④
「はーあ。宗城も姫雪も、つれないわねえ。
お散歩くらい、付き合ってくれてもいいのに」
独りごちて、黒い日傘をくるりと回す。
芙美は愛らしいゴシックドレスを翻し、バスケットを手に、一人歩いていた。
目的は散歩である。ずっと暗い部屋に閉じこもっていると病気になる、と周囲が口々に外へとせっつくのだから、致し方ない。
まだまだ冬の寒気が名残る午前、巻雲が千々に散る春の空。本日もそこそこの晴天。
抜けるような青に目を細めつつ、自宅を出た芙美の足は、ひとつの公園へと向かっていた。
「日差しが強いわねえ。日焼けクリーム、たんと塗っておいてよかった」
この新みらいが丘市には、各区に学校が複数存在する。
そのため、大きなグラウンドやバッティングセンター、公園が数多く配置され、子供たちの格好の遊び場で溢れているのだ。
新みらい中央児童公園もその一つ。
草野球が出来る広さのグラウンドに、アスレチックが隣接した大きめの公園だ。
だが、そんな広々とした場所に、人気は殆どない。
「あらら。どっかの殺人鬼さんのお陰で、公園も閑古鳥ね」
巷を騒がせる「吸血殺人事件」は、瞬く間に町を跨いで有名になっていた。
路上であったり、憩いの場である公園で死体が出たとあらば、誰もが戦々恐々であろう。
犯人は未だ見つかる兆しはなく、次の犠牲者はいつ現れるかと皆怯えているのだ。
迂闊に子供を外で歩かせれば、いつ干からびたゴムの骸にされるか分かったものではない。
お陰でここ数日、子供だけで遊ぶ姿など、ちらほども見かけない。
車もあまり通らず、人の声もない。
行儀良く並ぶ桜の木々が、淡く花を咲かせ、音もなく花吹雪を散らす。
世界じゅうから声を発する生き物が消えたら、こんな様が見れるのだろう。
「せっかく昼間に遊びに来たっていうのに。つまんないわねえ」
芙美は一人ごちて、ベンチに座る。
桜の枝が折り重なって午前の日差しを一身に受け、強い影が芙美を覆っていた。
芙美は日傘をくるくる回して畳むと、ふう、と息をひとつ吐く。
枝にとまった雀たちが、暢気にちちちっと頭上で囀り歌う。
周りの音を飲み干すような、穏やかな時間。
「花を愛でるも、悪くないわね。欲を言えば、お花見仲間が欲しいところだけど」
バスケットを脇に置き、蓋を開ける。
中身は、持参した本に眼鏡、お弁当箱と水筒がふたつ。
今日の弁当はサンドイッチだ。具はハムレタス、厚焼き卵、ツナマヨなど、彩り溢れるラインナップ。
お昼ご飯まで、まだ時間はある。ひゅうっと冷えた風がふいて、思わずくしゃみをひとつこぼした。
本でも読んですごそう。湯の入った水筒を出し、コップに湯を注ぐ。
コップが十分に温まったのを確認して、別に持参していたティーバッグをぽちゃんと落とし込む。
しばし待つ。鮮やかな色味と香りを確認して、ティーバッグを引き抜き、口をつけてみる。
「うーん。やっぱり私、お茶を淹れるセンスだけはないのよねえ」
苦笑しつつ、コップを脇に置いて本を開く。
自宅から持参した本だ。黒い背表紙に「今も爪痕残す事件─忘れられた五十人の怪人─」という題名が金色に踊っている。
内容はどれも、猟奇的でおぞましい殺人などを扱った内容だ。
未解決事件であったり、犯人が自殺したことで迷宮入りした事件などを、筆者が情報をまとめつつ考察したものとなっている。
戯れに、手がぱらぱらと本の頁をめくる。
そのうち、一つの挿絵をみとめて、芙美は記された文章に視線を落とした。
──吉備津山連続殺人事件。
時は大正五年。悲劇の舞台は、中四国地方某県の山中にあった、「吉備津集落」。
吉備津集落は三方を山に囲まれ、川魚あふれる豊かな川が流れ、海をのぞむ小さな村であった。
整備された道もろくにあらず、二つ山を越えねば別の村にたどり着けぬほどの僻地。
この小さく慎ましい集落に住む、百余りの村人が、──たったひとりの青年によって、全員殺害されてしまった。まだ雪の残る三月初めのことであったという。
下手人は一本の日本刀と松明を手に、僅か八時間弱で集落を巡り、刺殺あるいは焼き殺した。
