやっただけだよ。なにがヒーローだバカバカしい」


 握ろうとした手は払いのけられカイはそっぽを向く。だがその間にも怪物は起き上がってくる。

 一体あれは何なのだろう。現実に起きているとはにわかに信じがたいけれど、頬をつねっても夢から覚めそうにない。

 そして、あれは確実にあんり達を狙っていた。


「お願いします、あの怪物を倒してください!」


 何度も立ち上がってくる怪物に困惑するあんり達に久遠くおんが訴える。

 あの冷静沈着な生徒会長が狼狽ろうばいしていることがこの状況の異常さを物語っていた。


「説明は後で必ずします!あれを倒さなければ大変なことに……!」

「ああ、それは言われなくても分かるよ」


 やる気のなさそうにしていたカイが、重い腰を上げて一歩前に出る。


「俺の邪魔をするなら蹴散らすだけだ」

「みんなを危険に巻き込むわけにはいかないですから!私に出来ることならなんでもします!」


 ちぐはぐな二人がが噛み合った瞬間、二人の胸に装着されていた時計が眩い光を放って輝きだした。

 長針と短針が時計から外れ、長針は長い弦に、短針は光を纏った弓にそれぞれ姿を変える。それを二人でつがえ、黒い怪物に向かって矢を放った。


光陰こういん穿うがて!arc d`amour!』


 矢が命中した黒い怪物は弾け飛び、飛び散った欠片はもやになって消えていった。

 残った頭部の時計が乾いた音を立てて地面に転がる。


「消えた……今のは一体……」

「あんた、説明するって言ってただろ。知ってるんじゃないのか?」

「今の怪物のことは知りません。でも、あなた達以上に今の状況を理解していることは確かです」


 久遠くおんはあんりとカイを交互に見ると、意を決したように顔を上げた。


「理事長室に来てください。私の知っていることをお教えします」

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