第30話

『ここだけの話、妹からちらっと聞いたんですけど今一緒に住んでいない母親,、変な宗教団体にいるらしいですよ?』

『妹は精神疾患持ちだし、母親は変な宗教に入信していて帰ってこないって。二カ月で別れてよかったですよ』

以前、梶さんと一緒に来店した菅生さんという女性が話していた内容は、間違っていなかったらしい。最初から疑っていたというわけではないが、真実味のないどこか絵空事のような話だと思っていた。私は、お客様の話を簡単に受け流していたのだ。そのことを目の当たりにすると、羞恥で体が熱くなってくる。

私が何も言わずに佇んでいると、その態度に不満を覚えたのか千里さんはがんっと思い切り机の脚を蹴った。

「ちょっと!ちゃんと私の話を聞いてるの?本当の話なんだから。伯母さんは、最初ははぐらかしてたけど、私は【光の苑】の人からちゃんと話を聞いたのよ」

「【光の苑】の人……?それって、誰ですか?」

私がぐっと身を乗り出して聞くと、千里さんはにやりといたずら気な笑みを浮かべた。

「知りたい?でも、あんたに教えてあげなーい。じゃあ、そうね、知りたかったら千紘とデートする日に私も同行させてよ」

「で、でぇと?ですか?そ、そんな約束、千紘くんとしていませんよ」

「え?だって、二人でお出かけするって約束したんでしょ?それってデートってことじゃない」

脳内でお出かけとデートがイコールにならず、私は少し混乱していた。いつの間にか足元がふら付いてきている。

「お客様、大事な店員に色々と刺激的なことを吹き込まないでくださいね。はい、お待たせしました。マフィンでございます。アールグレー、チョコレート、ブルーベリーのホイップもトッピングしています。お好きな味でお楽しみください」

よろけかけた上体を、横から宮原さんがいつの間にか支えてくれた。宮原さんはにっこりと営業用の笑みを浮かべているが、目は笑っていなかった。

千里さんは頬杖をつきながら私と宮原さんを見比べている。

「……このおじさんなら大丈夫か。千紘の方がずっといい男だもんねー安心した」

宮原さんのこめかみに青筋が入る音が聞こえたような気がしたので、私は慌てて宮原さんをキッチンの方へ誘導させた。

戻ってくると、千里さんは幸せそうにたくさんのホイップを絡ませながらマフィンを口いっぱいに放りこんでいた。今日一の自然で幸せそうな笑顔だ。

「……甘いものって、食べると幸せな気持ちになりますよね。私は、ずっと栄養を摂取するために義務感でご飯を食べていたような気がします。ご飯を用意してくれる母には申し訳ないことを―――」

言いかけた途端、千里さんの手が止まり、そのままがんっと強い力で拳を叩きつけた。

「あんたの母親との家族ごっこなんて知らない!聞いてもない!不快だから消えて!」

「申し訳ありませんでした」

私は深々と頭を下げると、そのままキッチンへ逃げるように駆け込んだ。

私はよっぽど打ちひしがれた顔をしていたのか、宮原さんは一瞬驚いたような表情だったが、そのまま余ったマフィンを皿にのせて差し出した。

「多めに作ったんです。あとで雫さんと食べようと思って」

「……すみません。ありがとうございます」

千里さんの笑顔が言うように、そのマフィンはほんのりとした甘さのためホイップをたくさんつけても甘ったるい味にはならなかった。夜中に甘いものを食べる背徳感みたいなものは微塵もない、とも言えないが美味しいものはただただ美味しいのだ。


