七村紅緒と『僕』

残りの残夏休みはマジェンタと補習をして過ごした。

時間は少しずつ、しかし確実に私から彼の痛みを奪っていった。

どうしても辛くなったとき、私はマジェンタに抱きついた。するとマジェンタは「なになに?」と慌てる。けれど私を振りほどくことなくただじっとしていた。彼の痛みをマジェンタで誤魔化しているようで、罪悪感はやはりあった。けれど誤魔化してでも前に進みたかった。

きっと彼の死が私にとって本当に過去になってしまつたとき、私はまた傷付くのだろう。

マジェンタは朝、黒薔薇館に寄ってくれるようになり、私は彼女と一緒に登校するようになった。時々、私は白杖を出して、マジェンタに見てもらいながら一人で登校を試してみた。最初はマジェンタがちょっとしたことで「危ない」と繰り返すせいで、動けなくなってしまった。

私が腹を立てて「ちょっと黙ってて!」と言って再チャレンジすると盛大に転けた。膝と肘を擦りむいて、マジェンタに黒薔薇館に戻ってもらい、茜に消毒と手当をしてもらった。

怪我の経緯を聞いて茜は「練習なさりたいなら私がお付き合いしますのに」と少しショックだったみたいだ。

「ごめんなさい。でも驚かせたくて」

「はい。お気持ちは嬉しいのですが」

「まあ、紅緒が登校の練習をしたいなら私が付き合うからさ」

とマジェンタは少し鼻を高くして言う。

「お嬢様に怪我をさせておいて言う言葉ですか?」

「だって、それは紅緒が黙っててって言うから!」

「言い訳ばかり達者ですね」

「二人ともやめて。わたしは早く学院に行きたいわ」

結局この話は決着せず、茜はことあるたびに練習の際は自分にいえと言う。だが、茜にはこっそりまだマジェンタと登校するときは練習している。でも少しすつ道を覚えてきて転けることはなくなった。けれど、道を覚えてしまうと未知の道を歩く練習にはならないような気がして、果たしてこれで良いのだろうかと新しい疑問も出てきた。

夏休みが明けた初日。体育館で行われた始業式には灰谷先生が連れて行ってくれた。みんなが並んでいる体育の済で先生たちに混じって出席をした。全校生徒が揃うような、大勢がいる場所は避けても良いことになっていたから私は全校朝礼などはいつも欠席していた。やはり近くに人が密集した集団の気配があるのは落ち着かなかった。壇上で行われた話を聞く余裕はない。私は始業式が終わり、生徒たちが誰もいなくなるまで、済でじっと動かず、集団をやり過ごした。

お昼休みは生徒会室で志安さん、黄路さんと再会し、嬉しかった。

「ご心配おかけしました」

そう頭を下げると、志安さんが、「ん、どうぞ」と言って何かを待っている様子だ。

黄路さんも困惑していた。

「どうしたの?」

「んー。最近マジェンタによく抱きつくと聞いていたから、私たちも抱きつかれるものだと。どうぞ。私はいつでもいいよ」

「ああ。なるほど」

「え、ちょっとマジェンタ!」

私は顔が急に熱くなる。

「ごめん。嬉しくて自慢しちゃったの」

「さあ、どうぞ」

「しません!」

志安さんや黄路さんとは彼の死から仲良くなり始めたというのに、彼女たちとのやりとりが随分懐かしく感じられた。

私たちはご飯も食べ終わり、マジェンタが入れてくれたお茶を楽しんでいると黄路さんが迷いながら話を切り出した。

「みんな、聞いたかしら?」

何の話かはすぐにぴんときた。それは志安さんもマジェンタも同じだったのだろう。すぐに二人が頷く声が聞こえた。

始業式の前後、生徒たちの噂話に決まって登る名前があった。どの生徒も「純白」とその名前を繰り返した。けれどそれは私たちが敬愛した先輩のことではなかった。

「転校生。だって三年に」

「純白だってね」

「うーん。どういうこと?」

「純白家の新しい次期当主がいらっしゃったということよ」

「養子とはいえ自分の家の子どもが自殺したところに新しい養子を入れるかね。金持ちの感覚はわからないな」

「養子じゃないわ」

「え?」

「養子じゃないのよ。これまで何処にいたのか知らないけど、嫡子という話よ」

「なにそれ? じゃあ純白先輩は、紗智先輩は何に悩んで死んだの?」

「嫡子がいながら養子を入れてたってこと? それが死んだから嫡子を引っ張り出してきた?」

「まあ、あり体に言えばそういうことね」

「なるほどね。本当に厄介そうな家だ」

「まあ三年だから、半年同じ学院に通うだけよ。あんまり関わらないほうがいいわ。黙ってやり過ごしましょう」

純白家から転校生。私の気持ちは穏やかではなかった。きっと学院の生徒みんながそうなのだろう。みんなに人気だった純白紗智が死に、別の純白の者が現れる。本当のお家騒動のようだ。その転校生本人もみんなの注目を浴びて、愉快ではないだろうに。

