夜に出駆ける

すいま

2023年4月23日(日)

つまり、今日の話である。読む人によっては、昨日かも知れないし、10年前かもしれないが、俺にとっては今日の、執筆開始時の3時間ほど前の話である。


事の始まりは、俺の腹回りが急激に脂肪を蓄え、嫁がその肉を掴みながら恨み言をつらつらと吐き出したことである。何を隠そう、35歳の中年を過ぎた頃から例に漏れず肥満の道を突き進んでおり、3歳になる娘の人生を何歳まで見守れるかの瀬戸際にある健康体である。


かくして、夜のランニングを命ぜられ、意識の高い俺はまるで自分の意志であるかのようにランニングシューズを履き、考えなしの格好で外へ出かけたのである。時間にして21時15分ころだったと思う。


夜のランニングについては、2022年10月に初めてチャレンジし、なんとも不思議なことに連日の実施に成功した実績がある。おそらくランニングしながら聞いていたアニメ関連ラジオが功を奏したのだと思う。結果として、健康診断の結果がマイナス5歳という記録を叩き出したので、お墨付きのアクティビティなのであった。


これからここに書くのは事実なのだが、ここが小説である以上、多少の脚色は避けられないことは断っておく。とはいえ、ただの中年男のランニング記録を綴るつもりはない。

数年ぶりにここに筆、もといキーボードを取ったのは、それに値するドラマティックな出来事があったからだ。


事実であるといったからには、事実らしいことを書こうと思う。

ランニングコースは北海道札幌市白石区を通る「こころーど」と言われるサイクリングロードである。その東札幌側から始め、いい感じで折り返してくるというルートを取っている。


時は4月も後半に入り、北海道では桜が咲いている。いつもはさらに遅いゴールデンウィークがピークなのだが、今年は特に早く狂い咲きのようだ。

そんな夜桜を眺めながら、俺は足を踏み出した。

実は、昨年のランニングで死力を尽くした結果、膝に矢を受けてしまい最後は膝を折った。そのまま雪が降り、雪が降ればランニングなぞしている場合ではないので、春の日差しも麗らかな今日は、記念すべき復帰戦であったのだ。

つまり、最初は無理せずに軽く息が上がるくらいのウォーキングからである。


先に述べたドラマティックな出来事は歩きだして十数分で訪れた。


そのサイクリングロードは桜並木になっており、夜桜が白い街灯に照らされてその彩度を失っていた。それはまるで降りしきる雪が空中で時を止められたかのようで、風に揺れるさまはこの世界をも揺るがしているような気がした。

桜を見上げながら歩いていると、ぱっと夜空が開ける。

道が緩やかな登りに入り、しばらくして確かな負荷を感じると、目の前には「環状夢の橋」と呼ばれる大きな歩道橋がライトアップされていた。


それは写真を趣味にする俺から見ると、モデルを立たせて一枚撮りたくなるような光景であった。そして、俺が足を止めたのは、そんな光景の中に本当に一人の少女が立っていたからである。


それだけで異常だと思うだろうか?

21時に少女が一人歩道橋に佇んでいる。それがどれほど問題かと言われると、この都会では、ままありそうな話ではある。実際、ときおり通り過ぎる自称プロランナーや自転車乗りたちは一瞥するものの足を止める者はいなかった。


俺も止めた足を再び踏み出し、ゆっくりと少女の横を通り過ぎようとする。

近づいて少女の様子がはっきりしてくるにつれ、違和感がどんどんと強くなってくる。

少女と判断したのはその背格好からだったが、あからさまにセーラー服を着ていれば十中八九、少女だろう。足元にはスクールバッグ。体は歩道橋から真下を通る道路を見下ろす形で手すりに体を預けていた。


そして、通り過ぎる車の光に誘い込まれるように、少女の体はそのまま前のめりにバランスを崩していった。


というイメージが容易に湧いたのである。


「君」


俺は声をかけていた。しかし、次の瞬間考えたのは「事案」である。

ああ、これは警察に通報されて「中肉中背の怪しい男に声をかけられる事案発生」とホームページに載るやつだ。


周りを見回すが、運良く目撃者はいない。ともすれば今後の俺の運命はこの少女の出方次第になる。俺は「君」と声をかけたときに差し出した中途半端な右手を宙においたまま、少女の出方を伺った。


「なんですか?」


よし、対話の姿勢だ。問答無用で通報ではなくてよかった。

ホッとすると同時に思考も動き始める。

いや、動き始めたところでただの不審者であることに変わりはなかった。


「あ、いや、あの。そんなに身を乗り出したら危ないよ。落ちるかもしれないし。」


少女は俺のことを睨むように見つめていた。それに耐えられず目を逸らす。

逸らした先に少女の輪郭が見える。整った顔立ちに長く風に揺れる黒髪。

俺が現役高校生であれば、ぜひとも同じ教室で青春を過ごしたいと思うタイプの少女だった。


「落ちたら死にますか?」

「頭から落ちたらさすがに死ぬと思う。足からとか体を打ちつけたら死ねずに痛みに悶えることになるかな。動けずに車に轢かれるかもしれない。」

「私が、飛び降りて死ぬつもりだと思いますか?」

「7割位の確信で」


自転車が一台俺たちの後ろを通り過ぎた。通報しないでくれることを祈る。

自転車に気を取られていると、少女は手すりから体を離し、その場に座り込んだ。


「おじさんは死にたくならないの?」


不覚にも、少女の「おじさん」に傷ついた。後から思えば、「おじさんはそんな風貌で惨めで強欲が脂肪になったような体で街をうろつくなんて、死にたくならないんですか?」と言っていたのかもしれない。


