⑧
さて、本題だが、と射羽は手を離し、一冊の本を見せる。
くすんだ焦げ茶の、革張りの分厚い本だ。表紙には不気味な化け物のイラストが線のみで描かれ、表紙上部にある傷だらけの金のプレートの装飾には、見たこともない言語が刻まれている。
いかにもいわくありげな、物語に出てくる魔導書めいている。そんな印象だ。
「これは君のお父さんの本だ。これを君に渡そう」
「なんですか?なんて読むか分からないんですけど……」
「認識障害、といって、普通の人には読めない細工をかけてあるんだ。
右目に「読みたい」という意識を集中させて、もう一度読んでごらん」
言われるがままに、意識を集中させる。
右目で表紙全体をなぞるように凝視しつつ、今しがた感じた熱を、体内で右目により合わせるように集めていく。
――すると。ただの奇妙な記号にしか見えなかった字が、糸のようにほどけていく。
刻まれているはずの字がプレートの上で、うねうねと暴れまわり、絡まり合い、やがて別の字の形を生み出していく。
知らない言葉のはずなのに、頭の中にすうっと浮かび上がるようだ。
「秘奥術目録?すごい、知らない字なのに読める……!」
「グリモワール、あるいはグリモアと呼ばれる書物の一種だ。フランス語で魔術の書、という意味だよ」
「え!じゃあこれ、魔術が使える本なんですか?」
「正しくは、魔術を使うための基礎が記されている。
目をきらきらさせて、正太郎は表紙を見つめる。
霊だの悪魔だの怪物だのと見てきたが、ここにきて魔術の本とくれば、心躍るは少年の本懐である。
射羽は「私も同じものを持っているよ」と一冊見せる。こちらも表紙はボロボロだ。
中身はどうなっているのだろう。
いざ開こうとして、正太郎の手がぴたり、と止まる。……動かないのだ。
強力な接着剤で糊づけしたみたいな固さ。踏ん張っても、渾身の力を込めても、本はぴくりとも開かない。
シンは愉快がって、後ろで手拍子などしている。
『本に力負けするとはのお。ほれほれ、指に力をこめんか』
「ふんぎぎぎぎ、んぐぐぐ、固、ッ、い~!な、何でッ、開かないん、だ~~!!」
「ははは……その本を今の君が開くのは無理だな。君はそもそも魔術師ですらないからね」
射羽は眉尻を下げて笑う。
正太郎は諦めてソファに身を委ねる。本を引きちぎりかねない力を入れたはずなのに、本には傷一つつくどころか、折り目すらもない。
表紙を彩る線だけの怪物が一瞬、ぐにゃりと表情を歪めた。
驚く正太郎に向かって、舌をつきだし、渾身の「あっかんべー」を見せる。
本にすら馬鹿にされている……!
「喧嘩売ってんのか、こいつッ!」
『ちゃちな魔術書と喧嘩してどうする、愚か者めが』
シンが呆れきった顔で正太郎の頭を小突いた。
本はべろべろばーと舌をぺろぺろさせつつ、絵の人間が表紙の中でコサックダンスまで披露している。完全におちょくっているとしか思えない。
「こいつ!」といきり立つ正太郎を、シンの両腕が羽交い絞めにし、「堂々、落ち着け」と宥める。
うっかり本を殴りかねない正太郎の気迫を見てか、射羽は一度本を手に取り、桜模様の風呂敷に包んだ。
「この本はただの本じゃない。
文字通りサトル血をしみこませたことで、記憶や魂の一部が込められているんだ。
つまり、この魔導書は今の彼と繋がっている。もし彼を追うなら、この本が最大の手がかりとなるだろう。
君が彼と並ぶ魔術師としての素養を認められたら、この本もきっと心を開くだろうね」
「はあ、はあ、……なるほど……。そもそも、魔術師って、なんなんですか?
