淡々と日々

チャガマ

淡々と日々

 雨の匂いを嗅いで、私はダブルベッドの上で目を覚ました。近くですやすやと眠る声がする。忠人さんの寝息。すん、すんと規則正しく、まるで赤子のような純粋さがそこにはあるように思う。


 私は掛け布団をずらさないように、するりとベッドを抜け出し、二月の冷たいフローリングに足をつけた。窓の外で雨が降っている。今日も陰鬱な濁った空。不規則に溢れてくる雨音。それとは対照的に、部屋の中からカチカチと時を刻む木製の枠に囲まれた四角い時計は、午前七時半を指していた。


「おはよう」と後ろで声がする。忠人さんの眠たげで、蕩けたような声。

「おはよう」


 私も朝の挨拶を返す。冷たい一室が急に暖かな温度を持ち始めたように感じる。

彼は心からのような声で、「今日もいい天気だね」と言う。こんな憂鬱気な雨の日なのに。私はつい窓の外と声のある方を繰り返し見て、ふふっと笑ってしまった。


「ほんと、おかしな人ね」


 私と忠人さんは近郊都市にある2ⅬⅮKのマンションの一室で毎日を過ごしている。二人で過ごすには十分すぎる広さだった。


 七時半。私はいつもこの時間に起き、パジャマのまますぐにキッチンへ向かう。電気ケトルに水をため、お湯を沸かしている間にドリップコーヒーの準備をする。

あの柔らかな紙の封を開けた時、朝の冷えた、それでいて気怠さのある空気に漂うコーヒーの香りに、ついついうっとりとしてしまう。


 コーヒーの準備ができたら、近くの小さなパン屋さんで買ってきた山形食パンに満遍なく丁寧にマーガリンを塗った。オーブントースターに入れ、ジリジリとハンドルを捩じる。換気扇をうぉんと唸らせ、キッチンの下の棚からフライパンを取り出す。それに薄くアマニ油をひき、玉子を黒い円盤の上に浮かばせる。


 香ばしい豆の香りと、ジリジリと焼けるトーストの焦げっぽい匂い、シャワシャワと静かに少しずつ固まっていく目玉焼きに、うぉんぉんと回る換気扇。

 そして電気ケトルが静かに湯気をたたせ、カチッと音を立てる時。忠人さんはいつも水色のパジャマのまま眠そうな瞳をして、タイミングを見計らったようにリビングに顔を出すのだ。


「コーヒーいる?」

「うん。いただくよ」と眠たげに夫は言った。


 私はフライパンの火を止め、素早く目玉焼きを皿に移す。あらかじめ千切りにしておいたキャベツを冷蔵庫から取り出し、添えるように盛り付ける。ちょうどその時、オーブントースターがチンと甲高い音を立てた。


 食卓に朝食を並べる。トースト、目玉焼きと千切りキャベツ、コーヒー。どこにでもある朝食。五百円で食べられそうなカフェのモーニングのような品揃え。


「いただきます」

「いただきます」


 二人で声を揃えて言う。シンプルで、けれども豊かな朝食。私たちは一緒に声を合わせて「いただきます」と言うことを欠かさない。一度だけ、独りぼっちで「いただきます」を言った日がある。その時、私は目の前にある出来立ての料理たちから、急速に温かみが失われていくのを感じた。


 だから私は忠人さんと一緒に「いただきます」と言うことを欠かさない。そこに日常と安心と、豊かな朝食があると思う。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」


 また二人で揃って言う。何の合図もなしに、ただ食べ終わって手を合わせれば、自然とその声は合わさって響く。私はその営みが、まるで奇跡のようにさえ思えてくる。


「今日もいい天気だね」と彼は言う。まだ窓の外はさぁさぁと雨が降っていた。

「そうね。今日もいい天気だわ」


 私は笑ってそう納得することにした。



 食器を全て食洗器に入れ、私は出社の準備をする。ここから会社までは歩いて十分。勤務開始時刻は午前九時からだ。だいたい八時半過ぎ頃には会社のオフィスにいないといけない。


 以前までは此処から電車で一時間ほどかかるオフィスに通っていたが、昨年度に部署異動があり、今までより近いオフィスの部署に配属されることになった。朝ゆっくりとする時間ができたのは、素直に嬉しく思う。


