②
暫く、二人とも無言だった。
夕飯時、通りに様々な匂いが満ちている。
揚げたてのコロッケの香りが、鼻をくすぐる。
人ごみの中、二人乗りの自転車が商店街を駆けていった。すれ違う時、自転車は三人乗りになっていた。
「大丈夫だよ、正太郎君。きっと治る方法はある。
あの先生は専門じゃないけど、僕はまさにそっちのスペシャリストだ」
公太郎は正太郎の手を強く握って、優しく告げる。
想像していたような、鱗の感触はしない。普通の人間と同じ、温かい手だ。
ぬめっと粘ついていたり、岩のように硬かったなら、見えているものをもう少し受け入れやすかっただろうか。
「君のお父さんと約束したんだ。君を守るって」
「父さんと?」
正太郎の頬が夕焼け色に染まる。
小さな指先がぴくりと動いたけれども、公太郎の手を握り返すことはしなかった。
さおだけ屋の歌がどこからか聞こえてくる。五時を伝える、ななつのこが、賑やかな商店街に入り混じる。
ゆるりと春の匂いに混じって、人と違う何かたちが、煙草の煙のように漂い、通り越す。
黄昏時は、二つの世界が入り混じる。早足で夕日を追い立てる夜の気配を感じて、うなじが冷えた。
「何か、買って帰ろうか。正太郎君は何が好きかな」
「温かいものなら、なんでも」
正太郎がカレーパン専門店を一瞥すると、公太郎は「じゃあ、今日はカレーだね」と答えた。
茜色の差す商店街の終わり、夕日がよく見える曲がり角で、正太郎は振り返る。
先ほどまで居たクリニックは、どこにも見当たらない。
夕暮れのオレンジ色に蕩けて、いずこへと消えていた。
○
目が覚めると、朝の七時を少し過ぎていた。
右目の視界に、例の幽霊男が割り込んだので、少しぎょっとする。
「うわっ」
「……」
「僕の上でふわふわするの、いい加減やめない?びっくりするから、やめてほしいんだけど」
「……、……」
いつ家に戻ってきたか、記憶が定かでない。
晩ご飯に、カレーとサラダを食べたことだけは思い出せる。
着替えながら、医師の言葉が正太郎の脳内で何度も繰り返される。
脳の問題、と声に出す。身も蓋もない表現をすれば、頭がおかしい、ということなのか。あまり実感は沸かない。
「……………………あんまりじろじろ見ないでよ」
こちらの言葉はどうやら、届いているらしい。幽霊男がわずかに、眉尻を下げた。
姿見を見て、改めて自分の姿を確かめた。
父譲りの、つんつんにあちこち伸びた黒髪。同じく父譲りの太い眉。異常なし。
琥珀色の左目が、正太郎自身をじっと見つめている。
右目はというと、目玉がごっそり消えて、黒くぽっかりとした穴が開いている。
ただそれだけではなく、幽霊男と同じように、青い火の球のようなものが、ぽやぽやと浮かんでいる。
目玉と同じ機能が備わっているらしく、普通に視界は良好だ。
「一応、眼帯しとかなきゃ……。他の人には、普通に見えてるみたいだけど。
塞いでても景色が見えるって、不思議な感じだなあ」
視力はむしろ良くなったほうだと体感している。
……変な怪物や幽霊が見えることを除けば。
枕元の眼帯に手を伸ばし、無造作に装着する。幽霊男は相変わらず見えるままだが、特に気にもならない。
見えるようになってまだ二週間だが、寝起きに視界に入って驚かされる以外、特に何もされないので、放っておいている。
「うん?……なんだ、このにおい」
殺風景なダイニングに足を踏み入れると、形容しがたい悪臭が鼻を突いた。何かが焦げる臭いだ。
正太郎は涙で目を滲ませつつ、キッチンの方へ顔を覗かせると、公太郎が水色のシャツにスラックスといういでたちで、トースターを相手に躍起になっている。
「公太郎さん、何をしているんですか?」
「やあ正太郎君、おはよう。トーストを焼こうとしたら、失敗してしまってね」
炭同然になった食パンを見て、正太郎は少しだけ顔を歪ませる。
コンロ周辺に散在した卵の欠片や肉片から察するに、ベーコンエッグにも試みたようだ。結果は推して知るべしといったところか。正太郎の表情筋が引きつる。
正太郎の視線に気づいた公太郎は、しまったとばかりに逞しい体で視界を占領し、苦笑いを浮かべる。テストで赤点をとった子供のような印象を受けた。
「いやね、いつもは妹が作るものだから、僕はどうも料理というものに縁がなくて」
「ぼ、僕も料理は、そんなだから。気にしないでください」
空笑いする公太郎に合わせ、正太郎も控えめに笑う。
思い返すと、昨晩のカレーもレトルトであった。成程、そういう理由かと納得した。
「あ、でも、サンドイッチなら作れるんだ。チーズは平気かな?」
「はい」
その後、二十分後ほどかけて作られた歪なサンドイッチをどうにか平らげ、正太郎は身支度を整える。
その間も、半透明の男はただ黙して正太郎を覗き込んでいた。
意思はあるのだろうか。この男の正体は何なのか、いまだに聞かされていない。
公太郎や医師も知らないのだろうか、正太郎は考えてみたが、まるで心当たりはない。
「一人で大丈夫かい?」
靴のマジックテープを留め、ランドセルを背負った所で、公太郎に声をかけられた。
学校に行くのは、約三か月ぶりだった。正太郎は冬休み以降、学校に行っていない。
正太郎は振り返り、軽く頷いてみせた。玄関から、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
「今日はお昼までですから、すぐ帰ってきます」
「なら、終わるころに迎えにいこうか?」
「いえ、結構です。一人で帰れます」
少し突き放す言い方だったかもしれない、と正太郎は直後に悔やんだ。
公太郎がやや寂しそうな顔を見せたのも、見逃さなかった。
「うん、うん。そうだね、最後の日くらい、君も友達と一緒にいたいだろうし」
正太郎は言葉を喉に詰まらせる。
いじめられっこだから、友達はいません、とは口に出来なかった。
結局、返事はせず、曖昧に言葉を濁す。
所在なく視線を彷徨わせると、見慣れた茶色い箱を見つけた。廊下の突き当たりにあるダイニングには、段ボール箱が幾つか積まれている。
今日の昼ごろに、引っ越し業者の人が来るらしいと聞いていた。
正太郎は試しに、少しだけ眼帯をずらしてみる。
想像に反して、右目は何も映し出すことはない。色とりどりの左目の視界と違い、白と黒のグラデーションの世界が右目に広がるのみだ。
「結界を張っているから、何も見えないはずだよ」
「けっかい?」
「霊やよくないものを、寄せ付けないためのまじないさ。
君の目は視えるだけじゃなく、あまりよくないものを呼び寄せるからね。
少なくとも、この家の中で変な物を視ることはないよ」
正太郎の意図を察したのか、公太郎は聞かれるでもなく疑問に答える。
成程、結界か、漫画の世界のようだと素直な感想がとりとめもなく浮かぶ。
そうだ、と公太郎はポケットから小さな物を取り出す。掌に収まるほどの小袋だ。
「お守りだよ。本当に困ったことが起こった時、君を守ってくれる」
公太郎は正太郎の首にかけると、肩を軽く叩き、笑みを向けた。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
幼さの残る顔が、きゅっと引きつる。
正太郎は答えることなく、肩に置かれた手を振り払うように、玄関を飛び出した。
〇
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