ぼくらのワールドアイライン

上衣ルイ

序章

1話 大山正太郎


大山正太郎という少年がいる。

誕生日は4月2日。身長135cm、とある小学校に通う小学校4年生だ。

髪の毛は犬みたいに固くつんつん跳ねており、好き放題にあっちこっち向いている。

目は蜂蜜みたいな琥珀色。体はひょろりと細っこくて、うなじに小さいほくろがある。

国語と理科と体育が好きで、算数と習字と音楽は壊滅的に苦手。

エビフライとティラミスが好きで、ネギやニンニクが嫌い。

ちょっとませてて、小生意気で、友達の少ない普通の男の子。

それが、この物語の語り手だ。



──2020年2月某日。


「良いですか、今から質問するから、ちゃんと正直に答えてくださいね」


女医はおっとりと優しく、しかし有無を言わさない声で言い聞かせる。

患者である少年――大山正太郎は背筋をぴん、と伸ばし、「はい」と答えた。

つんつんと好き放題に生えた強情な黒い髪の毛が、背筋と同じようにぴん、と張った。


「それじゃ、失礼。眼帯を外しますね」


女医の手が、眼帯で覆われた正太郎の右目に触れる。

消毒液の匂いがツン、と鼻孔を突く。固く目を瞑ったまま、息が詰まる思いで身を固くする。

インフルエンザの予防接種を思い出す。あの時は、注射の順番を待っている間に泣き疲れたせいで、暴れる気力も残っていなかった。

注射の痛みよりも、小児科の先生から漂う消毒液の匂いが、より濃く記憶に残っている。

あの日は確か、終始、母の腕に抱かれっぱなしであった。予防注射の帰り道に母は、頑張ったね、偉いねと頭を撫でてくれた。

眼帯の紐に医師の細い指がかけられ、ゆっくりと外された。肩が一瞬震える。


「はい、目を開けて」


医師の言葉に促され、閉じていた両の目を恐る恐る開ける。目の前には女医のあどけない顔があり、横には若いナースが寄り添っている。

少し視界を下に落とすと、ところどころ欠けて、色褪せたタイルの床がある。すらりとした女医の、白樺のような足に視線が持っていかれた。

ナースの肩越しに、視力検査に使うランドルト環のプレートが覗いている。上から八段目まではかろうじて、輪の切れ目が分かる。


「はい、右見て。次、左見て。はい、下。上。何もおかしな事はないですか?」

「……はい」


医師の言葉に合わせ、眼球を動かす。

右、異常なし。開きっぱなしのドアの向こうに、黒革のソファが二つだけ置かれた待合室がある。患者の姿は見られない。

左、異常なし。名前も知らない医療器具が整頓されている。受付テーブルの上にカルテらしき書類が積まれてある。所々、雑さが伺えた。

天井を見上げた正太郎の視線は、そこで釘付けになる。


「正太郎くん、もう一度聞きますよ。何も、おかしなことはないですか?」


あるか、ないかで答えるなら、「おおあり」だ。正太郎は生唾を飲む。

男がいる。どうみても、巨漢の幽霊だ。正太郎の顔を伺うように見下ろしている。

只の男ではない。

真っ白な袈裟を羽織り、全身は透けて、煤けた天井の模様がぼやけている。

肩まである長髪が、顔の右半分を覆い隠し、残る左目の部分は空洞だ。

眼球の代わりに小さな青い火の玉が浮かんでいた。

男は目があうと、ぱくぱくと口を動かす。じりじりと炎が燃えるような音が聞こえてくるばかりだ。


「ええと」言葉を濁しかけ、正太郎は答える。

「人がいます。男の人です。幽霊みたいで、僕のことをじっと見下ろしてます」

「話しかけてはくる?」

「たまに。でも、何言ってるか聞こえないし、分からないです」


医師は手元のペンをカルテの上に走らせた。


「なるほど。他には」

「はい、そっちの看護婦さんは目が五つあって、頭に舌が二つあります」


隣のナースは短い悲鳴をあげ、自身の頭頂部にある禍々しい口を手で覆い隠した。

さっきからずっと見えていたけれども、指摘したのは悪手だっただろうか。

