第29話

美波と別れて家に戻ると、母が心配そうに表情で玄関で待っていた。だけど、私の顔を見るとほっとしたように息を吐いた。

「……何か、憑き物が落ちたかのようにすっきりした顔になってるわよ」

「そう、かな?うん、何かね、美波と色々と話して私決めたよ」

母は慌てたように胸元から小さなメモ帳を取り出そうとしたが、私は制止するように手のひらを掲げた。

「もう、こそこそすることないと思うから、大丈夫。私は、私やお母さんの会話がお父さんに漏れていたとしても構わない。だけど、お母さんに危害を加えようとしたり苦しめようとしたら、お父さんであろうとも許さないから。これからは、宇野雫として一人の人間として生きていこうと思うの。私、決めたの」

母はきょろきょろとあたりを見回していたが、私の強い視線にふっと肩の力を落としたようだった。そして、母はそのままその場に座り込んでしまった。

「―――お母さん!大丈夫?」

「……ごめんなさい。何か、肩肘張っていたのが、急に全身の力が抜けてしまったみたいで。足に力が入らなくなっちゃった」

ふふっと小さく笑みを浮かべた母も、どこかすっきりしたように快活な表情を浮かべていた。

「……雫が、雫として生きていけるよう、お母さんは最大限の援助をするつもり。だけど、ごめんね。まだ、私は―――」

私はお母さんの手をぎゅっと握った。お母さんはびっくりしたようにこちらを見やった。

「うん、大丈夫、それ以上は言わなくて大丈夫だよ。お母さんが、お父さんの制約から簡単に逃れられないのは、分かっているから。だけど、私も美波も絶対にお母さんを救い出して自由に生きていけるようにしてあげるから。今まで、私を守ってくれてありがとう。今度は、私がお母さんを守りたい」

私の言葉に、母は目を見開いた。そして、その両目から涙がつうっと流れた。

そして、そのまま手のひらで口を押え、噛み殺すように嗚咽を上げた。

どれだけ、母は苦しんできたのだろう。

私が想像を絶するほどの恐怖と絶望を感じながらも、伯父さんの生死を握られていることで、ずっとずっと感情を押し殺して私と美波を育ててくれていたんだ。

そんな母の葛藤を知らずに、私は自分の境遇だけを嘆き、この世界で自分ただ一人だけという見当違いな孤独と向き合っていた。だけど、今の今まで母が守っていてくれたから、私の生き方を容認してくれていたから、私は私のままでいられたのだ。

そのことを、ずっと知らずに生きてきた自分がとても恥ずかしく思う。

「お母さん、私、頑張るね」


泣きつかれた母を寝室へ連れていくと、今までの疲れが出たのか母は気絶するようにすぐに寝てしまった。すーすーという母の規則正しい寝息を確認すると、私は階段を下りてリビングに向かった。

リビングにはテレビやソファーがあるが、母はあまりテレビを観ようとはしなかった。私はソファーに座ると、テレビのリモコンを手に取った。

テレビをつけると、青白い光がともり、両手の間に球体のものが一斉に発光する映像が飛び込んできた。この模様、つい先ほど見たことがある。そして、数年前に何度も何度も目にしたものだ。

【絶望のどん底の先には、明るい未来が待っている―――】

そのロゴと共に〈宗教法人 光の苑〉の文字が浮かび上がってきた。

母が、テレビを付けたくなかったのはこの所為だ。自然と、いや強制的に他の民放番組はずっと映らないように設定されていたのだ。

その後に、父の姿が映り、にこやかな笑みを浮かべて何かを説いている。

〈首座・御守護様 宇野律人〉

確かに、私はここにいた。

父に言われるがままにこの光の苑の本部に所属し、数年働いていた。御巫様として、多くの信者たちから崇め奉られていた。それが、私の本来の役目だと何度も父に言われ、そうするべきことに何の疑いも持っていなかった。

だけど、何か決定的なことがあり、母が私を引き取った。

その決定的な出来事を思い出そうとすると、酷い頭痛が起きて思い出すことが出来なかった。だけど、父と、そして〈光の苑〉と決別していこうとするならば、私はその過去とも向き合わなければならないのだ。

