【森烏賊の会】は何をしたのか?

「先輩先輩! 大変大変!」


 人生で最も充実した夏休みが終わり、後期が始まり、秋も深まってきた。

 私が部室で日本語学の小テストに向けてレジュメを暗記していると今村春子が飛び込んできた。


「なにがよ? せっかく暗記したのにイカに記憶食べられちゃったじゃない」


 後輩の鬼気迫る表情に驚いて、暗記は台無しとなった。

 綺麗さっぱり忘れてしまう。

 最近、私はそれを「イカが記憶を食べちゃった」と言っていたのだが、割と周囲がみなイカに対して好意的であり、イカを否定的に使った比喩に対してはあまりポジティブな反応が返ってこず、流行らずに私だけが使い続けている。


「それはまた覚え直してください。イベントのチケット応募の数ですよ、大変なのは」


 彼女の表情から読み取ろうにもそれが多すぎるのか少なすぎるのかはわからなかった。


「どっちの意味で?」

「多すぎる方です」

「どのくらい?」

「関係者席や機材で四十抜くから立ち見入れて百八十ですけど、今の時点で八百応募きてます」

「それはなかなかだね。有料イベントなのに」

「出演者の皆さんが告知に協力的だったのはありますね。ただ、【百鬼夜行】のファンは複アカ使って応募してきてるような気配はありますが。とにかく、落選者がいっぱい出ちゃうので来られない人のために後日、動画を公開するだけじゃなくて、ライブ配信もしましょう。出演者の許諾はこれから取ります」

「うん、任す」

「あと、テレビの取材が入ります」

「え、嘘?」

「本当です。竹林監督の新作発表が近々あるらしくてですね、密着がついてるんですよ。それでカメラが入るらしいです」

「へー、すごいじゃん」

「やりましたね、先輩!」

「いや、私はなんもしてないけど。今村ちゃんが頑張ったからだよ」

「これはみんなの功績です。絶対成功させましょうね」

「そだねー」


 もはや鵺君と繋がり直接連絡を取り合っている私としてはイベント自体は消化試合のようなものだったが、そんなに盛り上がっているのであれば、実行委員長として、裏方として、そして可愛い今村ちゃんの先輩としてもう少しだけ頑張ろうと気合を入れ直した。


 イベントが盛り上がる気配を見せる中、イカ教こと【森烏賊の会】も徐々に話題となってきているようだった。

 学生が作った変な宗教ということで、目立つと悪い意味で注目されそうであり、私はサークル内企画の域を出ることに対してはあまり肯定的ではないが、勢いがあるものというのは個人の意思とは関係なく広まっていくものなのだろう。

 やはり少数とはいえ実際に神秘体験ができてしまうというのは大きいのかもしれない。



 今村ちゃんが次の講義があると去っていくと部室にはまた私が一人取り残された。

【森烏賊の会】単独のサイトを作り、外部から入信希望者を募り始めると、ちらほらと希望者が現れ、あまり学外の人間を学生会館に入れるのはよろしくないのではないかという意見が出たため、【森烏賊の会】の活動のためにどこかマンションかアパートを借り上げようという案も出ているらしい。

 その家賃はどこから出てくるのかについて私は考えない。

 部費から捻出されるのであればあまり良い気はしないが、イベントの費用をそこから出してもらっているので文句が言いにくいのだ。


「よう、久しぶりだな」


 部室にやってきたのは岩崎だった。

 夏休みを経ているのに、よりいっそう痩せて色が白くなったように感じる。


「たまにすれ違ってたから久しぶりでもないでしょ。で、試験どうだった?」


 岩崎は八月に公認会計士の論文試験を受けるというのでこの夏は部室に現れなかった。

 後期が始まってからはすれ違いが続いていて、こうして面と向かって話すのはたしかに久しぶりだった。


「よくできたと思うよ。去年、短答式の方は合格しちゃってたし、一年しっかり準備していったからな。でも、短答式の方合格しても論文で何回も落ちるっていうのはよくあるらしいから油断はしてないけどな」