医師は特に気にも留めることなく、視線で先を促した。


「他には?」

「テレビに足が生えてました。それから、さっきから壁の中を行ったり来たりしてるピンク色のナマズがいて、僕のことをずっと見てます」

「ああ、それは気にしなくていいですよ。ここで預かってる患者さんです」


患者さん、と繰り返す。獣医も兼任しているのだろうか、と見当違いの推測が頭をよぎる。どう見ても、人間の患者ではない。

待合室から、軽やかなベルの音が聞こえた。医師は片眉をあげ、ペンをとめる。

正太郎も首を少しよじらせ、医師の視線の先を追う。

診察室のドアが開くと、そこには眼鏡をかけた、逞しい体つきの若々しい黒髪の男がいた。長い髪をなびかせ、大股で歩み寄ってくる。


「公太郎さん。まだ診察中ですよ」

「構わないよ、僕も同席させてほしくてね」


公太郎は短く返すと、黒縁の眼鏡を押し上げ、正太郎の隣、即ち医師のはす向かいに腰を下ろした。

正太郎は先程まで以上に身を固くし、そっと公太郎を見やる。


「別に、先生とお話するくらい、一人でも大丈夫なのに」

「おや。君のお母さんは、君がよく病院に行くと注射されるのかっていつも泣いて怖がっていた、って聞いてるよ」

「……小さい時の話です。今はちがうもん」


彼は先日、何の音沙汰もなく現れ、児童養護施設にいた正太郎を引き取った青年である。

歳は三十路を過ぎたばかりと聞いているが、とてもそうは思えないほどに、彼の目は少年のような若さに満ちている。

公太郎は自身を、正太郎の父の弟だと名乗った。

つまり、正太郎の叔父だ。しかし自称だ。正太郎の父に兄弟はいないと聞いている。


「そっか。でも僕が気になったから、やっぱり迎えにきちゃった。ちょっと早かったみたいだけど」


正太郎には両親がいる。正しくは、年明けまでは存在していた。

母は去年の12月に、事故で世を去った。あまり実感はない。

父は母の死からほどなくして失踪した。

二人とも、友人は多かったが、身寄りはないはずだ。

だからこそ、突如現れた「叔父」は、胡散臭いことこの上ない存在だった。

もし本当に叔父だとして、なぜ今まで一度も顔を出さなかったのだろう。

父が兄弟の話を口にしなかった時点で、仲が良いとは思えない。

そういった事情から、正太郎は公太郎と打ち解けずにいた。


突然の来訪者に、医師の眉が少し吊り上がるが、公太郎に対して言葉をむけることはない。


「では正太郎君、次の質問です。君の目で、公太郎さんは、どう見えている?」


正太郎は我に返り、素っ頓狂な声をあげた。

公太郎が薄く微笑んでいるのが目に入り、かっと耳が熱くなる。


「はい、あの……」


その時、隣にいたナースが憎々しげに正太郎を睨んでいることに気づいた。 

怒っている。寒々しい視線に明らかな敵意を乗せていることが、正太郎には手に取るように分かる。

その視線の意味は容易に察せられた。

理由はどうあれ、彼女にとって触れられたくない部分を、よりによって小さな子供にいともたやすく暴かれて、立腹しているのだ。

隣の公太郎を見やる。彼も怒るだろうか。

答えに窮し、突き刺すような視線に耐えかねて俯く。

すると、公太郎がそっと小さな肩に手を添えられ、優しい声色が正太郎の耳をくすぐった。


「大丈夫、これは君の症状を診断するための大事なテストだ。

 僕に対して不安に思う事はないよ」


すっと、肩の中に張っていた力が抜けていくかのように感じられた。

初めて、公太郎と視線を合わせる。彼は、恐れを抱かせない視線で正太郎を見ていた。

けれどその姿は──もう一つの視界に浮かぶ彼は、尋常でない姿を露わにしていた。

ごつごつとした、鰐めいた表皮。

鋭利な鱗がびっしりと生え、荒波によって削られた断崖絶壁の岩肌のようだ。