 ほっとするようなぬるま湯で洗顔し、念入りに歯を磨き、パリッとしたスーツに着替える。そして、スーツに汚れが付かないように化粧の下地していく。ANESSAのBBクリームを塗り、ディオールのコンシーラーとパウダー。シャネルのアイライナーを目頭から目尻まで引いていく。そして、ⅬUNASOLのアイシャドウ。ビューラーでまつげをあげ、ナチュラルさを意識してマスカラを仕上げる。眉毛にラインを引き、NARSのハイライトパウダーで立体感を出す。最後にTHREEのリップを塗る。忠人さんがプレゼントしてくれたシャネルのリップはとっておきの時しか使わないと決めた。


「今日も綺麗だね」と忠人さんは言う。その言葉のおかげで、私はこの朝の準備をこなすことができていると思う。


忘れ物がないかを確認し、


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 言葉を交わして、私は玄関を開けた。会社まで赤い傘を差しながら歩いて向かう。ざぁざぁと降る雨は騒々しい。人々の足音、コツコツとコンクリートを打ち鳴らすヒールの音、パシャパシャと早足で水溜まりを跳ねていく音、タンタンと地面を叩く足音。


 信号機の音が鳴ると、それらが一斉に音を奏でる。でも、それは酷く騒々しい。ぱたっ、ぱたぱたっと不規則に傘に当たる雨音だけに耳を澄ました。


 会社のオフィスは、とあるビルの三階の一角にある。社員は十五人ほど。私がオフィスに着くころにはほとんどの人が集まっていた。一人一人に軽く挨拶をして、自分の席に着く。鞄を置き、すぐに社員に配るためのコーヒーを入れに行った。


「や、おはようございます」


 私より先にコーヒーメーカーの前にいた橋谷さんに声を掛けられる。溌剌としたがたいの良い体格に似あわず、もう五十を過ぎようという年齢で、比較的年齢層が若いこのオフィスでは年長者の方だ。


「おはようございます」


 丁寧にお辞儀をして挨拶を返す。橋谷さんは穏やかな微笑みをたたえながら、


「今日もよろしくお願いします」


 そうぺこりとまだ黒髪がはっきりと生えている頭を下げて、コーヒーカップを片手に自分の席へ戻って行った。

 私はコーヒーメーカーの前に立ち、カップの中に黒い液体が注がれているのを黙って見つめている。数人分のコーヒーを淹れ終わると、トレイで社員に配っていく。誰もが笑顔で感謝を述べながらコーヒーを受け取ってくれた。


 そうしているうちに、勤務時間になる。各々が自分の仕事へ向かっていく。私も自身のデスクに戻り、仕事を始めた。けれど、私の仕事はとても簡単なもので、他の人が作成した資料のチェックと校正、後は事務的なメールの確認だ。それが終われば、勤務時間に関係なく帰っても良いことになっている。


 黙々と仕事をしていると、気が付けば真っ白なオフィスの時計は十二時を指していた。社員はビル一階にあるコンビニに向かうか、どこかで外食をしようと一斉に席を立つ。


 今日は雨が降っているし、コンビニで済ませようかと思っていると、橋谷さんから声を掛けられた。


「仲野さん、近くに新しい定食屋さんが出来たんですが、宜しければご一緒しませんか」


 彼の後ろには女性社員の清見さんと中川さんもいた。なんだか少しほっとしたような気持ちになる。私は彼らと一緒に食事をすることにした。新しい定食屋さんは、本当に近かった。ビルから横断歩道を渡って、ほんの少し歩いただけ。


 店内はこぢんまりとしていた。四人掛けと二人掛けのテーブルがそれぞれ二つずつあるだけで、お店はもう一杯一杯だ。幸いなことに客は私たちだけだった。

 店長らしきおじさんは白髭を生やしたいかにも優しそうな顔つきの人で、「いらっしゃいませ」とお水と手拭きを配り、丁寧に注文を聞き取ると、


「ちょっとお時間かかりますけども、よろしいですか」


 そう一言断ってから厨房の方へ戻って行った。

 店長が厨房に戻ってしまうと、店内のバラードがゆっくりと耳に入ってくる。橋谷さんが会話を回し始めた。清見さんも中川さんも落ち着いて温かい女性たちだということが、話をしていてわかる。私はとても安心して、彼らの会話に耳を傾け、自然な相槌を打った。