「ふーん、そもそも一年の時点で短答式合格できてるだけですごいと思うけどね」

「大学の推薦入学決まってから、高校生なのにみっちりやらされてたからなぁ」

「これで受かったら晴れて公認会計士になれるの?」

「いや、試験に合格したってだけ。会計士事務所で二年の実務経験と三年の実務補修やったら会計士名乗れる」

「ひえー」

「お前はどうするんだよ、将来。教育学部なのに教師にならないんだろ?」

「一応、教員免許取れる科目は受講してるけどね。普通に就活するかな」

「教員免許取るだけは取るのか。それがいいと思うぞ。そのへん、根の真面目さが出てるよな。普段、不真面目そうに振る舞ってるのに」

「私は根っからの不真面目だよ。ま、これであんたもイカの会の活動に本腰入れるわけだ」

「十一月に合格発表あるから、それで落ちてたらまた次の八月までは勉強優先になるけどな」

「受かってるよ。私のイカが受かってるから安心していいって言ってる」


 イカは何も反応せずプカプカと暗闇の中を漂っているだけだが、私はそう言った。


「おぉ、そうか。たしかに俺のイカも受かってるんじゃないかって言ってるな。じゃあ、今年は合格してるな」


 岩崎の喜びが面相に滲んでいた。

 こんな適当な軽口で喜んでもらえるならいくらでも言ってやろう。



「そういえば、まだイカが頭に住み着く条件ってわかってないの?」


 最近、宗教ごっこから距離を置いているのであまりホットなニュースが入ってきていない。


「わかってないな。大谷さん達がこの夏かけて色々実験してみたらしいが全然わからないらしい。新規で神秘体験できる人数の割合もどんどん減っていってるしな」

「なんか色々やってたみたいね。修行とか」


 私は何が修行だと鼻で笑ったが、実際に自分が最初にイカを感じなかったら、オカルト大好き女子大生としては意地でも体験しようと修行も試してみたかもしれない。

 そもそも先輩たちがリサイクルショップで買ってきたり、拾ってきたゴミの祭壇に手を合わせただけでイカが宿った方が不思議なくらいだ。


「条件がバラバラなんだよ。誰が本当にイカが宿ってて、誰が嘘を吐いてるか確認しにくいから幹部と初期メンバーで実験するしかないのも効率が悪いしな」


 イカが反応する新しい条件が見つかっておらず、さらに信者には知れ渡ってしまって嘘吐きを炙り出せない状況にあるらしい。


「私や他のサークルとの掛け持ちの子はあんまり協力的じゃないしね」

「そうだな。掛け持ちの連中はこっちメインに移行したいって奴も出てきてるが」


 岩崎はそう言って苦笑いする。


「別に信者増やそうが実験しようが構わないんだけど、これ以上オカ研自体に迷惑かけるのはやめなよ」

「それはみんなわかってるよ」


 岩崎は私と視線が絡まないように俯いた。


「別に岩崎は何も悪くないのはわかってるけどさ。卒業してった先輩たちにもこれからオカルト好きで入ってくる未来の後輩たちにも悪いからね」

「そうだな」



 彼ら――【森烏賊の会】――が何をしたのか?

 学生会館の部室でセックスをした。

 誰が?

 苫野慧とどこの誰だか知らない【森烏賊の会】入信希望の女性が。

 なぜ?

 祭壇の前で教祖とセックスをすることで神秘の力が注入され、イカの幻想を共有できると思ったから。


 ――正気か?


 その話を聞いたときに私が最初に思ったのはそれだ。

 正気の沙汰ではない。

 ひとまず部室で男女が関係を持つことに対しては一旦自分のことを棚に上げさせてもらうのだが。

 誰にも何も目撃されていないのであればそれは何もなかったのと同じなのだ。

 しかし、彼らの行為は大学側に発覚してしまった。

 なんでもお隣の怪獣研究会の部室の什器――棚らしい――が荷物の重さに耐えきれずに変形してしまい、事故の危険があるということで職員が呼ばれたのだそうだ。

 その際、オカルト研究会の部室の前を通りかかった職員が漏れ聞こえる喘ぎ声を不審に思ってマスターキーで部室の扉を開け、現行犯でお縄というわけだ。


 ――隣の部室でバタバタやってたなら気づけよ。


 苫野先輩は学生会館出入り禁止処分。見知らぬ女についてはそもそも素性すら知らないし、どうなったかも聞いていない。

 しかし、不幸中の幸いでオカルト研究会はお咎めなしとなった。

 その理由は苫野先輩が正式なサークル員ではなかったことが大きい。

 オカルト研究会は四年生より上の人間からはサークルに所属していても会費の徴収をしないということになっており、名簿には彼の名前は記載されておらず、引退扱いとなっていた。

 そして【森烏賊の会】については一切口にせず、ただ引退したサークルの部室を勝手にヤリ部屋として使う迷惑な先輩を徹底して演じた。

 先輩のその振る舞いは暗黙の了解として、取り調べを受けたメンバーも苫野先輩を悪者/部外者扱いすることで公認取り消しや活動停止処分などは免れた。

 実際に時々部室で性行為に及ぶ輩は摘発されているようで、それをいちいち停学/退学処分にもしていられないということで苫野先輩も判例通り部室が二度と使えないという処分が下ったのみだった。そもそも卒業しているはずの六年生が来なくなるというオカルト研究会としては最も軽い被害で乗り切ったのだ。

 だが、やはり一部の人間からするとサークル初の大イベントの前という時期や危うくサークル全体が処分を受けたかもしれないということに対する不満/怒りはあった。

 ただ、私個人としては後ろ暗いことがあったため、否定的な立場ではあるものの強くは言えなかったし、サークル全体としてはむしろ苫野先輩への同情票が殆どで声高に批判を口にできるものはいなかった。

 彼自身が「セックスすれば神秘体験ができる、神が宿る」などと女性を唆したわけではなく、どうしても神秘体験がしたかった女性から試したいと懇願されたことが大きい。

 彼女自身が大谷先輩や岩崎に対してそう証言したのだという。

 そのことは大谷先輩の口からサークル員に説明されたことで、教祖はその権威を失わずに済んだ。

 さらに彼の書いた文章にイカが大きく反応し続けていることもまた本当にイカが宿っているメンバーによる崇敬の念が途絶えない要因の一つだった。

 最初にイカに選ばれた存在であるという事実は変わらず、今回の事件もむしろそのカリスマ性によるものだとサークルメンバー内でも苫野先輩との肉体関係を望む声すら出ているという。

 その女性はけっきょく入会せず、イカが宿ったのかどうかは確認できていない。



 それからも学内外の入信希望者は絶えずイカ宗教は着実に大きく育ってきているのを感じる。

 弱小の日陰サークルであることにコンプレックスはあり、サークルが盛り上がること自体を否定するつもりはないが、やはり私はどうしても居心地の悪さを感じてしまうのだった。

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