リモコンを持つ手が震え、私はそのまま電源を切るとソファーに突っ伏した。

怖い、怖い、現実と向き合うのが怖い。

だけど、私は美波にも母にも向き合って、自分の人生を歩むと決めたのだ。父にも、〈光の苑〉にも私の人生に介入して欲しくない。

その時、ふと、千紘くんの顔が脳裏に浮かんできた。

『雫さんがいなくなろうとするなら、俺が追いかけて連れて帰る。体を捩って抵抗しても、離さないから。覚悟しておいて』

その言葉を思い出すだけで、心の内がきゅうっと締め付けられて、体の芯からじわっと温かくなった。

(大丈夫、怖くない、大丈夫)

誰かが自分を必要としてくれる、それだけでなんて心強いんだろう。

大丈夫だ、私は頑張れる。自分だけのためじゃない、自分と周りの人たちとの生活を守るために、自分の居場所を守るために頑張れる。


あの後、なかなか眠れなかったが、いつの間にかリビングのソファーで寝てしまっていたようで母に怒られてしまった。

数時間の眠りだけで、何だかすっきりとしていた。

母が作ってくれたポークステーキを食べながら、ふと視線を上げると、母も何だかすっきりしたようで柔和な笑みを浮かべていた。

「ん?どうしたの?」

「ううん、美味しそうに食べてくれているなぁって。嬉しいだけよ」

「そっか。美味しいよ、お母さんの料理。今度、私も作ってみたいから教えてね」

私の言葉に母は目を細めた。

「……そうね、雫と一緒に料理が出来るなんて、夢みたいね」

私はその後、少し部屋でゆっくりと過ごしてから仕事に向かった。

【月夜の森】に向かう途中で、ベーカリー・カブラギの前を通った。お店は閉まっていた。多分、ここで働いているあの夫婦も〈光の苑〉の敬虔な信者なのだろう。そして、多分父の命を受けて、私の行動の監視し報告などもしているのだろう。

(でも、ここのたまごサンドイッチはすごく美味しかったなぁ)

少し寂しい気持ちを抑えながら、私はそのまま後ろを振り返らずに歩き始めた。

11時より15分前に着くと、もう店内に電気が灯っていた。いつもは宮原さんしかいないので、開店時間の前まではキッチンしか電気がついていないはずだった。

ゆっくりとドアを開くと、ちりんとドアベルが鳴った。それを合図に宮原さんが顔を出したが、何故か困惑気味な表情を浮かべている。

「宮原さん、こんばんは。どうしたんですか?」

「実は、雫さんにお客様に来ているんですけど、私の印象では、あまり歓待されていないというか……ちょっと面倒そうな感じというか」

「え?誰ですか?」

私はそのまま店内へ向かうと、中央の大きなテーブルに肘を立てて口をとがらせて少女が座っていた。ふわふわの髪が腰まで伸びている。

「―――あっ」

私が声を上げると、その少女はこちらに視線を向けた。視線が合うと、その少女は値踏みするように私の頭からつま先まで念入りに見つめると、勢いよく立ち上がった。

「あなたが、雫って人?」

「あ、はい、そうです」

「ふーん……別に大して美人って訳じゃないし、女性としての魅力があるわけでもないし、どうしてこんな人がいいのか分からないわね」

ずばずばっと棘を投げつけられ、面食らうも、私はそのまま黙って立ち尽くしていた。だけど、その反応のなさが良くなかったのか、少女は眉をひそめてこちらを睨みつけている。

「……私が誰だか分かっているって顔ね?」

「あ、はい、千紘……梶さんの妹さんの千里さんですよね?」

「もう名前呼びって関係?言い直したって分かってるんだから!」

そのまま千里さんはどかっと椅子に座ると、顎をくいっと動かした。私はおそるおそる近づくと、千里さんは「注文!」と声を上げた。

「私はお客様なわけ、店員なんだからさっさと注文を取りに来なさいよ。ここのおススメメニューを持ってきてよ」

「あ、はい。コーヒーとデザートがおススメですけど、それでいいですか?」

「おススメ持ってきてって言ってるでしょう?ちゃんと耳ついてるの?」

私はぺこりと頭を下げると、そのままキッチンへ向かった。

キッチンの中の宮原さんは私と目が合うと、渋面を作り

「……梶くんの妹さんでしたか。私は子供も苦手なんですけど、上からモノをいう理不尽な女性も本当に苦手なんですよ」

と小さく呟いた。

「大丈夫ですよ。接客は私の仕事ですし。それで、今夜のデザートは何にしましょうか?」

私の言葉に、宮原さんは「よくぞ聞いてくれました」とばかりに大きく笑みをつくり頷いた。

「今夜は、マフィンです。それも、アールグレー、チョコレート、ブルーベリーのホイップもトッピングしています」

「凄い!色々な味が楽しめますね」

「基本的にベースはプレーン味なので、味変が出来るし、クリームの上に薄切りのレモンやオレンジピール、クリームチーズやさらにチョコチップを乗せたり、アレンジもたくさん出来ます」

