第11話 かなしみは隠されて④

******


「……このあたりか」

「ええ。こんな場所で大型の魔物だなんて……本当かな? 被害は出ていないっていうけど……危険な依頼を放置するなんてどうかしてるわ。家畜がいなくなる事件の方が優先順位が高いだなんて変よ! いえ、家畜も大切なんだけれど!」

 俺とメルトリアは町で馬を借り、金の道ゴルトレーンを西へと急いでいまに至る。

 エルダから受け取った依頼書に大型の魔物の目撃情報が記載されていたからだ。

 幸いメルトリアの馬術にはなんら問題なく少しだけ馬に無理をしてもらって進んできたんだけど――彼女の言うとおりだよな。

 もし依頼書に書かれていることが本当だとしたら、よくものんびりしていられるなってくらいの大問題のはずなのに……まあ確かに家畜も大切なんだけど。

 この六十年でハグレの魔物が減ったから――警戒することすら忘れてしまったのだろうか。

 だとしたら――危険だ。

 俺は僅かに唇を噛み、それから口を開いた。

「見た目の特徴からは山羊頭魔サタナキアが近そうだけど……目撃できる距離にいる人を襲わないのは考えにくいな」

 山羊頭魔サタナキアは山羊に似た頭部を持つ二足歩行の黒い魔物だ。その体は俺が見上げるほどに大きく、厄介なことに魔法を使う。

 メルトリアは馬の速度を落として難しい表情であたりを見回した。

 広がるのは草原で、まばらに低木が茂っているけれど見通しはそこまで悪くない。

 草は俺の膝から腰程度、低木は俺を隠せるくらいの高さがあるが、大型の魔物となれば身を屈めずに隠れるのは難しいだろう。

 特に山羊頭魔サタナキアは山羊に似た頭部から二本の太い角が上へと伸びた容姿だ、近くにいれば角くらいは見えそうだしな――。

「そうね、好戦的なはずだもの。急がないと日が暮れちゃう――どうする? アルトスフェン」

 既に影は長く伸びつつある。

 不安げなメルトリアに……俺は瞼を下ろして逡巡した。

山羊頭魔サタナキアは昼間も行動するけど、どっちかというと夜行性だ――いま眠っているだけで夜に活発になる可能性はある――か。乗合馬車がこのあと通るはずだし、ちゃんと見回るべきだと思う」

