③
ひたすら、白くぼんやり輝く道を歩く。
辺りはすっかり、ただの黒い景色と化していた。
先導者となる男は、最初のくっきりした輪郭は徐々に薄れ、色彩やディティールも失われていき、黒い影となっていた。
歩き続けているというのに、疲労はやってこない。
どころか、少しでも集中力が途切れると、四肢や五感を機能させているという感覚すら忘れてしまいそうだ。
正太郎は腕の中にいる小さなシンをしっかり抱きしめる。
気を抜けば自我さえ溶けて消えてしまいそうな中で、シンから発せられる仄かな温かさだけが、正太郎の正気を保つ唯一だった。
「見ろ、正太郎。光が見えてきた」
天道の声に顔を上げると、道の先に亀裂が見える。
影は亀裂に吸い込まれるように消えていき、二人は駆け足でその先へ向かう。
蹴破るようにして飛び込んだ先で、正太郎は頭から着地。
天道は危なげなく降り立った。正太郎はじんじん痛む尻を庇いながら立ち上がる。
そこそこ広い、ビジネスホテルの室内だ。
「あいてっ!?」
「おっと。ここが次の記憶か」
「ここ……ホテル?」
「現代ってことは、つい最近の記憶か。深層からちと離れちまったか?」
清潔感のある一室を見回し、ベッドを見て正太郎は小さく悲鳴を上げた。
見知らぬ男女がいる。彼らは黙々とトランクの中身を整理しているようだった。
その中身はネックレスを初めとしたアクセサリー、宝石類、時計、極めつけは大量の現金。
おおよそ旅行で持ち運ぶようなものではないことは確かだ。
ベッドの上で胡座をかき、見知らぬ男はふん、と薄く笑んだ。
「あの新田とかいう奴は当たりだな。かなり溜め込んでやがった。
やっぱり稼ぎのいいやつはコレクションも違うねえ」
「結婚前ってのもあるだろうね。おっ、こりゃ嫁入り道具かしら。
こんだけ集めりゃ一千万は固いね」
女の方も、にたにた笑いながら、ルーペで宝石の鑑定を行っている。
明らかに只のカップルではないことは明白だった。
正太郎はこの二人の不気味さに嫌悪し、大きな窓の方へと向かう。
分厚いガラスから見える景色は、新みらいヶ丘の夜の景色だ。花通町にある、大きな特徴的な時計塔が見えるので、すぐに分かった。
何の気なしにバルコニーの数を数えてみると、ここが七階ほどの高さだと気づく。
「この二人、誰?ムツと関係なさそうだけど……」
「多分こいつらも、食われた奴等だろうな。泥棒か何かだろ」
天道は冷めた声と視線を向け、デスクを見やった。
傍らのデスクには、無造作に化粧品や財布、免許証が放置されている。
新田昭純、家入嵐子とそれぞれ名前があるが、写真に写る顔はベッドの二人と別人だ。
トランクの中身の整理を終え、デスクの上も片付けると、男は冷蔵庫に向かいボトルの酒を開ける。
女はごろりと横たわると、妖艶な笑い声を漏らした。
「これ全部換金したら、いよいよ「コミュニティ入り」でしょ。
私あんまりコミュニティのこと知らないけど、「頭」は誰なの?」
「聞いて驚けよ。
「あらあ、それって例の、「西の十使徒」たち!?
そんな大きいコミュニティに新参者の私たちが受け入れてもらえるわけ?」
「なんでも、この町の「頭」は親人派だが、受け入れ口は広くてな。
仲介者って連中にそこそこの金さえ積めば「信用代」として紹介して貰えるって話だ。
職も斡旋してもらえるみたいだし、俺らみたいな「外れ者」でも安泰ってわけだ」
「でもさあ、私ら人間に顔見られちゃってるわよ。
先にあのバカップルだけでも消した方が安全だったんじゃないの」
「バカ、こっち令和に入ってから、吸殺系の事件は取り締まりが厳しいんだぜ。
あの暗闇の中だ、どうせ人間の目じゃ俺たちの顔など見えてまいよ。
足を洗う良い機会じゃないか。だろ?
こんだけの金がありゃ、お前の夢だった結婚式だって出来る。それでいいじゃないか。
ちょっと大人しくしてりゃあ、やっと普通の生活が出来るぜ。相棒」
女はやや不服そうながらも「あんたの言う通りだね」と返す。
そしてどちらからともなく顔を近づけた瞬間、玄関から来客を告げるベルが鳴る。
二人は顔を見合わせ、「ルームサービスかな」と暢気に首を傾げた。
男が「空気読めっつの。ちょっと追っ払ってくる」と言って玄関に向かう。
そして扉を開けようと近づいた瞬間──
「え?」
ドアが縦に真っ二つに裂け、男は背後に飛び退いた。
派手な音を立てて砕け散るドアと壁の装飾。
赤黒い斬撃がいくつも飛んでは、次々壁や床に深い傷跡を刻みつける。
「こいつ、ルームサービスじゃねえ!何者だ!?」
斬撃を放った主は、黒く塗り潰されたような人型の影だ。
だがその体の殆どは、あらゆる種類の「虫」で構築され、表皮がうぞうぞと波打っている。
正太郎と天道が身構えた矢先、男が「トランク!」と叫んだ。
女は一瞬あっけにとられていたものの、トランクを抱えると窓を蹴破り、跳び降りる。
それを追って男も窓から飛び降り、階下や廊下から悲鳴や困惑の声が次々聞こえてくる。
「あれって……!」
「ああ、見た目はグロい虫みてぇだが、吉備津山ムツだ!」
にたり、と人影の口元が笑い、男女たちを追ってやはり窓から飛び降りる。
脇で立ちすくむ天道や正太郎には見向きもしなかった。
天道が「追うぞ!」と正太郎を抱えるや、飛び降りた。
きらりと胸元で天道のネックレスが輝くと、またも武士の衣装をまとい、軽々と壁を蹴りながら地面に着地。
すかさず彼らを追いかける。
「しししし、死ぬかとおおお思っ!ばか!殺す気か!」
「こんくらいの高さくらい慣れろ、ヘタレ!