ざわざわと胸の奥が騒ぐ。

転校生にというより、純白家という横暴な振る舞いをする家。どこか父を思い出させる。

私たちは暗い気持ちでお昼休みを終えた。始業式の日は午後には予定がなく、その後は生徒たちは部活へと向かう。

私はある予感があり、文芸部の部室で訪ねて来る人を待った。彼女が私が予想しているとおりの人なら、きっとここに来るだろう。

私は抗議の意味も込めて、彼女の席に座って待った

。しばらくするとノックもなく扉が開いた。

「失礼するよ。部員の方かな」

「ええ。お久しぶりです。純白先輩……ですね」

返事までは時間がかかった。その間先輩が何を考えていたのか、私なりに推し量ろうとしたが、先輩と私の間には闇が横たわって彼女の心は見えなかった。

「紗智の死に、気づいたのか?」

「はい」

「そうか」

純白先輩との再会。この人の死を私は悲しんだ。なのに、何故この再会を喜べないのだろう。

「きみにとっては私が死んでいたほうがよかったのだろうな」

お腹の底から何かが飛び出してきそうになるのをぐっと堪えた。

「その質問はあまりいい趣味とはいえません」

「……そうだな。確かにそのとおりだ。悪かった。忘れてくれ」

純白先輩は一つため息をついた。

「きみと会ったら話したいことがたくさんあったはずなんだ。別れの手紙さえ、書ききることを恐れているみたいに、何かを伝えなければと焦ってばかりいた。なのにな。今は何を話せばいいのかわからない」

「何故、私を騙そうとしたんですか?」

「わからないか?」

「貴女の口から聞きたい」

「そうだな。確かに、私が話すべきかもしれない。察してくれは卑怯かもしれない」

純白先輩は独り言のように言う。

「紗智が生命を絶った時点で、きみは私と紗智を誤認していた。その誤認も私たちの不徳が招いたことには違いない。誤解を解くことも考えたが、それには私たちの事情も話さなければならなかった。それは難しい。だが、それを避けて、紗智が死んだのだとは言えない。考えた結果、きみの誤解は解かないことにした。これは、私が勝手にやったことで紗智は関係ない」

「私を……憐れんだのではないですか?」

「ないとは言わない。きみは紗智との繋がりのほうが深かった。誤解を解かないことは、きみにも良かろうと判断した」

「……く」

涙が込み上げてきそうになる。けれどこんなところで泣くわけにはいかない。

「その結果、きみを紗智の死から遠ざけ、その事実を知ったときにより強い衝撃を与えてしまったでろうことはわかる。謝罪が必要であれば、この場で謝ろう。すまなかった」

「貴女は! ……そんなふうにしか、そんな突き放したようにしか! 話せないんですか!?」

「……。そうだ。私は、こういうふうにしか話せない」

「なんで?」

「私が純白だからだ。自分や家の者の不行き届きがあったなら謝罪もする。誠心誠意。できることをしよう。だがな、それで純白のあり方を損なうことはない。すまないが、そういう家なんたと了解してくれ」

「私は……。私は、貴女とただ彼の死を悲しみたかった。憐れみも謝罪もいりません。彼との思い出を共有できるのは、私には貴女しかいなかったのに」

「……きみを置いて去るしかなかった。正体は明かせない。紗智の死を伝えることもできない。それに、私が戻らなければ、次の純白紗智が生まれていただろう。それは、防ぎたかった。結果、きみの気持ちを軽んじた。すまなかった」

