第五章 秋のにおいがする

-1- レインドリップ

 暑かった雨の街の夏は終わりを迎えて、アウターを着て外を歩くことが増えてきた。雨の街のそこかしこに広がる緑の連なりも、赤や橙に変わりつつある。


 あの夜のことは覚えていて、俺はふとした時に反芻している。アリスの硬い体の温もりとか、震える肩とか、思ったより小さいな、とか。いつも余裕を醸し出している彼女の雰囲気からは想像もつかないあの姿は、彼女に対する印象をガラリと変えるものになった。あの体全体が締め付けられてしまったかような苦しい表情を思い出すと、思わずため息をついてしまうものだ。


 あれから二ヶ月ほど経過したが、俺たちは今まで通りルームメイトとして暮らしている。アリスの俺に対する態度はびっくりするほど今まで通りだ。何も変わらない。それが不自然な感じになる時がたまにあって、その度にお互いが変な気を遣ってしまっているように感じることもある。その居心地の悪さたるや、最初の頃に戻ったみたいで胸がざわつくんだよな。


 俺自身も女性をあんなにキツく抱きしめることは初めてのことだったもので、自分の軽はずみな行動に反省するとともに、あの瞬間だけはああするしかなかったという言い訳を抱えて今日まで生活してきた。別に悪いことをしたわけじゃないけど、何となく罪悪感がある。アンドロイドとはいえ、彼女には大事な配偶者がいたのだから。


 マリエッタは相変わらず凪の街で猫の写真を撮っているが、今日はアリスの家で休暇を楽しんでいるはずだ。きっと二人で取り留めのない話をしているのだろう。


 最近の変化といえば、アリスのアドバイス通り雨の街でアルバイトを始めた。アリスの働いている「レインドリップ」という喫茶店だ。緑茶色の布エプロン、白いワイシャツと黒いパンツを身につけ、清潔感のある茶色を基調とした店内の中、落ち着いた気持ちで仕事をさせてもらっている。


 雨の街らしい雰囲気の喫茶店だと思う。看板メニューのブレンドのほかに、自家製の焼きプリンやケーキなどスイーツも美味しい店だ。客足は都市部のカフェに比べてかなり少ないが、経営はなんとか成り立っているそう。雨の街は高齢化が進んでいるが、気候に慣れた低気圧に強いご老体の皆様が多く、みんな元気そうだ。常連さんは想像よりも多い。


 俺はカウンターやテーブル席の片付けを終え、カウンターの中に入ってぼんやりとする。シフト制のおかげでアリスと一緒に仕事をする機会は少ないが、一緒になった時はかなり気まずくて、できるのは事務的な会話くらい。


 きっとどちらかがあの夜について話を持ちかけないといけないのだろう、とはわかっているけれど、どうしても勇気が出なくて。俺はこんなにも消極的な人間だっただろうか。最近はふとした時にそんなことを考える。


 店内に広がる沈黙を静かに断ち切るのは、当店の店主であるロフェル・モカ店長だ。


「終わったかい」


 初老の落ち着いた男性の声に振り返る。俺と同じくらいの身長で、髪は白い。体型は細め。年齢は確か60代中間ぐらいって話だった。お孫さんもいるそうだけど、それを感じさせないほどの若々しい顔つきには毎度驚かされる。皺は多少あるけれど、若いよな、この店長。


「今日は比較的楽ですね」

「平日はこんなもんよ。そろそろ慣れてきたかい」

「まあ、多少」

「私に言わせれば、ハンドドリップはまだ練習が必要だけどね。ま、初心者にしては上出来だよ」

「はい、善処します」

「善処って」


 ロフェルさんは笑った。


「君、ほんと真面目」

「そうですか」

「アリスが入れ込むのもわかる気がするよ」


 不意に彼女の名前が出てきてドキッとする。彼女の硬い体の温もりや腰回りのしなやかさを思い出してしまう。くそ、あれはただのハグじゃないか。まったく意識しすぎだ。


「どうしたんだい顔を隠して」

「いえ、なんでも」

「もしかして、アリスと何かあったとか」

「ば!」

「ば?」


 変な声が出た。


 不思議そうにロフェルさんは俺の顔を覗き込む。彼は店内に立ち込めるコーヒーの香りと同じ香りがした。普段から飲んでいるのだろう。


「図星だね。話してみなさいよ、私でよければ相談に乗るよ」

「いやあ、なんていうか、ね」

「いいじゃない。こう見えて聞き上手ってよく言われるんだよ」

「は、はあ」

「お客さんもしばらく来なさそうだし。ね?」


 からかうようにニヤニヤしているロフェルさん。そんな顔をされると話す気がなくなってくるんだけどな。まあ、彼はいい人だ。何かアドバイスがもらえるかもしれない。今後のこととか。いろいろと。


「じゃあその、真剣に聞いてくださいね」

「はいな」

「はいな?」

「はいな。いいでしょ、はいな」


 感覚的な人だ。そういうところはなんかアリスに似てるような気もするけれど。俺はカウンターに両手を置いて、大きな窓の向こうの街並みを見つめながら打ち明けた。彼女の秘密には触れないように、自分の気持ちを。

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