だがそうか、分かってきたぜ。
吉備津山ムツの獲物たちは、皆吸血鬼だったんだ!」
「き、吸血鬼の血を吸う吸血鬼!?そんなのあり?」
「人間が人間を食わない理由と同じなだけだ、吸血鬼同士の喰い合いは「ない」わけじゃねえ!
食糧としてはむしろ、
土壇場で突然膂力が増したのも、技の範囲が増えたのも、吸血鬼の能力を喰って発現したに違いねえ!」
追いかけた先は、人気のない公園。
出入り口には「こいこい公園」の字が彫られている。
二人が到着した直後、見たものは、首筋にムツの牙を打ち込まれた男の姿。
女が悲鳴を上げるのも構わず、ムツの肌の表面が脈打つ。
男から溢れ出る血はみるみる吸い尽くされていき、比例するようにムツの体は風船のように膨張する。
血を吸われていく男は「や……やめ……」と哀願する。
だがそれも空しく、その肌はみるみる血の気を失って頭蓋骨や体の骨にぴったりとはりつくが如く萎んでいき、あっという間にぺらぺらのゴムような惨い死体へと変わり果てる。
同族喰いを直に見たショックでか、女は放心していた。
だがその目に激情の炎が宿り、「よくも!」と己の手首を親指の爪で切り裂く。
ドロドロと迸った血が
がむしゃらに武器を投げる女へゆっくりとした動作で近づいていき、木陰に追い詰めていく。
「やだ、やめて!近寄らないでッ!これからだってのに!
私たちの普通の人生があとすぐそこだったのに!
ここで終わりだなんてあんまりじゃないのッ!
やだ、吸わないで!!私の人生吸わないで、奪わないで!
いや、いや、……いやああああーーーーーーーーーーーーーッッッ!!」
その絶叫は夜の闇に果てしなく響く。
だというのに、その声を聞いて駆けつけるものは誰もいない。
抵抗空しく、巨体に圧し掛かられた女の足だけが、巨体の隙間からのぞく。
じたばたと激しく藻掻く足が、次第に枯れ木のように細く萎びて、脱力していき、最後にはカクン!と痙攣して静止する。
そのおぞましい
同じように萎びた女の体の上に、ムツは雑にぽいっと男の死体を放り捨て、巨体に膨れ上がった体をぶるっと震わせた。
その直後。
ばきり、と卵のように丸い巨体が二つに割れ、中から正太郎の知るムツと、一人の女が姿を現した。
真っ白な髪に白い肌を持つ、額に大きなツノの生えた美しい女だった。
「……あと少しや。お前は山へ戻りぃ、俺はまだまだ集めなあかんけぇね」
ムツがそう呟くと、女の頭を撫で、額のツノに唇をつける。
女は無反応だ。その背には白い蝶々のような透明な翅が生えていた。
ばさり、と翅をひろげ、体を浮かせると、女は夜空に向かって飛んでいく。
ムツはそれを見送ると、金品の入ったトランクには目もくれず、その場を去って行った。
「……なに、あれ……」
「ふうん。あの女、怪しいな。追いかけるか」
「えっ、ムツの方じゃなくて?」
「俺のカンだがな、あの女はムツの「核」に近いかもしらん。
今までちらとも気配がなかったんだ、逆に怪しいだろ。
あれが真魂回録の一部なら、そのうち深層に辿り着くはずだ。行くぞ!」
天道が胸元のネックレスに触れると、鎖がみるみるその質量を増やしていく。
それを縄投げの要領で振り回し、宙に浮かぶ女に放り投げた。
投げられた鎖の先端が鉤爪の形状に変化すると、女の足にひっかかった。
女は気にすることなく飛翔する。
「っし、このまま連れてってもらうぜ!」
「わ、わ……!いつまでこんな危なっかしい移動するのさ!」
「こっちのが手っ取り早いだろ!振り落とされんなよ!」
天道にしがみつき、正太郎はつとめて下は見ないように必死になった。
鎖にぶら下がった二人を連れて、女の体はどんどん夜空に向かって上昇する。
夜風が荒々しく吹いては、鎖にぶら下がる二人を激しく揺らし、女の白い髪をさらうのだった。
◆
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