 俺が応えるとメルトリアは亜麻色の髪を揺らしながら頷く。

「うん。魔物に蹂躙されるなんて――二度と誰にも味わってほしくないもの」

「おう。……そうと決まれば少し街道を外れよう。痕跡が見付かるかもしれない」

 ……魔物に限らず痕跡探しは勇者一行の弓使い、オルドネスが得意だった。

 ついて回ってその方法を賢明に学んだっけ――。

 少しでも誰かを護れたらって、そう思っていたんだ。

 少しでも誰かを助けられたらって、そう――。

「――本当、誰とも関わらないように……なんて。俺には無理だったな」

「……アルトスフェン?」

「いや、こっちの話。よし、行こう」

 俺は馬を降り、ねぎらうためにその頬をポンポンと撫でた。

 メルトリアも馬を降りると同じように馬を労って、沈みゆく太陽に視線を向ける。

「なんとか暗くなる前に見付けないとね。なにもなければそれでいいけれど……」

 馬は帰巣本能がある。このまま帰ってくれるので大丈夫だ。

 ゆっくりと歩き出した彼らに背を向け、俺たちは草が伸び放題になった草原へと踏み入った。

 乾いた風が俺の濡羽色ぬればいろの髪をかき混ぜるようにザアッと音を立てて吹き抜けていく。

 まずは見える範囲の茂みから。

 あたりを見回しながら、草を踏み分けて進む。

 ひとつめ――魔物はいない。動物が齧った痕も見当たらない。

 ふたつめ――魔物はいない。虫が冬の備えを蓄えるために低木の表面を行ったり来たりしている。

 みっつめ――魔物はいない。小型の動物がいるのか折れた枝が見て取れた。

 街道からはだいぶ離れたはずなのに……このあたりに魔物はいないのか、それとも……。

 俺は次の茂み付近で朱色に染まり始めた空を振り仰いだ。

「……くそ、時間が……」

 そのとき、微かな『臭い』が鼻を掠める。

「……?」

 なにか――そう、腐臭のような――。

「あ、アルトスフェン……」

 メルトリアが茂みの向こうを覗き込み……か細く俺を呼んだ。

「どうした?」

「あれ――」

 彼女が指差す先を覗き込んで、俺は眉を寄せる。

 茂みの向こう、少し先で不自然に草が「途切れて」いるように見えたんだ。

 それだけじゃなく正面から吹き付ける風に紛れた腐臭のようなものが強くなった気がする。

 その付近には、なにかが草をんだような痕があって――。

「……ッ」

 ぞわ、と背中が粟立った。

 ――いる。

 途切れた草のあたり、あれは――地面に穴が穿たれているんだ。

「……見てくる、構えていてくれ」

「……」

 こくりと頷いたメルトリアが双剣を抜く。

 俺も両手剣を構え、茂みを割って踏み出した。

 細い枝がパキパキと折れる音が嫌に響いて聞こえる。

 ブーツ越しに草の柔らかさが伝わり、乾いた風はなおも腐臭を運ぶ。

 そして――。

「…………!」

 俺は息を呑んだ。

 飛び越えるには広く、飛び降りるには深すぎる穴が地面に穿たれ、その底に――。

山羊頭魔サタナキア

 山羊に似た頭部を持つ二足歩行の黒い魔物が……体を丸めて眠っている。

 穴の向こう岸には草で隠してあるが台車のようなものが用意されていて、いまは上段で止まっていた。

 強烈な腐臭が鼻を突くのは穴の底に溜まる腐った肉片によるものだ。

 ――牛や、豚――鶏。

「まさか……家畜がいなくなる事件の黒幕もこれか……?」

 腕で口と鼻を覆い、俺は思わずこぼした。

 それにこれは――明らかに人為的だ。

 いったいなにが起きている……?