マフィンを食べてしばらくするとからん、とドアベルが鳴った。

私は片づけをしていたので、宮原さんが接客に向かった。

「本庄さん?でしたよね、いらっしゃいませ」

宮原さんの声に、私は急いで片づけを済ませてドアの方へ向かった。

薄茶のトレンチコートを纏った里穂子さんがそこに立っていた。以前よりは食べているのか血の気が戻ってきているような気がする。

「里穂子さん、ご無沙汰しています!お元気でしたか?」

「雫さん、お久しぶりです。実は最近復学したんです。その報告をしようと思って―――」

一瞬、里穂子さんの表情が強張った。彼女の視線の先には、マフィンを食べ終わり優越感に浸りながらコーヒーを飲んでいる千里さんがいる。

里穂子さんはあからさまに顔を逸らすと、手に持っていたストールで顔の周りを覆った。千里さんの方には一切視線を向けない。知り合いなのだろうか。

「里穂子さん?」

「雫さん、ごめんなさい。ちょっと、用事を思い出したのでやっぱり帰りますね。今日は報告だけだったので。また来ますね」

私とも視線を合わせようとせず、逃げるように店を出ていってしまった。久しぶりに来店してくれたのに、千里さんと顔を合わせづらい理由でもあったのだろうか。

でも、ただの店員がお客様の交友関係まで詮索したりしてはいけないと思うので、その場で深々と一礼した。

「……え?あれ、本庄さん、帰られたんですか?」

宮原さんがメニューと水をキッチンから持ってきたが、すでに里穂子さんはいなくなっていたのでびっくりしたようだった。

「何か、用事を思い出したようで、すぐに帰られました。また来てくださると思いますよ」

正直言うと、少し残念だった。

年代が近い女性ということもあって、色々と生きてきた境遇は違っていたが里穂子さんとおしゃべりをしている時間は有意義だと思えていたからだ。

食べ終わった食器類を片付けようと千里さんの方へ向かうと、何やら彼女は敵を見るかのようにドアを凄い目つきで睨みつけていた。

「千里、さん?どうかしましたか―――」

「あいつよ、さっきこの店に入ってきた女!あんな変な柄のスカーフ巻いてる若い女なんて、あいつぐらいしかいない!」

「本庄里穂子さんと、お知り合いなんですか?」

「本庄……?そんな名前じゃなかった。さっき話したでしょう、ママのことを伝えに来たっていう【光の苑】の人間、あの女に間違いないと思う」

がん、という強い衝撃が後頭部を襲ったかのようだった。

「ねぇ、早く追いかけてよ!ママも、今何しているか聞いてきて!何で私たちの元に帰ってこないのかも、一緒に聞いてきてよ!」

千里さんの懇願に、私ははっと意識を戻された。まだ間に合うか分からないが、里穂子さん本人の口からちゃんと聞きたい。

私は呼び止める宮原さんの声に反応せず、そのまま真夜中の世界へ飛び出した。


ちゃんと聞きたい。

というより、確認したい。スカーフなんて、同じものを持っている人はたくさんいるはず。千里さんの見間違いであると思いたい。ほら、私はまた、お客様を信じ切れていない。

里穂子さんがどこに向かったのかもわからないのに、私はふらふらとした足取りで走っていた。どこに向かっているのだろう。

『だから、里穂子さんとお話しできて、ご飯も食べられてとても幸せなんです』

私がそう言うと、彼女は嬉しそうに口元を緩めてくれた。一緒に何本もチュロスを食べた。

それは、私が【光の苑】の御巫という立場だったからなのだろうか。

信じたい、だけど分からない。

分からないから、全部そんなの嘘ですよと里穂子さんに言って欲しい。証明してほしい。

でも、そうじゃなかったら?

宮原さんや千紘くんも、そうじゃなかったら?

私を取り巻く環境が、すべて嘘だったら?

「―――どこまで、私をかき乱したら気が済むの!!」

心の内からあふれでる感情がこだまする。

母を傷つけ、美波も冷遇し、私の生き方すべてを抑制し、思うがままにコントロールしようとする、わが父は、どこまで卑劣で冷酷で無慈悲なのだろう。

自然と涙があふれ出てくる。ぱたぱたと大粒の雨が降ってきたのかと錯覚するよう、コンクリートを染めた。

「うううううう」

今日は、精神的にダメージのくることばかりだ。千紘くんのお母さんは【光の苑】の入信者で、そのせいで二人は幼少期から寂しい思いをしている。【光の苑】を恨むのは当たり前だ。

一方の里穂子さんも、いつも穏やかで冷静な彼女にしては千里さんを見た時の態度が挙動不審だった。千里さんの意見も、的を射ているのかもしれない。否定はできない。

「―――雫さん!?」

声が掛かり、ゆっくりと顔を上げると涙の膜で顔がよく判別できなかった。でも、声に聞き覚えがあった。

「千紘、くん?」

「そうだよ、どうしたんだよ、こんなところで。お店はどうしたの?」

「あ、うん、そう、ちょっとお客様を探しに外に出たんだった。すぐに、戻るつもりだったの」

「本当はお店に寄れたらと思ってたんだけど、家に戻ったら千里がいなくなっててさ。今急いで探しに出たところで……」

「千里さんなら、お店にいるよ」

「―――え!?そうなの?」

「うん、マフィンを食べてコーヒーを飲んで凄く幸せそうだった」

私の言葉に千紘くんは胸を撫で下ろしたようだった。その安堵の表情に、私は自然と笑みが浮かんでくる。

ゆっくりと立ち上がると、さっきは真っ暗だったあたりの闇がほんのりと明るくなっているようだった。いえ、違う。隣に佇む千紘くんから、その光は溢れていた。

「雫さん、一緒にお店に行っていいかな?あ、でも、お客様を探しているんだっけ?何か忘れ物?」

「……ううん、大したことじゃないから。また、いずれお店に来てくれると思うし、大丈夫」

「そう?ならいいけど」

里穂子さん。本当の名前は里穂子さんじゃないのかもしれないけど、もしかしたらもうお店には来てくれないのかもしれないけれど、どこかでまた会えるような気がしている。

その時は、もう、にこやかに一緒にお茶を飲んでおしゃべりとかも出来ないのかもしれない。それはとても悲しいけれど、御巫としてではなく一人の宇野雫として里穂子さんと面と向かって話し合いたい。

それなら、きっと、ちゃんとお友達になれる気がする。

「雫さん、はい」

千紘くんに手を差し出されて、私がじっと手を見つめていると手をぐっと掴まれた。

「こういうのは、手をつなぎたいってサインだから!」

夜陰に紛れて千紘くんの表情は分からない。だけど、頬を赤らめていたらすごく可愛らしいなと思う。

「はい!今後はそうしますね」

千紘くんは私の歩幅に合わせてゆっくりと店へ向かう道を歩いてくれた。



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