お菓子の可能性は無限大だ。いつもそう思う。まだまだ宮原さんの補助という形でしか手伝えないが、いつか一人で母にお菓子を振舞ってあげたいと思う。

「生地をマフィン型に流しいれるところまではやったので、あとは天板に乗せてオーブンで20分くらいですかね。あ、その旨をお客様に伝えてもらえますか?」

「あ、分かりました」

私はキッチンから出ると、千里さんのところへ向かった。千里さんは足元に手を伸ばし、何かを撫でているようだった。どうやらヨルが来ているらしい。ヨルを撫でているその表情は、先ほどとは違い穏やかだ。

「……ヨルは、千里さんに心を開いているようですね」

私の声にびくっと体を震わせ、千里さんは先ほどとは違い不機嫌そうになってしまった。

「ヨルは気まぐれなので、触らせてくれる時と触らせてくれない時があるんです。でも、今夜は自ら触らせに行っている感じですね」

「……この子、ヨルっていうの?」

「はい。夜の深い黒色をしているから、ヨルだそうです。このお店で飼っているわけではないので、別の名前があるかもしれないですけど」

「ふーん……媚びを売って、色々な場所に愛想を振りまいているってわけ。人間の世界だと典型的な嫌われタイプね」

私がちらりと見やると、千里さんはふんっと鼻を鳴らして視線をそらした。

「あと、すみません。マフィンが焼きあがるまで20分くらい掛かりそうなんですけど、お時間大丈夫そうですか?」

「別に、大丈夫よ。伯母さんは今夜は来ないし、千紘はバイトだし。日付が変わらないと帰ってこないんじゃない?でも、家に私がいなかったらパニックになるかも」

ふふん、とどこか楽しそうに話す千里さんに私は何も言えなかった。

「そこらじゅうを探しまくって、結果的にこのお店に飛び込んでくるかもね」

「そうですか……」

「千紘が来てくれたら、嬉しいんでしょ?」

「でも、私に会いに来てくれるわけではないですから。千里さんを探して探して不安に駆られてお店に来ても、お店でゆっくりとコーヒーを味わうというのは難しいですよね」

バツが悪そうに千里さんはふいっと視線を下に向けた。

「あんたは……千紘が好きなの?」

千里さんの問いに、私はどう言葉にしていいか分からずしばし戸惑った。

「……好き、というのかはまだ分からないですけど、来てくれるととても嬉しいです」

思っているままを言葉にすると、何だか陳腐だ。でも、それが千紘くんに対する正直な感情といえる。

「―――千紘はあんたがとても好きだと思う。そんな幸せに満ち溢れた顔を見ていると無性にイライラして壊してやりたいって思う。むしろあんたもろとも私の前から消えちゃえって思う。だけど、そう考えると周りからあんたなんか誰も必要としていない、死んじゃえ死んじゃえって声がするの。迷惑ばかりかけてるんだからいなくなっちゃえって。だけど、こんなになったのは全部ママの所為なんだから。私は悪くない!」

千里さんは両耳を抑えて、体をくの字に曲げた。苦しそうに体を小刻みに震わせている。

「普通に学校に通って、普通の生活がしたかったのに、出来なくなった。最初はパパが私と千紘を裏切った所為だけど、ママも絶望して変な宗教にはまって、私たちを顧みなくなった。私たちを捨てて、そっちに行っちゃった。「絶望のどん底の先には、明るい未来が待ってるの」とか言って」

どこか聞いたことのある文言に、私はひたりと千里さんを見つめた。

「……千里さん、それって」

「最近、メディアにもちょこちょこ出ているらしいけど、私にとってはママを奪って私と千紘を苦しめている害悪でしかない存在よ。〈光の苑〉っていう―――」

ひゅっと全身の血が引いていくようだった。

「宇野律人、あいつを絶対に許さない―――!」

近くに千里さんの声が聞こえるはずなのに、どこか違う世界に反響しているようで、私はいつの間にか見慣れた真っ暗で冷たい世界の中一人で立ち尽くしていた。






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