「お待たせしました」


 店長が料理を持ってきた。私の注文したハンバーグ定食には、ご飯にみそ汁に漬物、メインのハンバーグにはデミグラスソースがかけられ、傍にサラダが添えられている。各々に料理が回ってから、四人で「いただきます」と言った。それも私をものすごく安心させた。


 食事の間、私はあまり話さず、目の前の食事に集中してしまう。それを知ってか知らずか、他の三人も軽く料理に賛辞を述べるだけで、後は黙々と箸を進めていた。

料理は美味しかった。特にハンバーグは、忠人さんの作ってくれた食卓の味を思い出す。あの不格好なハンバーグ。私が仕事で疲れた時に慣れない手つきで作ってくれた、最上の一品。

 店長の作ってくれたハンバーグは、さすが売り物なだけあって、とても整った形をしている。でも、その中にはしっかりと、家庭の温かみを感じる味わいがあった。


「ごちそうさまでした」


 これも四人で言った。清見さんが「まるで家族ですね」と冗談交じりに、でも非常に優しい様子で言う。そこにいた皆も微笑みながら「そうですね」と口々に賛同した。


 オフィスに戻る直前、コートのポケットに入れていた携帯に着信があった気がした。私は「すみません」と橋谷さんたちに断りを入れてから、場所を変えて携帯を耳に当てる。


「今日は何時に帰って来る?」と心配そうな声。


忠人さんの声だ。


「多分、十六時には帰れるわ」


 そう言うと「そうか、よかった」と安心した声が聞こえて、そこで電話は切れてしまった。でも、私は幸福を感じている。今日は、なるべく早く帰ろう。そう思って、オフィスに戻った。



 予測通り、三時半には仕事は終わった。橋谷さんたちに別れの挨拶をして、私はオフィスを後にする。まだ外は雨が降っていた。「今日もいい天気だね」という夫の言葉を思い出して、今日はこの雨を楽しもうと思う。


 赤い傘からぱたぱたと雨音が聞こえてくる。タンタンと私の足がコンクリートを叩く音。横断歩道の信号の音。街の喧騒。ビルの壁にある大型モニターから流れるニュースキャスターの声。

 風景は雨で滲んで見える。空は濁って暗い。それでも、今日はいい天気。

玄関を開ける。


「ただいま」


 そう言ったけれど、「おかえりなさい」は返ってこない。おかしい、と思って手元のボイスレコーダーを見る。その画面には充電切れを示すメッセージが記されていた。

 私は急いで部屋に上がり、充電器に接続する。右上の赤いランプが光り、充電が開始される。私は充電しながらトラックを少し遡る。


トラック17「おかえりなさい」

「ただいま」


 私はようやくほっとする。忠人さんの声がないと私は生きていけないな、と思う。もうこのボイスレコーダーのバッテリーも限界に近い。最近は一日も持たなくなっている。この音源を残すことはできないだろうか。でも、この機種の取り扱い説明書はとっくの昔にどこかへ行ってしまっている。


 トラック15「今日もお仕事、お疲れ様。コーヒーでも飲む?」

「そうね。そうしましょう」


 私は一人頷いて、コートを脱ぎ、キッチンへ向かう。電気ケトルに水をため、セットして私はラフな部屋着に着替え始める。電気ケトルの音がカチッとなり、ドリップコーヒーを入れた。良い香りと、暖かい温度、程よい苦みと酸味が私をじっくりと落ち着かせる。


 忘れられない味だ。忠人さんがいつも入れてくれたドリップコーヒー。


 トラック23「今日の晩御飯、どうしよう」

「ハンバーグ」


 考えるよりも先に口から言葉が出ていく。私は心から忠人さんのハンバーグが食べたいと思った。形がやや歪な楕円形で、厚みもバラバラで、ちょっと中の方も火が通ってないようなハンバーグ。


 でも、忠人さんはいない。けど、私はあの味を忘れない。ずっと、ずっと忘れないと決めた。私は赤い傘を差してスーパーへ買い物に行った。ひき肉、玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵……必要な食材をカゴに入れていく。


 家に戻ったら、すぐに料理を始めた。私は別に料理が下手なわけではなかったけれど、なるべく忠人さんの作ったものを思い出して再現する。楕円形をわざとへこませ、厚みは均等にならないように、焼き加減はレアっぽくした。