死体の発見には、犯行から実に三日を要し、その間に下手人は自らの手で命を絶った──
「一人かい、お嬢ちゃん」
しわがれた声が降り注ぐ。
不意に、雀の群れが我先にと慌ただしく飛び立った。
風がざあざあと戦慄き、鼻腔を微かに、甘くも鉄錆に似た匂いがくすぐる。
芙美は本の頁から顔を上げぬまま、口を開く。
「ええ、そうよ。待ち合わせの約束をしてるのに、相手がちっとも来やしないの」
「イケズな奴やねえ。ところで嬢ちゃん、ええ匂いがするねえ」
「あら、春だもの。桜の香りが心地よいでしょう」
「妙に甘ったるくて、スパイシーで、ねっとりした匂いや。ねえ、嬢ちゃん」
「もしかして
「お嬢ちゃん、あんたから匂うねん。
まだまだ寒い春なのに、そないにべたべた日焼け止めなんぞつけて。
分かりやすいで。ワイの獲物はみぃんな、同じ匂いさせとんねん」
芙美はやっと面を上げた。
長身の男がひとり、にやにやと笑いながら見下ろしている。
さながら、直立する蛇だ。卑しく笑う唇の端から、長い舌がぬるぅりとはみ出ている。
穏やかな笑みを崩さぬまま、芙美は目を細め、吉備津山ムツに問いかけた。
「獲物だなんて、荒々しいのね。ねえ、私のこと、食べるつもり?」
「やとしたら、どうする?」
直後、吉備津山ムツの体は、何の前触れもなく横薙ぎに吹き飛ばされる。
フェンスが吹き飛んだムツを受け止め、けたたましい悲鳴を上げた。
ムツは何が起きたか分からないという顔で、フェンスに身を預けながら這い上がる。
当の芙美は笑みを湛え、薙ぎ払われたムツを視線で追うことさえしない。
「私、乱暴な人は嫌いなの。
特に、私の「遊び場」で悪さをするような、マナーの悪い子はね」
「テメエッ!何しやがった、クソチビメスガキの分際で……」
「後、口が悪い人も嫌ぁい」
ムツが姿を変異させ、六つの腕と刃を生やし芙美に肉薄する。
小さな体躯に刃を振り下ろしかけた直後、空に一瞬影が差す。
また、一瞬にして、ムツの視界が吹き飛ぶ。
今度は鉄製のアスレチック遊具に叩きつけられ、ずるずるとその体は落下する。
「がぶっ、……な、何がッ……!?」
「私に近寄らない方が良いわよ」 芙美は涼しげな声で続けた。
「怖い怖いボディーガードが、常に傍にいるもの」
「しゃらくせえっ、血ぃ吸わせろチビガキ!!」
破れかぶれに突貫するムツ。
だが今度は、襲い来る何者かの気配をしっかり目で捉えていた。
黒い燕尾服に、長い足。咄嗟に刃でいなし、弾き飛ばす。
ムツに飛び掛かった影──宗城は、とんぼ返りを打って芙美の隣に着地する。
刀で斬られたにも関わらず、その足には傷一つない。
「申し訳ございません、おひいさま。つい手出しを。
天道が始末できぬならば、このまま私が片付けますが」
「駄目よぉ、宗城は手を出しちゃ駄目。追い払うだけになさい」
「ンだぁ、不意打ちの手がもう無くなったか、ボケが!
この際や、まとめて二人とも生きたまま啜ったる!
皮はなめして座椅子にでもして、毎日ケツに敷いてやらあっ!」
喚き散らし、ムツは宗城めがけて刀を振りかぶる。
だが、吸血鬼は激情故に、一瞬反応が遅れた。背後に立つ燃える冷気に。
はっと気づいた直後に身を屈めていなければ、その首が飛んでいただろう。
代わりに、素早い一撃が、ムツの腕を二つ吹き飛ばしていた。
「が、ああああああッ!畜生、また腕をッ!このガキぃ!!」
「前に会った時よりニブくなってんな、虫野郎。
ぎゃあぎゃあ喚くなよ、近所迷惑だぜ」
ぼとりぼとり、と地に落ちて、腕は虫の群れとなって散る。
傷口を庇いながら、憎悪に満ちたムツの目が、背後に立つ天道を睨んだ。
宗城は舌打ち一つ零し、少女はバスケットを開けた。
「天道、今日のお昼はサンドイッチよ。やる気でた?」
「おう。そりゃあ旨そうだ。
お日さんが南の空に上がる前に、決着付けてやるよ!」
◆
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