叔父さんからは、あんまり教えてもらわなかったんで、イマイチぴんときていないんですけど」
シンが両手を離し、正太郎は荒い息をおさめる。
……大山公太郎も、魔術師の一人だ。彼本人の口から、その事実は聞いている。
けれど、肝心な「魔術師とは何か」を聞いていない。魔術を使い、悪魔に取り憑かれており、不思議な力を持つ人。その程度の認識だ。
射羽は「そうだな……」と顎を撫でると、自らの魔術書をぱらりと開く。
「なら、まず基礎中の基礎からだな。そも、魔術師とは何か、についてだが――」
〇
――新みらいヶ丘市署・取調室の一室にて。
「それでは、調書を取りますね」
時間軸は前後する。
三好は青年――あの事件の夜、アブラハムと呼ばれていた男だ――デスク一つを隔てて向かい合っている。
昼間だというのに、室内はやけに薄暗く冷えている。三月にしては寒い日々が続くせいだろう。
冷える手を軽く握って、開いて、三好は緊張を解く。調書を記録することはあったが、こうして話をするのは初めてだ。
因みに記録者は、先輩である神楽刑事である。
目の前の青年は、三好のこわばった顔に反して、とてもリラックスした様子だ。取調室に初めて通される人間の態度ではない。
背後にあるマジックミラーを、出来るだけ意識しないようにする。ガラス一枚越しには、三好の上司にあたる刑事たちが何人もこちらを覗き見ていることを、三好は把握している。
「まず、お名前と年齢、職業を」
「大山公太郎。年齢は確か29……だったかな。職業は自営業です」
「正確な年齢をお願いします、大山さん」
「じゃあ29歳です。どうも自分の誕生日や年齢に疎い方で……」
適当だなあ、とつっこみたい衝動を抑える。
はぐらかされているのか、本気で忘れているのか。後者だとしたら、どれだけ自身に興味がないのだろう。
自営業の内容を軽くつつくと、どうも公太郎は市内で骨董屋を営んでいるらしい。
あまりそうは見えない出で立ちだ。鼻は高く大きく、小さな目は柔和な人柄を表しているように見える。日本人にしてはくっきりとした顔立ちなのだな、という印象だ。
骨董屋よりも、弁護士やカウンセラーに向いていそうだな、と三好は考える。
「それでは、事件当時についてお話いただけますか」
「構いませんよ。その前に、神楽刑事から僕のことはお聞きしていますか?」
「いいえ」
一瞬、三好の顔がこわばる。いやでも、あの夜の出来事を思い出したからだ。
目の前の柔和で真面目そうな青年が、血にまみれてコスプレまがいの恰好で、事件現場を騒がせた男と同一とは、到底思えなかった。
神楽を一瞥すると、記録の手を止め、首を縦に振った。しかし視線は三好ではなく、公太郎に向けられていた。
「鏡の向こうの皆さんも、僕については把握済みでしょうが。一度、ご説明させていただいても?」
「……よろしくおねがいします」
「では手始めに。刑事さんは、魔術、人間ではないもの、それらの超常的な存在を信じていますか?」
一瞬、沈黙が走る。何が正解だろう。三好は逡巡する。
すると、ミラー側から通信が入った。「はいと答えろ」と指示が下される。
三好は小さな目を一瞬見開き、頷いた。
「はい」
「僕達は、そうした魔術や超常的な存在と対決し、或いは保護し、管理し、表社会から隠匿する人間たちです。歴史の人々は、僕達を
「魔術師、ですか」
「あまり驚かれないんですね」
意外そうに問う公太郎に、三好は言葉を濁す。
会話の全てを、神楽の手によって記録される音のみが暫し響く。
問いの返事が来ないので、公太郎は続きを語る。
「魔術師は、超常的な存在や現象と戦う、或いは対処する方法を熟知し、また技術を持つ者達を指します。彼等は単独であったり組織を組んでいますが、僕は後者ですね。今回は依頼を受けて、ある超常生物の調査と討伐にあたっていました」
「それが、先日お話していた”吸血鬼”ですか?」
「ええ」
当然のように肯定。もし別の刑事がこの場に居合わせていたとしたら、「ばかばかしい」と憤怒していたことだろう。
神楽は沈黙したまま、手だけを動かしている。
ミラーの向こう側からも、特段何かの指示があるわけではない。
公太郎は静かな声で簡潔に、淡々とした口調で、吸血鬼について語る。
