第31話
帝国軍が動くとあっては、王都で呑気にしている場合ではない。
今世のイングリッドの移動手段は馬車一択、婚約者候補筆頭として王宮に参内する時は公爵家の馬車を利用していたわけだが、
「お嬢様・・・お嬢様・・お嬢様・・待ってください!」
リンドロースの叫び声など無視をして、イングリッドは公爵家の領地に向けて馬を豪速球で走らせていた。
今世のイングリッドは馬には乗った事などなかったが、前世のイングリッドはそれなりに乗馬をした経験がある。
中南米を拠点にして麻薬の仲買人をしていたイングリッドの移動手段の一つでもあった馬、田舎に行けば行くほど、道路がアスファルトで舗装されていない。赤土が剥き出し状態だったりするわけだ。だから、一般家庭でも普通に馬は移動手段として使っていたりするし、なんなら道端を馬が歩いて雑草を食べていたりする。
ギャングに追われて、密林の中、馬を走らせて逃げ出した事もあるイングリッドは、逃げ足だけには自信があった。
執事のリンドロースを連れて何度も何度も替え馬をしながらアハティアラ公爵家の領地へと向かったイングリッドが領主館にたどり着いた時には、執事は灰となって崩れ落ちそうになっていた。
「リンドロース!大丈夫か!」
慌てて飛び出して来たのはマンフレット・アハティアラ、公爵家当主であるイングリッドの父の叔父にあたる人となる。
アハティアラ公爵はピンクブロンドの髪色に翡翠色の瞳となるが、当主の叔父となるマンフレットは樽のように丸々と太った男で、もっさりとした黒い口髭に愛嬌がある。
壮年の美丈夫と言っても大袈裟ではないイングリッドの父と比べると、何処にも似ている所がないように見えるけれど、翡翠色の瞳だけは同色なのだ。
黒髪なのは魔力保有量が多いため、漆黒の髪は血筋に関係なく出る特徴でもあるのだった。
「マンフレット大おじ様、アハティアラ公爵家が嫡女、イングリッドがご挨拶を申し上げます」
馬を飛び降りたイングリッドは男装姿のまま形式上カーテシーをすると、
「リンドロース!すぐさま、親族を召集しろよ!」
人が変わったように、灰と化したリンドロースを蹴り飛ばす。
「え・・えええええ?」
マンフレットがイングリッドと直接顔を合わせたのは、イングリッドの母の葬儀が最後だった。公爵家の嫡女となるイングリッドは、淑女の中の淑女と言われるまでに育ち、8カ国語を自由に操る、母と同じような才女であるという話は聞いていた。
そのイングリッドが男装の姿で馬を乗り継いで領地までやって来たという事にも驚いたが、執事であるリンドロースへの態度がとにかく酷すぎる。
太ったマンフレットが、よろよろしながらも外に飛び出していくリンドロースの後ろ姿を見送っていると、
「大おじ様、緊急の事態です、すぐさま人払いを」
とイングリッドに耳元で囁くように言われた為、マンフレットは、ごくりと小さな喉仏を上下に動かした。
人に聞かれてはまずい話だという事で、応接室ではなく自分の執務室へとイングリッドを招き入れると、長男のエイナルにお茶の支度を任せて、イングリッドにまずはソファに座るように促した。
エイナルはイングリッドの父と同じ年に生まれたので、三十八歳となる。くるくるとカールがかかったピンクブロンドの髪に翡翠色の瞳をした、母親に面立ちが似て中性的な顔をしているので、年齢よりもかなり若く見えた。
「王子の婚約者筆頭という立場もあるし、叔父とはいえ私と個室で密談というのも対外的に問題があるため、長男のエイナルを同席させたいのだが」
「ええ、全く問題がありません。まずはこちらの書面をあなた達に渡しておきましょう」
紅茶と焼き菓子をテーブルの上に置いたエイナルがマンフレットの隣に座ると、イングリッドは服の中に隠し持っていた書類一式をマンフレットとエイナルの前に置いた。
その書面には、アハティアラ公爵家の当主であるイングリッドの父のかつての側近候補だった子爵、男爵位を持つ男達の名前が記され、賭け事が好きな彼らにどれだけの借金があるかという内容から、借金を帳消しにする為に、自領の一部を帝国に勝手に譲渡した上で、そこに麻薬の工場を作っているという内容まで記されていた。
一部は公爵が隠し金庫に入れていた書類の写しという事になる。
「カジノで多額の借金を作ったのは、帝国の間諜に嵌められての事でしょう。公爵家の赤字を母の生家であるカルネウス伯爵家の資金援助によって賄っていた父ですが、早々に伯爵家とは手を切りたいと考え、元側近達の甘言に乗る形で麻薬事業に手を出していたという事になります」
麻薬の工場は多額の借金を作った男爵家の管轄地につくられたが、ここから各方面に出荷をする為には、アハティアラ公爵の協力が必要となる。
複数の鉱山を所有する公爵家だけれど、ある時期から鉱石の取引にレックバリ商会が絡んで来る事になる。
レックバリ商会はオーバリー子爵が所有する商会となる。
海側から持ち込まれたランプル列島の自然系麻薬と帝国から持ち込まれる鉱石系麻薬を混在させて精製するのがアハティアラ公爵領内にある工場の役割で、出来た麻薬は安値で仕入れたクズ石の中に隠すような形でレックバリ商会が運んでいく。
「レックバリ商会及び商会を所有するオーバリー子爵は、オーグレーン侯爵が今頃、隅から隅まで自分の配下を行き渡らせて、関わった者すべての捕縛をしている事でしょう」
「えーっと・・ごめんね、おじさん、孫が八人もいるおじいちゃんだから、ちょっと理解するまでに時間がかかりそうです〜」
太ったマンフレットは顔を顰めながら俯いて、口髭に隠れた小さな口をもぐもぐさせた。
「イングリッド様、オーグレーン侯爵は麻薬を蔓延させたオーバリー子爵の寄親という事で良いのでしょうか?侯爵は麻薬の取引には一切関わっていないという判断で宜しいのでしょうか?」
手を挙げて問いかけるエイナルに笑みを浮かべながらイングリッドは答えた。
「オーグレーン侯爵としては子爵が回している国内の麻薬事業については全く認知せず、寝耳に水の状態でした。領内で麻薬の工場がフル稼働していた事に気がつきもしなかった、貴方がたと同じような状況だと言えるでしょう」
イングリッドの目の前に座る親子はお互いに目線を交わし合うと、ぐるりと体の向きをイングリッドの方へ向けた。
「イングリッド様がここまでの情報をこちらに持って来ているという事は、王家の方ではすでにこの事をご存知という事ですか?」
「ペルニア王妃はご存知です」
その場でひきつけを起こしそうになった親子は『いや、待てよ?』と考えて、その場で踏ん張る事にした。
ペルニア王妃がご存知という事は、まだ王妃のところで話を止めているという事に他ならない。王家として動き出す前にオーグレーン侯爵家が子爵捕縛のために動き出したという事は、アハティアラ一族も、これからの働きによっては情状酌量の余地があるのかもしれない。
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