「貴女は、今日どうしてここに戻ってきたのですか? 私のことを騙したままにしたいなら、ここに来る必要はなかったはずです」

途中で声が震えてしまう。一呼吸いれなければ、気持ちが決壊してしまいそうになる。

純白先輩はこの質問に黙り込んだ。無視をしているのではなく、この質問の答えを考えているのだとわかる。私は純白先輩が答えを見つけるまでじっと黙って待った。

「どうして、だろうな。きみの様子を窺いたかったのか。紗智との思い出に触れたかったのか。それとも単純にきみが座っているその席にまたすわりたかったのかもしれないな」

「ここに座っていたのはやはり貴女だったのですね。みんなが純白先輩というから、彼が座っていなきゃおかしいと思ったんですけど」

「いや、そこを特等席にしていたのは私だよ。案外気づかないものなんだ。文芸部にいるのは紗智だという先入観があるのだろうか。おかしなものだがね」

「それはわかる気がします。私がそこに座っていたら、純白先輩の幽霊が出たと噂がたちました」

からからと純白先輩が笑った。

「それは面白いね。まったくみんな適当だからな。それにね、もし誰かが私が紗智じゃないと気づいて近づいてきてもね、部室には実際紗智がいるから正直なんとでもなったんだよ。また文芸部に紗智のファンが押しかけて断られていることにもできるしね。だからこの部屋では私は割りと自由に過ごせたんだ」

「手記には貴女の視点から書かれたページもありました」

「ああ、そうだね。あれは私と紗智の情報交換にも使っていたから、きみが来る前は普通に話せばよかったんだけど、部室で話すことはできなくなってしまったから」

私が黙り込むと今度は先輩が質問をしたいと言った。

「黒薔薇の会はどうなった? きみにも何か迷惑をかけなかったか?」

「黒薔薇の会のみんなを知ってるんですね?」

「ああ、知ってる。といっても紗智を通してだが」

「黒薔薇の会は、マジェンタが彼の死を受け入れられなくてちょっと暴れました」

「……そうか」

苦い声だ。

「学院から夏休み中の補習を言いつけられたくらいですみましたけど」

「そうか。それはまだ不幸中の幸いだったかな」

「後はとくにありません。マジェンタ、志安さん、黄路さんとは、それを契機に仲良くなれたぐらいです」

「黄路はきみを嫌っていたろ? 上手くやれてるか」

「いまのところ」

「そうか。ならいいんだ」

私たちの会話の隅々には、常に静寂の影があった。どちらかが気を抜いて口を閉ざすと、途端に沈黙が部室を満たして、次に口を開くのに気力が必要になった。

今回の沈黙は少し長かった。

その分、もう一度口を開くのに必要な気力も増えていく。私はぐっとお腹の底に力をためて口を開いた。

「一つ。お願いがあります」

「なんだろうか?」

「彼の、純白紗智のお墓に案内してくれませんか?」

またすぐに部屋を沈黙が覆う。だが、次に口を開くのは純白先輩の番だ。

私は彼女の返答を持った。

「いいだろう。少し遠出になる。今週末の外泊許可をとっておくんだ」

「わかりました」

私たちの会話はそこで途切れた。長い間沈黙があり、また純白先輩が「邪魔をしたね。悪かった」と言い私は「いいえ」と答えた。そうして彼女は部屋を出ていき、もうこの部室に来ることはなかった。

週末、私は言われたとおりに灰谷先生に許可を取り、心配する茜をなだめて純白先輩と出かけた。バスを乗り継ぎ、知らない街へと出かけた。バスに乗る間、知らない街への恐怖に手が震えることがあった。純白先輩は何も言わずただ手を握っていた。