傍から聞けば、荒唐無稽極まるような内容だ。しかし取調室の中で、それを遮る者は誰もいない。
「僕の証言を信じたうえで調査にあたる。そう約束していただけるなら、続きをお話しますが」
「……分かりました。続きを」
「ありがとうございます、追風刑事。話を円滑に進めるためにも、吸血鬼について補足を足しましょうか」
――吸血鬼といっても、ひとくちに様々な種類がいる。
死者から蘇った者、単なる肉塊の姿をしたもの、悪霊として存在する者、吸血鬼に噛まれた童貞処女の青年。時代や地域によって記録されている吸血鬼は様々だ。
笑いかけて命を吸い取る、家畜を病気にする、変身能力を持つ、霧状化する、夜間にのみ活動する、到底人間では叶わないほどの怪力や身体能力を有する――など、共通する能力や特徴を有している。
一方で、銀や聖なるアーティファクトに弱い、招かれるまで家屋の中に入れない、川を渡れない、ニンニクが苦手である、心臓を穿ったり首を刎ねたり、朝日を浴びると死ぬなど、弱点も多い。
共通の特徴を持ち、どのような手段であれ、個体数は増加する。これを繁殖と定義するなら、吸血鬼は「種族」として分類される。
人間と違いがあるとするならば、個々の能力が同一とは限らず、能力には優劣がある、といったところだ。
種として、感染源あるいは親にあたる存在を「真祖」、血を分け与えられた者、感染した者、真祖によりうみだされた存在を「眷属」と呼ぶ。
人によっては「下級」「中級」「上級」などと呼び分ける者もいる。
細分化していくと話が進まないので、その周辺の話は割愛する。
「吸血鬼は、感染と変異という形で繁殖する生物たちである――これが、現在の僕達の見解です」
「感染と変異、ですか。今回の吸血鬼に関して、貴方はどの程度ご存知なんですか。その……容疑者について」
「僕から言える範囲ではありますが……対象は人型の吸血鬼です。性別は男性、二十代。
元々吸血衝動があったか、殺人を複数回犯したことのある人間。かつ、生きたまま吸血鬼に変異したタイプです」
「生きた人間、ですか」
「吸血鬼に変異はしていますが、人間が吸血鬼化した場合、症状にはステージがあります。僕の見立てでは、現段階ならまだ吸血鬼化を治癒することは可能です」
なるほど、と三好もその場でメモを取る。
犯人像にぐっと近づけただけでも儲けものだ。……もっとも、この取り調べで得た情報を、上が認めてくれるとは到底思えないのだが。
それにしたって、と公太郎の目を見る。誇大妄想にしては、いやにはっきりとした説得力があり、彼が虚言を呈しているとも思えない。
ミラーで取調べしているであろう刑事たちが、小さくざわめく様子が聞こえた。
「吸血鬼なんて管轄外だ」「捜査を一度打ち切るか?」「魔術師に任せるべきでは」
そんな声が聞こえてくる。
冗談じゃない。信じていないわけではないが――魔術師などと名乗る謎の集団に、自分たちの仕事を掻っ攫われてたまるか。
警察の仕事は、市民を守り、法に背く者たちを捕らえること。
元が人間だというのなら、人間に戻したうえで、人間として罪を償わせるべきではないのか。
血まみれだった時の、彼等の会話を思い出す。
「しくじった」と呟いた時の彼は、血にまみれていた。吸血鬼とはいえ、元人間と戦ったのだ。
もし彼が勝っていれば、その人間はきっと血まみれどころではすまない結末を辿っていたかもしれない。
それはきっと、誰もすっきりしない終わりだ。三好は思う。犯人は倒すべきではなく、逮捕して、人間の法で裁かれるべきだ。
化け物ではなく、人間として。
せめてもっと、非科学的ではない堅実な証拠が欲しい。
「あの……因みに、人相などは……?」
「人相?」
「犯人の顔は見ていないんですか?」
「そりゃあ勿論見ているけど」
きょとり、と公太郎は三好たちを見やる。再び、刺すような沈黙。
神楽から痛烈な「うっそだろお前」と言いたげな視線が公太郎に向けられた。
あれ、と困惑したように公太郎が小首を傾げた直後、三好は思わず机を力強く叩くのだった。
「先に
〇
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