-7- 知らないこと,知らないワイン

 俺は、アリスのことを、何も知らない。


 どうしてあの家を仕事もせずに維持できているのか。どうして150年もパーツがデッドストックにならずに、今まで活動できているのか。どうして数百年前のレコードのレプリカを持っているのか。どうしてたまに、寂しそうに窓の向こうを見つめているのか……。


 挙げてみればきりがないが、俺は何も知っていない。あの美しいアンドロイドの表層しか、知らない。


「あの、アリス」


 リビングルーム。ハーブティーを飲む二人を間接照明が照らしている。もっとも、アリスは飲み物が飲めないので香りを楽しんでいるだけだ。


「なあに、ラオレ」


 彼女は顔を上げて微笑みながら首を傾げる。相変わらず美しい人だ。俺はその笑顔を見ると、胸が締め付けられるような気分になった。彼女の美しさに心を奪われると同時に、心が奪われている自分を情けなく感じた。


「俺、アリスのことを何も知らない」

「そうね、話していないから」

「どうして話してくれないんですか」

「必要ないでしょう?」

「俺は知りたいです、あなたのこと」


 アリスはカップを机に置き、少しだけ悲しそうな目をした。

 それから立ち上がり、リビングルームから書斎の方へ歩いていった。しばらくして戻ってくると、手に持っていた分厚い本をソファに置いて隣に座ってきた。表紙には『森の機械の乙女』と書いてある。


「これは」

「私の好きな絵本よ」

「はあ」

「私のことが書いてあるわけじゃないけれど、ここに出てくる女性型アンドロイドは私に似ているわ。……少しだけ」


 ページをめくって絵を追うアリス。金色の長い髪がなだれ、真っ白な手が耳にすらりと髪を引っかける。その姿が、一枚の絵画のように美しく光った。俺はアリスの横顔を見つめながら、息をついて言った。


「あなたは本当に、アンドロイドに見えない」

「ふふ。そう。アンドロイドじゃないからね」

「ご冗談を」

「せいかい」

「それほど高性能だ、ということですね。ますます興味が湧きます」


 アリスはこちらを訝しげな視線で見つめて、ため息をつく。


「そう……あなたもそうなのね」

「え?」


 アリスは本の方に目を向け直して呟くように言う。


「知るのは、時に怖いものよ。知りすぎることは」

「……俺はただ、ご自身のことを教えて欲しいだけなんですけど」

「私はもう、十分生きたのよ」


 アリスにしては随分と後ろ向きな言葉だ。


「どういう意味?」


 尋ねると,彼女は横目に俺を見て小さく笑う。


「ふふっ、言葉通りの意味よ。それに、知ってどうするの? 私がどんな人生を歩んできたのかを知ったところで、あなたはそれ以上の情報を欲するでしょうに」

「それ以上……」

「そう。人の知識欲は計り知れないって、あの人もよく言っていたわ」


 あの人、と話してから、アリスは微笑みながら俯いた。誰を思い浮かべているのだろう。


「誰ですか? その人」

「……」

「ま、詮索する気はないんですけど、ね」


 やんわりとそう伝えると、アリスは金色の長い髪をうなだらせた。俺はできるだけ優しく、表情を和らげてこう質問した。


「じゃあせめて、これだけでも教えてくれませんか。なぜ、ご自身の名前をアリスという名前にしたのか。由来だけでもいいですから」


 アリスは顔を曇らせた。テーブルの下で手を重ねているのか、人工皮膚をさする音が部屋にこだまする。

 それから十数秒間沈黙が流れ、ゆっくりと口が開かれる。


「……それは」


 アリスは少し躊躇いつつも言葉を紡ぐ。


「あの人が、付けてくれたのよ」

「あの人、か」

「そう。あの人よ」


 あの人が一体誰なのか、俺にはわからない。しかしわかることはある。アリスが「あの人」と話すたび、彼女の表情は少し明るくなるんだ。きっと大事な人だったんだろう。


「その人は、今は」


 アリスは眉に皺を寄せた。どんどん表情が濁っていくアリスに、俺は言葉を続ける。


「ここにいた人ですか」

「……ええ」

「今はいない人?」

「……そう」

「大事な人、ですか」

「尋問?」

「あ、すいません。そんなつもりは」


 アリスは小さく笑った。


 彼女は絵本を閉じてテーブルに置き、立ち上がる。ソファから離れてキッチンに向かうと、戸棚からワインボトルを取り出して、ワイングラスも持ってきた。それから俺の隣に座って、ボトルとグラスをテーブルに置く。


「アルコールは強い方かしら」

「えっと、まあ、人並みに」

「そう。よかったら、ちょっと付き合ってちょうだい」


 アリスが注いでくれた赤い色の飲み物を、俺は香りを楽しみながら少しずつ飲んでいく。


「うん、美味しいワインですね」

「よかった」

「ワイン、お好きなんですね」

「私の趣味じゃなくて、あの人の趣味。あの人は――ヴィルセンは、良いことがあるとよくボトルを開けていたわ」


 アリスは先ほど見せたような少し悲しそうな笑みを浮かべ、少量の赤ワインが入ったワイングラスを揺らしながら、ヴィルセン・フランシェリアの話をしてくれた。


 ヴィルセンはピアニスト兼作曲家で、身寄りのないアリスを家に招いたことでアリスと知り合ったらしい。その後アリスと結婚し、アンドロイドと初めて結婚した人物として、当時は世間を騒がせたらしい。アンドロイドと結婚するなんて狂気の沙汰だと揶揄する者もいたが、彼はそんな声を気にせずアリスを愛し続けたという。