背筋から尻にかけて、やはり鋭利な突起が連なり、その間に薄い膜のようなものが、たてがみのように並んでいる。

そして柔肌の部分は生白く、公太郎の顔面は、爬虫類を想起させた。

びっしりと覆ういくつもの目が、全て正太郎を観察している。


「公太郎さんは、顔に沢山の目がついていて、体は人だけど手と足が緑色の鱗でいっぱいです。それに、指の先に棘がいっぱいついてます」


少しの間があった。

公太郎はつぶらな瞳を細め、手を打ちならした。


「正解だよ。

もう少し詳しく指摘するなら、君の目には竜の悪魔と僕の姿が重なってみえるわけだ。

いやはや、ここまで見抜くとはおそれいったよ」


正太郎は恐縮し、膝においた握り拳を固くする。次に瞬きした時、公太郎の姿は若々しい男の姿に戻っていた。

許可を得て、正太郎は再び眼帯を装着する。眼帯越しでも、うっすらと奇天烈で摩訶不思議な者達は視界を縦横無尽にとび回っている。

女医は席を立つと、分厚い本を持って戻ってきた。

日本語どころか、この世の文字なのか疑うような記号の羅列が表紙に並んでいる。


「正太郎君、君の目は少し特殊な作りになっているのです。正しくは、脳というべきか」


医師は写真をとりあげて、眼球と思わしき部分を指さした。


「私たちが視認しているこの世界は、光が持つエネルギーによって物が見えているわけです。

物体が光を反射した分だけを目が受け取って、視神経という部分が光のエネルギーを電気エネルギーに変換して、脳が認識して、……という具合に」


公太郎が言葉を引き継いだ。


「けれど大昔から、世の中には『目に見えないもの』たちも沢山いたわけだ。

それらは光を反射しないし、脳も受取ろうとしない。

脳が認識しないから、『見えないもの』達も人間に接触することはできない」


けれど、君の場合は違う。と言葉を置いて、公太郎はつづける。


「現代の人達は、脳と目に特殊なフィルターをかけて『目に見えないものたち』から身を守っている。だが君の場合、そのフィルターが外れてしまっているんだ」

「その、フィルターが壊れたってことですか?」

「少し違う。子供は元々フィルターが外れやすいんだ。

光を介さずとも、見えないものが見え、感じないはずのものに触れて認識することができる。これは目だけじゃなく、脳の問題なんだ」


「脳の問題」正太郎は小さく繰り返す。

「公太郎さんの姿がおかしく視えたのも、本当は視えないものが……悪魔が、公太郎さんの体の中にいるからですか?」


公太郎は曖昧な表情を浮かべた。


「まあ、凡そそんな感じだ。君は受け入れることに抵抗がないんだね」

「悪魔が現実にいるなんて、考えてもみなかったけど」


正太郎は肩を竦めた。奇妙な物を目にするようになって数週間が経つ。

初めはおそろしくて、目玉を取ってしまいたい程に怯える日々を送っていた。しかし慣れてしまえば、どうということはない。

異形が怖いことに変わりはないが、受け入れることには多少慣れてしまった。


「僕、治るんですか?」


女医は目を伏せる。


「こればかりは難しい問題ですね。過去にも似たケースはいくつもあるし、治療に成功した報告もあります。でも、必ず治るという保証はありません。残念ながら」


その言葉を聞いた時、正太郎はあまりがっかりしなかった。

もしかしたら、初めから無意識に「そうだろうな」という予感があったからなのかもしれない。


普段通り過ごしていれば生活に支障はないはずだ。

医師はそう言葉を締めた。薬の処方はなく、診察のみで終わった。

か細い声で、ありがとうございました、と正太郎は頭をさげる。

医師はつるりとした丸い顔に、かげりのある笑みをたたえている。

正太郎は手をひかれ、ぺこりと頭をさげて、クリニックを後にした。

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