「そりゃ、死にたくなる日もあるけど、なんとなく死なずにいたら、死ななくてもいいかって思うようになった」

「それは、おじさんが恵まれた環境にいるからですよ」

「そりゃそうだろうけど、環境は変わるし変えられる。死にたい場所なら逃げなくちゃ」


あぁ、なんとも無責任なことを。いくら俺がここで少女に声をかけて、ここで自殺を止めさせたところで明日は止められないかもしれない。俺がやっているのは、目の前でこの少女が死ぬところを見たくないというだけの自己満足だ。


「じゃあ10万」

「え?」

「10万くれたら、乗り越えられる」


金である。金は、問題を解決する一番簡単な方法である。

少女は俺を見上げながら、しかしその目は下衆な考えとは程遠く、縋るような懇願の眼差しであった。つまり、目元に涙を湛えていたのである。


「話せる事情?」


少女は首を振る。


「それがあれば、自殺は考えなくて済むの?」


少女は頷く。

あぁ、悲しきかな。もしこの少女の言うことが本当ならば、俺にはこの少女を救う力、という名の金がある。それなりの社会人をやっている俺には、10万円なんてちょっとATMに寄れば出てくる。もちろん、大金であるが、命より高いなんて微塵も思わない金額である。


「わかった。とりあえず、今は手持ちがない。明日まで待てるかい?またここで落ち合おう。10万円、返してくれるならすぐに用意するよ」


少女は驚いた顔で俺の顔を見つめ、「返さなきゃだめ?」と宣った。


「ダメに決まってるだろう。状況が改善したらゆっくりでいいから返しなさい。それで良ければ用意する」


少女は決意をしたように、視線を下げ、立ち上がり、お辞儀をした。


「ありがとうございます!」

「とりあえず、連絡先を」


聞けば高校生らしい。少女の名は便宜上、「あやせ」としておこう。

よもや、ダイエットのために出たウォーキングで女子高生とLINEの交換をするとは誰が思うだろうか。


その後、あやせに事情を聞いたが大事なところは濁すばかりで、聞けたことといえば家庭的に不安定なことや、学校でもうまく行っていないこと、将来は美容師になりたいこと、くらいであった。当然、10万円の使い道も聞けずじまいだった。不甲斐ない。


「それじゃ、また明日」


と手を振るあやせは、俺が歩くはずの方向へとトボトボと歩いていった。

あぁ、俺のウォーキング予定はまだ30分もあるが、あやせの後ろをついて歩くのも締まりがつかない。

俺は仕方なく、来た道を戻っては行きを繰り返し、いい具合の汗とともに帰路についた。


10万円と聞いたとき、俺には一つの思い出が蘇った。

高校の時、当時親友と言っていた奴が万単位のお金を貸してほしいと言ってきた。

当時の俺は、親友の頼みならばと3万ほど貸したのだが、その金は親友が彼女を妊娠させてしまったがために、堕胎の資金にするとのことだった。

その時に、「10万円必要なんだ」と聞いたのを覚えている。実際、10万で足りるのかは定かではないが、堕胎したのは事実のようで、後に俺は一人の命を奪ったのではないかという葛藤を抱えることになるのだ。


「はぁ、人生一日生きるごとに色々背負っていくもんだなぁ」


風に散るにはまだ早い桜の花びらを眺めて、つぶやいた。


かくして、俺は謎の少女と出会うというドラマティックな出来事に遭遇したがために、数年ぶりに文字を書いている。

ここで、俺にはいくつかの選択肢が存在する。

 1.約束通り、10万円を用意してあやせに渡し、ドラマを続ける

 2.約束を無視してウォーキングも挫折しドラマを終わらせる

 3.その他

その他は正直思いついていないので2択なのだが、正直こういう人生を待っていたところもある。あわよくば、読者の意見も聞いてみたいところだ。


こうして俺のウォーキング一日目は終わった。

風呂上がりにこの文章をしたためている今、すでに嫁と娘は寝息を立てている。

先程測った時点では、89.6kgと、思ったより太っていた。

ちなみに、この数字ほど太って見えはしないので、おおかた骨と筋肉が人より多いのではないかと思っている。


あと、昨日セイコーマートで買った「大きなメンチドーナツ」は、食べないと悪くなるので、苦渋の決断の上、胃袋に納めることにした。南無三。















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夜に出駆ける すいま @SuimA7

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