「ヴィルセンさんはどんな人でしたか」

「優しい人だった。私もその時いろいろあって、そう……丁度あなたのようにね、疲れて参っていた時だったの。そんな時、彼は助けの手を差し伸べてくれた」


 アリスは遠い目をして、窓の外を見つめる。


「私はね、アンドロイドなのに感情を持ってしまった。もう100年以上前のことね。当時はかなり珍しいことで、私はとにかく世間に振り回されてしまった。それが嫌で辛くて仕方がなくて、人知れずこの街にやってきた」


 老人が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。――世界で一番有名なアンドロイド。そういうことだったのだろうか。


「ヴィルセンと出会ったのはその頃よ。私がこの家のある森で迷っていた時に、彼が現れた」

「じゃあ、この家は」

「ヴィルセンが建てたものよ」


 アリスの話によると、ヴィルセンは森の奥深くにあるこの洋風の家屋に住んでいて、そこで音楽を作っていたらしい。


「あなたをここに迎え入れたのは、そういう理由もあるかしらね。もともと知り合いというのもあったけれど、私だってヴィルセンに助けられたし。目の前に困っている人がいたら、いてもたってもいられなくて」


 振り回しちゃってないといいけど、とアリスは照れ笑いながら付け加える。俺はワインのアルコールに酔ってきたからなのか、思わず思ったことをポロッとこぼしてしまった。


「他の人にもそうしているんですか」

「え」


 アリスはぽかんと口を開けた。


「困っている人がいたら助けたいって、素敵なことだと思うんですけど。他にもそういう人がいるのかと思うと、なんだか」

「あらまあ、妬いてるの?」

「まさか」

「耳、赤いわよ」

「わ、ワインのせいですよ」


 俺は両耳を隠すように両手で覆った。アリスはその仕草を面白く感じたようで、ケラケラと笑いだす。


「私は長いことこの街で生きてきたからね。あなたの言うように、今まで老若男女問わず人を招いたり泊まらせたりしてきたけれど……。大抵は数ヶ月か数年で満足して出ていくものよ」


 アリスはワイングラスをじっと見つめながら語り続ける。


「私はアンドロイドだから、人間同士が互いに期待しているような関係性にはなれないのよ。きっとみんな、私がアンドロイドなのに感情豊かで、人間と区別ができないことが怖いのでしょうね」


 そんな。


「そんなこと、ないです」

「そうかしら? あなただって、いつか研究所に戻るかもしれないでしょう」

「それは、わからないけど」

「人は去っていくものよ。いつも私を置いて」


 アリスはワイングラスを揺らして香りを楽しんでいる。


「言っておくけど、ヴィルセンの話は私の氷山の一角に過ぎないわ。もっと深い秘密、あるから」

「それは」

「時が来たら話すわよ。私とあなたに覚悟がある時にね」


 間接照明に照らされたアリスの横顔は、寂しげに微笑んでいた。俺は、アリスのことをもっと知りたい。しかし同時に怖くもあった。俺が彼女を知るにはもっと覚悟が必要らしいし。あんな風に釘を刺されると流石に尻込みしてしまう。


 アリスが抱えている秘密は、きっと想像を絶するほどのものだ。それに、それを無理矢理暴いていいわけがない。


 ……だけど。それでも。


「俺、感謝してるんです」

「感謝?」

「アンドロイドに対する苦手意識が変わりつつあるのは、あなたがいるからだ」

「……」

「アンドロイドと人間の垣根を乗り越えて、俺の心を引き出してくれる存在だと思ってます。……いや、ちょっと重いかな。とにかくその、感謝です。最初に会った日のことは特に。アリスの手は、シリコンのはずなのに本物みたいでした」


 いや、なんかすごく恥ずかしいな。俺が頭をかくと、アリスはふっと笑った。そして優しく語りかける。


「ありがとう。嬉しいわ。あーなんだか、今日はあの人の話がしたい気分かも」

「お付き合いしますよ」

「マリーに見られたら怒られるかしらね。あの子、独占欲すごいから」

「はは、言えてる」


 アリスはいたずらっぽく笑う。俺はワイングラスを傾けて、赤いワインで喉を潤していく。アリスはうなだれた長い金髪をもう一度耳に引っ掛け、肘をテーブルにつけて話し始めた。


「私がヴィルセンと結婚したのは、彼に惹かれていたからというだけではないの。彼が私の荒んだ心を癒してくれたから。私は彼の隣で安らぎを得たかった。だから結婚したの」


 アリスは少し懐かしそうな目をして、手元に置いたワイングラスを見つめる。グラスの中の赤紫の液体を揺らしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「彼と過ごした時間はとても幸せだった。それまではいろいろ大変だったけれど、彼と出会ってからは穏やかな日々だったと思う。彼を愛していたし、彼もそれに応えてくれて――」


 彼女の横顔からは後悔の色など微塵も感じられなかった。ただ優しい声色で、記憶の中の大事な人に語りかけるように、淡々と言葉を重ねていく。


 夜の雨がかすかに窓を打ち始める。間接照明の優しい色に照らされて、二人の影がテーブルの上でゆらめいた。


【第二章】 完

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