 考えながら合図を送るとメルトリアがやってきて……双眸を見開いた。

「……あ、あ……」

 その瞳が泳ぎ、唇が震える。

「――メルトリア?」

 様子がおかしい。

 確かにこの光景は決して気持ちのいいものじゃないか――しまったな。

 俺は安易に呼んでしまったことを申し訳なく思い、剣を収めて彼女に「一度下がろう」と提案した。

 でも……。

「……どうして、嫌……」

 彼女は俺の声が聞こえていないようで、双剣を握り締めたまま頭を抱えると首を振る。

「メルトリア……? おいメルトリア、どうし――」

「きゃああっ!」

 俺がその肩に触れた瞬間、彼女は弾かれたように踵を返して足を縺れさせた。

「メルトリア!」

 地面に叩きつけられるようにして転がったメルトリアの亜麻色の髪に草が絡まり、蒼白な頬に土が線を描く。

 這いつくばったまま、なおも逃げようとする彼女を、俺は咄嗟に仰向けにして地面に押さえ付けた。

 明らかに理性を失っている――そう思ったんだ。

「いや、いや、嫌……! 助けて――」

「大丈夫だメルトリア、大丈夫!」

「助けてッ、死にたくない――ッ!」

「メルトリア!」

 馬乗りになって彼女の瞳を覗き込む。

 どこか遠く――胸の底の記憶を視ているのだろう彼女は必死で俺を退かそうと、俺の鎧を叩く。

「――助け……い、嫌、いや――ッ、助けてッ!」

「助けるよ、俺が助ける。大丈夫、敵はいない、メルトリア――!」

 本当なら頬を叩くとかがいいのかもしれない。

 でも籠手ガントレットを外している場合ではなく、俺は咄嗟に自分の額を彼女の額にぶつけた。

 ゴツ、と鈍い音がして……額が熱くなる。

「――助ける。そのための勇者だ、そのために――勇者になった。助けるよ……だから」

 至近距離、俺を映す翡翠色の双眸から涙が滲む。

 まなじりからぼろりとこぼれた雫が彼女のこめかみへと流れ、髪のあいだに消えていく。

「……メルトリア。俺がわかるか?」

「は……う、う……あ、アルト、スフェ……」

「おう」

「――ひっ、ひく……ご、ごめんなさ――」

「大丈夫。ちょっと自分が勇者でよかったと思ったところ」

 俺は瞬きとともに戯けてみせ、ゆっくりと彼女から体を退ける。

 メルトリアは腕で涙を拭い、深呼吸を繰り返してから上半身を起こした。

「…………」

 まだ蒼白な顔で、その体は震えている。

 幸い、山羊頭魔サタナキアは起きなかったらしい。

 俺は「茂みに下がろう」ともう一度提案し、今度こそ一緒に戻って彼女を座らせた。

 あの穴には定期的に誰か・・が通っているはずだ。

 今日来るかもしれない誰かに見付かるわけにはいかない。身を隠す必要がある。

「――あの、アルトスフェン」

 そこで少しずつ落ち着きを取り戻したメルトリアがおずおずと声を掛けてきて、警戒していた俺は肩越しに彼女を振り返った。

「落ち着いたか?」

「……うん。本当にごめんなさい――」

「気にしない。……あの穴のことは俺に任せてくれ」

「そ、それは駄目……! もう大丈夫。……助けてもらったから……ありがとう」

「ふ。強がりもほどほどにな」

「……」

 メルトリアは少しだけ唇の端を持ち上げると深く息を吸って――バシンと自分の頬を叩いた。

「――本当に大丈夫よ。……あの穴、人為的なものよね? しかも……が与えられている。誰かが魔物を飼っているんだわ……家畜がいなくなる事件もきっと」

 その瞳は意志の強そうな光を讃え、紅い空の下でも負けていない。

 俺は彼女らしい気合いの入れ方に思わず笑みを返し、気持ちを引き締めて頷く。

「そうみたいだ。次に餌を与えるときを見計らって捕まえる。……とはいえいつ来るかわからないからな。長丁場になるかもしれない」

 けれどメルトリアは首を振り、確信めいた声音で硬く告げた。

「……いいえ、遅くとも三日以内よ。山羊頭魔サタナキアの周りの肉はもう腐ってた――あいつは飢えているわ。私たちがいるのに反応しないのも消耗している証拠よ。このまま三日もすれば死んでしまう……もしそれを望まない者なら必ず来る。――私にはわかるの」

「なら短期決戦だな。……急いでもっとしっかり身を隠す場所を用意するよ。メルトリア、見張りを頼めるか?」

 俺が頷くと彼女は眉尻を下げて困ったように笑う。

「…………聞かないの?」

 どうしてあんなに取り乱したのかとか、どうしてそんなことを知っているのかとか、そういうことを言いたいんだろうな。

 俺はその問いに笑ってみせた。

「おう、聞かない。秘密が多いほうが素敵なんだろ?」

「アルトスフェン――」

「いま大丈夫なら構わないさ。あ、でも気にならないわけじゃないからな? 話せるようになったら……そのときは聞かせてくれ。メルトリアが隠してること」

「…………うん。ありがとう。見張りは任せて」

 俺は頷いて茂みのなかに隠れるための場所を作り始めた。

 これも勇者一行の弓使い――オルドネスから教わったことだ。

 草木を使い、地面を少しだけ掘り、身を隠す場所に仕立て上げていく。

 こうすることで人や視覚に頼る魔物からは察知されにくく、反対に待ち伏せには持ってこいだからな。

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