第4話
公爵家から一人の侍女が行方不明となった。
多くの使用人が働くアハティアラ公爵家としては、一人くらい居なくなっても何の問題にもならないし、いつもの侍女ではなく、執事のリンドロースがイングリッドに食事を運んでいたとしても、気にするような人間は一人もいない。
「リンド君、今日は王子に面会するって事でOKもらったって事だよね?」
「今日の午後であればお時間を取る事は可能との事でございます」
「アホは何してんの?」
「今頃はフレドリカ様、フィリッパ様と共に朝食をお召し上がりなのではないでしょうか?」
公爵の朝食に付き添わず、イングリッドの朝食を運んできた時点で、リンドロースの立ち位置が決定した事になる。
イングリッドは自分の父を『アホ』と明示したが、リンドロースは華麗に無視する事に決めたらしい。
「レクネン王子とは正式に婚約したわけじゃないんだよね?」
「婚約式を行なっておりませんからね」
「婚約式の日取りって決まっていたっけ?」
「約一ヶ月後でございますね」
「知らないんだけど」
「誰もお教えしなかったのでしょうか?」
「教えてくれる奴が居るわけないじゃん」
リンドロースは泣きそうな顔になって俯いた。
イングリッドの朝食を食べる姿は美しいの一言に尽きる。
公爵がイングリッドを本気で王家へ嫁がせる気があったのかどうなのかは、今のリンドロースに分からないが、リンドロースはイングリッドが王家に嫁ぐものと思い込んでいたのだ。
北方に位置するエヴォカリ王国は、何百という沿岸の島々と、針葉樹林に囲まれた国であり、氷河の山々から流れ込む多くの湖が王都の周囲に広がるため、エヴォカリは他国から水の王国とも呼ばれていた。
長かった冬が終わり、ようやく春を感じる季節が訪れた事により、白亜の城の中もピンク色のオーラに包み込まれているのかもしれない。
王子との面会のため、王宮庭園に面した回廊を歩いていたイングリッドは、本来、サロンで待ち構えているはずのレクネン王子が、庭園のガゼボで令嬢と熱烈なキスを交わし合っている姿を認めて、
「まあ!まあ!まあ!まあ!」
と、思わずといった様子で足を止めた。
驚きを隠しきれない様子でガゼボを眺めると、両手で自分の口元を押さえる素振りを見せたのだ。
サロンへ案内するため先を歩いていた侍従は、自分の後ろをついてこないイングリッドの淑女とも思えない行動にまず眉を顰め、イングリッドの視線の先で他人の視線など気にもせずに、唇を重ね合わせ続けている自国の王子の有様を認めて、思わず、
「・・・・」
茫然自失のまま、立ち尽くしてしまったのだった。
アハティアラ公爵家の令嬢であるイングリッドとレクネン王子の婚約は、ほぼ、ほぼ、決定したようなものだった。
その決定に王子は色々と思う所があるようで、これから婚約者となる予定のイングリッド嬢から訪問したいという手紙が届いた際にも、何かを考え込んでいるような様子で黙り込んだ。
しばらく沈黙をしていた王子も婚約者として応対する気にはなったようで、春の花が今は見頃となっているサロンに自らお茶の席を用意して、令嬢を迎えに行くと言って出て行った。そしてそのまま、待てど暮らせど帰ってこない。
そうこうするうちに、イングリッドが到着したという報告が来た為、慌てて侍従が迎えに行ったところでこのザマだ。
「殿下が私の義妹と仲が良いとは思っていましたが、ここまで仲が良いとは知りませんでしたわ」
イングリッドはポッと顔を赤めるが、侍従としてはそれどころではない。
ほぼ、ほぼ、婚約者が決まった状態だというのに、どうやらガゼボで熱烈なキスをしている相手が、婚約者の妹となるフィリッパ嬢だというのだから洒落にならない。
本格的に、殿下の侍従の職を辞退しようかと考えていると、イングリッドが鈴を鳴らすような声で言い出した。
「今日の殿下は、義妹のフィリッパしかその瞳に映したくはないのでしょう。今日は王立図書館の方へ寄ってから帰る事にいたします」
「しょ・・承知いたしました。本日は誠に申し訳ありません。後日、必ず、殿下にはイングリッド様とのお時間を作るように致しますので」
「必要ありませんわ〜」
イングリッドは扇子を開いて自分の口元を隠す。
「明日には何処ぞの男爵令嬢しか瞳に映したくないと思うでしょうし、明後日には何処ぞの子爵令嬢の姿しか映したくないと申しましょう。私の入る隙など無い事は十分に承知しておりますので、無駄な配慮など必要ございませんわ〜」
ニコニコ笑いながら毒を吐く令嬢を見下ろして、侍従は生唾をごくりと飲み込んだ。
妖精のように儚げなイングリッドは、言葉数が少ない令嬢としても有名だった。
アハティアラ公爵は正妻を亡くし、葬儀を行なった次の日には、愛人を邸宅に連れ込むような男である。後妻の継子いじめもまた、界隈では知らない人はいない話だ。
見た目は儚げな令嬢が、随分と毒を含んだような事を言っている姿に驚いた侍従は、これからどうなるんだろうと考えて、背筋が冷たくなってきた。
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