「大丈夫? 酔ってないか?」

「いえ。どこで降りるのだろうと思っていただけです」

「もうしばらくある。眠っているといい」

「いえ、大丈夫です」

バスに乗る時間が長くなるにつれて、少し気分が悪くなってきた。私は純白先輩に「少し休みます」と声をかけた。隣からは「ああ」とだけ短い返事が返ってきた。

純白先輩が「次で降りるよ」と声をかけるまで結局私は眠れなかった。

バスを降りると知らない街の喧騒が私を包んだ。ものすごい速さに思える車の走行音に身をすくめる。

「大丈夫。ここは歩道だ。しっかり手を掴んで置くんだ」

「はい」

「それに、ここは完全にきみが初めてという街でもない。一度きたことがある」

「彼の告別式があった……」

「そうだよ」

以前この街に来たときは、純白先輩とお別れをしなければならないことに怯えていた。けれどそこに今は純白先輩と来ている。本当におかしな話だ。

私にとってその時はまだ生きていた彼が本当はもう染んでいたなんて。私はどれほど愚かだったのだろうか。

「前にこの街に来たときは、みっともない姿をきみに晒してしまった。きみだって。いやきみのほうが辛かっただろうに。すまなかった」

「……もう、謝らないでください」

「そうだな。謝罪も聞きたくないか」

「違います! お願いだから、もう謝らないで……。私はあなたを許しました。一緒にここに来た日。もう貴女を許したんです」

「きみはまだ何も知らなかった。騙されていたんだ。そんな許しは無効だよ」

「無効じゃないわ! 無効じゃない! 貴女だって、悲しんでた……! 今だってきっと辛いんでしょ? だから私は許したの。無効なんかじゃない。そんなことであの時の気持ちが嘘になんてならない!」

「私の気持ちは何の意味もないよ。きみを騙した事実は変わらない」

「私は、貴女が死んだと思っていたとき悲しかったわ! とても悲しかった! だから、生きていてくれて嬉しい!」

「でも紗智の死のほうが悲しいんだろう?」

「比べるものじゃないの! 誰のほうが大切だとか! 誰のほうが悲しんでるとか! どの気持ちが本物で、どの気持ちが偽物だとか! そんなんじゃない! 人を思う気持ちは大きさを比べるものじゃないのに! なんでわからないのよ……! 貴女が生きていて嬉しい気持ちと彼が死んで悲しい気持ちは比べるものじゃないの! 彼の死が悲しいから、貴女が生きていて嬉しい気持ちが嘘だなんてことはないの!」

私は気づいたら叫んでいた。涙がもう止まらなかった。声を震わせ、感情の大波に耐えるしかない。

「私は貴女とも彼の死を悲しみたかった。彼が死んで貴女だって悲しかったんでしょ? 一緒に身を寄せて悲しみに耐えたかった。なんで貴女は悲しくないみたいに振る舞うの? 貴女の涙は熱かったの! まだ私は覚えてるのに。なんで貴女は忘れたみたいに振る舞うのよ!」

あたりには変わらず車の走る音がしていた。道の途中で泣きながら叫ぶ私はどう見えただろう。そう思うと苦しくなった。悲しくて仕方ないのに、そんなどうでもいいことを気にしてしまう自分が小さく見えた。

純白先輩は何も言わなかった。私が振りほどいてしまった手をもう一度繋ぎ、震える声で「こっちだ」とだけ言った。

それから私たちは会話もなく坂を登った。時折純白先輩が段差や傾斜を警告してくれる。けれど会話はなかった。

「気をつけて。ここからは段差が多い」

純白先輩は細かく私に注意を促した。私はそれでも何度も躓き、その度に純白先輩に支えてもらった。

私にはとても一人では辿り着けない難所。彼のお墓はまさしくそういった場所にあった。細かく曲がったり、少しずつ道がカーブしていたり、覚えることすらできそうにない。汗が噴き出して、どんどん服を汚していく。きつい夏の道だった。

そうした先に純白先輩は私を案内して、遂に「ついたよ」と言った。

純白先輩は私の手を掴んで墓石に誘導してくれた。御影石は日に焼かれて熱く熱を持っていた。それでも私はその手を離すことができなかった。

「ここが純白家の……」

「いや違う。ここは黒川家の墓だ」

「どうして?」

純白先輩は家の重圧に耐えられなかったというのに、墓にも入れてもらえないなんて。

「私が言ったんだ。黒川家の墓に埋葬したほうが良いと。純白の墓に入れても紗智は休まらない。それよりも家族の墓に帰してやったほうがいい。彼女は純白という仮面からもう解放されたんだ」

声が震えて、純白先輩が泣いていることがわかる。歯を食いしばって声を漏らさないように泣いていた。

「そう。ですね。彼のことを考えてくれてありがとうごさいます」

私たちは、ようやく彼の死を悲しむことができた気がした。私たちは身体を突き抜ける悲しみに耐え抜いていかねばならない。

私は自然と純白先輩を抱きかかえた。声を殺すことできないくらい激しい嗚咽が先輩から聞こえる。私自身も彼との思い出が次々に思い出されて、声を我慢することができなかった。

私たちの悲しみは抱き合った腕や押し付けた頭や胸から互いに流れ込み混濁一体となって私たち二人を押し流した。

暑い夏の日に、私たちは彼のお墓の前でいつまでも泣き声を上げ続けた。

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紅は園生に植えても隠れなし 枉路 尋 @ougy16

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