「いただきます」

トラック8「いただきます」


 ハンバーグは美味しかった。けど、忠人さんのハンバーグっぽくするには、もう少し表面は焦がさないといけない。

 食洗器に食器を入れ、私はお風呂に入って、寝支度を整えた。また明日も仕事がある。


「おやすみなさい」

トラック6「おやすみなさい」


 私と忠人さんは静かに眠りについた。



 朝日の匂いを嗅いで、私はダブルベッドの上で目を覚ました。近くですやすやと眠る声がする。忠人さんの寝息。


トラック52「すん、すん」


 規則正しく寝息を立てる忠人さんの寝声は、まるで赤子のような純粋さがある。

 私は掛け布団をずらさないように、するりとベッドを抜け出し、二月の冷たいフローリングに足をつけた。窓からはほのぼのとした朝日が射し込んでいる。今日は晴れ渡った青空。部屋の中からカチカチと時を刻む木製の枠に囲まれた四角い時計は、いつも通り午前七時半を指していた。


トラック2「おはよう」


 忠人さんの眠たげで、蕩けたような声。


「おはよう」


 私も朝の挨拶を返す。今日という一日がまた動き始めたように感じる。


トラック4「今日もいい天気だね」


 彼は心からのような声で言う。


「ほんと、いい天気ね」


 私はいつも通り、パジャマのまますぐにキッチンへ向かい、電気ケトルにコーヒー一杯分の水をため、お湯を沸かしている間にドリップコーヒーの準備をする。

一枚の山形食パンに満遍なく丁寧にマーガリンを塗り、オーブントースターに入れ、ジリジリとハンドルを捩じる。


 換気扇をうぉんと唸らせ、キッチンの下の棚から玉子焼き用のフライパンを取り出し、アニマ油を薄くひく。卵に砂糖、塩、マヨネーズを加えてかき混ぜ、熱したフライパンに薄く張りめぐらせていく。


 香ばしい豆の香りと、ジリジリと焼けるトーストの焦げっぽい匂い、シャワシャワと静かに少しずつ固まっていく玉子焼きを上手に巻いていく。


 そして電気ケトルが静かに湯気をたたせ、カチッと音を立てる時。忠人さんはいつも水色のパジャマのまま眠そうな瞳をして、タイミングを見計らったようにリビングに顔を出すのだ。そう、いつもなら。


「コーヒーいる?」

トラック19「うん。いただくよ」


 眠たげに忠人さんは言った。

 私はフライパンの火を止め、玉子焼きを皿に移す。あらかじめ千切りにしておいたキャベツを冷蔵庫から取り出し、添えるように盛り付ける。ちょうどその時、オーブントースターがチンと甲高い音を立てた。


 食卓に朝食を並べる。トースト、玉子焼きと千切りキャベツ、コーヒー。どこにでもある朝食。五百円で食べられそうなカフェのモーニングのような品揃え。


「いただきます」

トラック8「いただきます」


 二人で声を揃えて言う。シンプルで、けれども豊かな朝食。私たちは一緒に声を合わせて「いただきます」と言うことを欠かさない。一度だけ、独りぼっちで「いただきます」を言った日がある。


 忠人さんが交通事故で亡くなったあの日。私は目の前にある出来立ての料理たちから、急速に温かみが失われていくのを感じた。


 だから私は忠人さんと一緒に「いただきます」と言うことを欠かさない。そこに日常と安心と、豊かな朝食があると確信する。


「ごちそうさまでした」

トラック9「ごちそうさまでした」


 また二人で揃って言う。何の合図もなしに、ただ食べ終わって手を合わせれば、自然とその声は合わさって響く。私はその営みが、まるで奇跡のようにさえ思えてくる。


 そう。これは奇跡。人が亡くなった時、人が最初に忘れるのは「その人の声」だと言うけれど、私は絶対に忘れない。忘れることなんてできない。


 トラック4「今日もいい天気だね」


 そう彼は言う。窓の外の世界をさんさんと太陽が照り付けていた。


「そうね。今日もいい天気だわ」


 私は笑って賛同した。

 そこから朝の準備へ向かう。


トラック1「今日も綺麗だね」を聞くために。

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淡々と日々 チャガマ @tyagama-444

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